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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

波頭をつま先に海辺を【西山】 

波頭をつま先に海辺を【西山】


緑の木々の中をまっすぐ天へ伸びる270段の石段、途中で一休みして登りつくと、そこは福浦金刀比羅宮の社殿で、幕末に吉田松陰が彦島を巡視したとき、立ち寄っている地でもあります。

参拝ののち、再び海岸へ戻って西山方面へ進むと、彦島地区の下水道終末処理場が右にあります。
彦島地区の下水道水洗化率は昭和57年末で23パーセント。
水洗化可能地域では、改造工事の促進が望まれるところです。

北九州と本市を結ぶ七つのルートの一つ、山九渡船の桟橋を左にするあたりは、昭和60年度の完成を目指して、西山木材港の工事が進んでいます。

海岸沿いに歩いた道は、荒田バス停からバス道路を進み彦島八幡宮へ。
彦島八幡宮は彦島の氏神で、10月21日に執り行われる「サイ上り神事」は市指定文化財で、市内でも有名な祭りの一つです。

さらに進んで彦島西山町一丁目の高台は、砲台のあった跡地で、円形の土盛りの上に立つと、360度の展望の中に、北浦の海岸線、六連島、九州の工場群、山並みそして海峡を見渡すことが出来ます。

小さな入り江をめぐって、竹ノ子島へは、奇岩もあって、楽しい海岸めぐりのコースです。


下関市教育委員会編「わがふるさと見て歩き」昭和58年発行
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Posted on 2019/11/01 Fri. 10:19 [edit]

category: わがふるさと見て歩き

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竹崎の渡し場と伊崎(上) 

竹崎の渡し場と伊崎(上)

白石正一郎宅跡の少し向こうに信号がある。
国道を横切ってガソリンスタンドと日冷の冷蔵庫との間を海風に誘われて出ると下関漁港のはずれに桟橋がある。
彦島海士郷と六連島へ通う渡船の発着場だ。
かっては西細江、岬之町、唐戸、竹崎、黄紺川、本村、江の浦、弟子待、田の首、竹の子島など、港町らしくあちこちにあった渡し場は、次々に姿を消して今ではここと唐戸だけになってしまった。

彦島渡船は江戸時代からという永い歴史を持っていて明治時代には二丁櫓、三丁櫓による和船で五厘船とも呼ばれていた。
下関側の渡し場は現在のニチイのそば、長泉寺の山門の下や、伊崎の鈴ヶ森神社の石段下など何度か変わり、戦時中に今の場所に落ち着いた。

そして、個人経営から村営、町営、市営と変遷を重ねるたびに和船は汽船となり、船の大きさも二十トン、二十五トン、三十トンと形を変えたが、最近は市が手放したために私営渡船に逆戻りしている。
但し、同じ浮き桟橋を使う六連島渡船は依然として市営である。

この二つの渡船は下関漁港を彩る詩情をほうふつとさせ、NHKテレビも「小瀬戸昨今」と題して広く紹介したこともあった。

小瀬戸海峡は桟橋の右手前方にS字状に広がる静かな海で、かつては濁流さかまく急潮の瀬戸であった。
漁港や大和町の造成により往時の潮の流れは偲ぶべくもないが、ここから右岸に沿ってのびる伊崎の町には、古き良き時代の風情がそこここに残っている。

桟橋近くの県漁連冷蔵庫の横を海岸線に沿って西へ行こう。
鐵工所や造船所などが並びやがて行く手に彦島大橋が見え始める。
橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルでコンクリート橋としては世界第一の橋だ。

海を隔てた対岸に大きな岩が突き出ているが、これが伝説で知られる「きぬかけ岩」で平家の哀史を秘めている。「身投げ岩」とも呼ばれ、苔むした地蔵尊などが祀られており、この近郊では珍しい六面地蔵もある。

さて、こちらは伊崎。
突き当たりは小門造船で行き止まりとなる。
右手の丘の上には門柱に報済園と書かれてあるが、この屋敷と造船所の間を入ると月見稲荷が静かな佇まいをみせている。
ここの藤棚は開花期には訪れる人も多く、文化五年の鳥居や寛政年間に奉納された灯篭などがこの稲荷神社の歴史を物語ってくれる。

かつて小瀬戸海峡には、カタクチイワシが多く泳ぎ、これは「小門鰯」と呼ばれて下関の名物であったが、これを獲る漁法に「小門の夜炊き」が有名だった。
全国的にも岐阜長良川の鵜飼とともに広く知られていたという。
瀬戸の流れが月見稲荷の玉垣を洗っていた頃、この境内で盃を傾けながら眺めた夜炊きは、そざ壮観であっただろう。
しかし今は、造船所の塀に遮られて海は見えず、薄暗い境内は月見のイメージさえも打ち消してしまう。
造船所の機械音と油の匂いは実に不粋だ。

月見稲荷の奥は低い丘陵地帯に立ち並ぶ民家と、海岸沿いの工場群だけで何も見るべきものはない。
強いて言えば、根嶽岬の突端に架かる彦島大橋の威容と、そこから望む響灘の海の碧さや北九州工業地帯の煙突の林立くらいなものだろう。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/11/01 Fri. 10:04 [edit]

category: ぶらたん

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高杉晋作とは 

高杉晋作とは

高杉晋作は、天保10年(1839)、長州藩士高杉小忠太の長男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰に入門したのを機に希代の革命戦略家として頭角をあらわしました。文久2年(1862)には幕府貿易視察団に加わり清国上海渡り、ヨーロッパの半殖民地と化した街を見て衝撃を受け、文久3年(1863)6月、下関を外国艦から防備するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊となりました。元治元年(1864)8月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年12月には長府功山寺で挙兵し、藩論を倒幕に統一。さらに下関開港・薩長同盟締結を実現しました。慶応2年(1866)には、小倉戦争で奇兵隊などを指揮し、長州再征軍との戦いに勝利をおさめましたが、この時、持病の結核が悪化し、慶応3年(1867)4月14日、27歳の若さで亡くなりました。「面白きこともなき世を面白く」。まさにこの和歌の通り、 幕末の世を駈け抜けた高杉晋作。今もなお「維新の風雲児」としてその名が語られています。
(下関市教育委員会刊行「下関の地名」転載)

歴史が動いた瞬間「維新回天の挙兵」

元治元年(1864)、長州藩は存亡の危機にありました。7月の禁門の変後に朝敵へ失墜した長州藩に対し、第一次長州征討が実行されたのです。藩内は朝廷・幕府に恭順を示す保守派が主導権を握ると、征長軍が提示した三家老切腹、藩主の蟄居謹慎などを実行し、長州征討の早急な解決を模索しました。このとき保守派政権の対応に不満を抱き敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。晋作は、藩政の一新を求め、奇兵隊ほか多くの諸隊とたもとを分かち、決起を決意。12月16日の明け方、功山寺を訪れた晋作は、都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、「これよりは、長州男児の腕前をお目にかけ申すべし」と告げ、萩藩新地会所を急襲。後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。

下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/11/01 Fri. 09:45 [edit]

category: 下関あれこれ

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