彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
下関の人物 小暮 実千代
小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990)
大正7年、下関市彦島町で生まれました。
本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。
在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。
同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。
以後、「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものにしました。
出演した作品は「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」など300本以上を数えたほか、舞台やテレビでも活躍しています。
また、広告界に進出した俳優の先駆けで、マダムジュジュ・クリームや電気洗濯機の「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名です。
さらに、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地から保護司としての講演依頼が殺到、寸暇をさいて要望にこたえていました。
群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」講演会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組み、社交家で情けに厚い人でした。
平成2年に亡くなりました。享年72歳でした。
「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
大正7年、下関市彦島町で生まれました。
本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。
在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。
同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。
以後、「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものにしました。
出演した作品は「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」など300本以上を数えたほか、舞台やテレビでも活躍しています。
また、広告界に進出した俳優の先駆けで、マダムジュジュ・クリームや電気洗濯機の「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名です。
さらに、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地から保護司としての講演依頼が殺到、寸暇をさいて要望にこたえていました。
群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」講演会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組み、社交家で情けに厚い人でした。
平成2年に亡くなりました。享年72歳でした。
「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/11/30 Sat. 09:32 [edit]
category: 下関あれこれ
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廃止のあとで・・・路面電車のその後
廃止のあとで・・・路面電車のその後
昭和46年2月6日をもって電車は廃止されましたが、その後山陽電気軌道の路面電車はさまざまな場所で活躍しました。
301号車は下関市長府の忌宮神社境内の西側鳥居近くへ設置され”電車集会所”として活用されました。また、601号車は下関市立下関図書館に寄贈され、こどもたちの読書室として活用されました。残念ながら老朽化のため、301号車は昭和49年6月に、601号車は平成8年1月にそれぞれ解体撤去されています。
一方で車両7両が高知県の土佐電気鉄道へ譲渡され、引き続き路面電車として活躍しています。平成17年にはその内702号車が有志の方々により土佐電鉄の塗装から山陽電軌時代の塗装に復元され、約2年間「ふくふく下関号」として運行されました。
サンデン交通設立90周年特設ページより



昭和46年2月6日をもって電車は廃止されましたが、その後山陽電気軌道の路面電車はさまざまな場所で活躍しました。
301号車は下関市長府の忌宮神社境内の西側鳥居近くへ設置され”電車集会所”として活用されました。また、601号車は下関市立下関図書館に寄贈され、こどもたちの読書室として活用されました。残念ながら老朽化のため、301号車は昭和49年6月に、601号車は平成8年1月にそれぞれ解体撤去されています。
一方で車両7両が高知県の土佐電気鉄道へ譲渡され、引き続き路面電車として活躍しています。平成17年にはその内702号車が有志の方々により土佐電鉄の塗装から山陽電軌時代の塗装に復元され、約2年間「ふくふく下関号」として運行されました。
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Posted on 2019/11/29 Fri. 09:47 [edit]
category: 下関あれこれ
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身投げ岩
身投げ岩
寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、女性は戦に同行することを強制されませんでしたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。
壇ノ浦の合戦は罪もない彦島の漁師が担っていた平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって平家一門の滅亡で戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。
「新平家物語」によると義経は彦島に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。
平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。
多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。
ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。
身投げ岩の上にたつ桃崎稲荷大明神は800年たった今でも花が絶えることはありません。
寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、女性は戦に同行することを強制されませんでしたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。
壇ノ浦の合戦は罪もない彦島の漁師が担っていた平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって平家一門の滅亡で戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。
「新平家物語」によると義経は彦島に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。
平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。
多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。
ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。
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Posted on 2019/11/28 Thu. 09:07 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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28
電車の開業日は大正?昭和?
電車の開業日は大正?昭和?
山陽電気軌道株式会社は大正13年9月27日に設立されましたが、それから更に2年をかけて長府から下関に至る国道2号線の改良工事と併せて電車の軌道敷設が行われました。
沿革でも写真をご紹介しましたが、最初の電車8両は大八車に載せて、国鉄長府駅より牛と馬に引かせ、のらりのらりと運んだそうです。
そしてついに大正15年12月25日の開通を迎え、午前10時より開通報告祭を長府松原車庫にて挙行する予定でした。しかし、この日の深夜に大正天皇が崩御され、新しい元号が昭和と発表されました。
そのため山陽電軌は大正時代の最後の日、昭和時代の最初の日に開通したといえます。
翌昭和2年3月27日からはたくさんの花輪と電燈をしつらえた「花電車」が運転され、4月9日に改めて開通祝賀式が挙行されました。
写真は昭和3年4月の長関第二期線(松原~壇之浦間)の開通式の風景

山陽電気軌道株式会社は大正13年9月27日に設立されましたが、それから更に2年をかけて長府から下関に至る国道2号線の改良工事と併せて電車の軌道敷設が行われました。
沿革でも写真をご紹介しましたが、最初の電車8両は大八車に載せて、国鉄長府駅より牛と馬に引かせ、のらりのらりと運んだそうです。
そしてついに大正15年12月25日の開通を迎え、午前10時より開通報告祭を長府松原車庫にて挙行する予定でした。しかし、この日の深夜に大正天皇が崩御され、新しい元号が昭和と発表されました。
そのため山陽電軌は大正時代の最後の日、昭和時代の最初の日に開通したといえます。
翌昭和2年3月27日からはたくさんの花輪と電燈をしつらえた「花電車」が運転され、4月9日に改めて開通祝賀式が挙行されました。
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Posted on 2019/11/28 Thu. 08:50 [edit]
category: 下関あれこれ
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28
きぬかけ岩
きぬかけ岩
むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。
そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。
いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。
ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。
むかし、河野権之進という人が、田ノ首という村からの帰り道、小さな山すそにさしかかると、そこに今まで見たこともない流れがありました。
不思議に思って流れにさかのぼって行くと林の中に湧き水があり、妙齢の姫が衣を濯いでいました。それはそれは美しい姫で、権之進は思わず声をかけました。
『あなたさまは、どこからおいでなされたのかな』
すると姫は眼をうるませて答えました。
『私は、伊予の国に住んでいましたが、さる戦いで敗れ、夫と生き別れになりました。そこで、こうして諸国を尋ね歩いていますが、かいもく消息を掴めません。もし、何かお心当たりでもございましたらお教えください』
権之進は哀れに思って姫を自分の家に連れて帰り、その夜はゆっくり休ませました。
ところが翌朝、眼をさましてみると、姫の姿が見当たりません。驚いた権之進は八方手分けして捜しましたが、とうとう行く方をつかむことが出来ませんでした。
そのうち権之進は、忘れるともなく忘れてしまっていましたが、数十日たったある日、姫の衣が小戸の大岩にかけられてあるのを、浦びとが見つけて大騒ぎになりました。
そこで初めて権之進は、姫が急潮に身を投げたことを知り、その岩に地蔵尊を建てて冥福を祈りました。
いつの頃からか、浦びとたちは、姫が衣を濯いでいた流れを『姫ノ水』、衣がかけられてあった大岩を『きぬかけ岩』と呼ぶようになりました。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
亀山叢書『下関の伝説』や『馬関太平記』には、河野権之進のことを『河野通久の四代目権之進』と書かれている。
しかし権之進は、三代目河野通里の弟で、元仁元年(1224年)一月二十二日、園田一学の子息、学之助の長女と結婚し、西山に分家しており、四代目通久の伯父にあたる人物である。
ところで、言外に保元の乱を匂わせるこの話が、それから七、八十年を経た後もなお、妙齢の姫として登場させるおかしさがたまらない。
ここで注意しておきたいことは、一般には、身投げ石、身投げ岩、きぬかけ石、きぬかけ岩が、すべて一つの岩であると伝えられていることである。
しかし、多くの古老たちは、それは誤りだとくやしがる。
本当は小戸の大岩は六つに分かれていて、東から順次、本書に書いた順にその名が付されてあり、五番目が菩薩岩、六番目が地蔵岩だというのである。
ただ、これらの岩を総称した場合『身投げ岩』あるいは『きぬかけ岩』と呼んでいたに過ぎない。
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Posted on 2019/11/27 Wed. 11:09 [edit]
category: ひこしま昔ばなし
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