彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
光明寺と旧駅かいわい
光明寺と旧駅かいわい
日和山の表坂は石段が約二百四十段、下ったところに「日和山公園入口」の標識がある。
だから、本当はこの石段を登るべきですよ、と意味している訳だ。
しかし、そこは気ままなぶらたん氏、もう随分昔から、この階段は帰り道として利用する事にしている。
やはりこの丘は、殿峰墓碑前の坂道や、豊前田の谷、入江の丸山通り一角、高尾の交差点などから放射状に集まったいくつもの小路を辿りながら登るに限る。
そうだ、高杉さんの立つこの公園へは、光明寺の横の小路に迷い込んで静かな宅地の雰囲気を味わいながら行く事ができる。
その光明寺は細江町の中通り、日和山公園入口の東側約百メートルの所に建つ浄土真宗のお寺だ。
もともと豊浦郡の西市にあったが、内日、幡生と転じ、享保十七年、今から二百四十年前にここに移ったという。
山門下の石段は重量感のある立派な参道であったが、今は下半分がセメントに替えられ、その両脇も駐車場と、かつての風格が薄らいだのが惜しい。
境内に入ると正面の入母屋造りの本堂が覆いかぶさるように迫ってくる。
そばの大イチョウも負けじと天高く聳え立っていて、実はこれも市の指定による保存樹木だ。
右手の墓地に入ってみると、昭和二年と書かれた燈籠などもなどもあるが、何よりそこから眺める本堂の大屋根の美しさがたまらない。
扇を描いた見事な鬼瓦、そこから前後に伸びる両翼は優雅な曲線を作り出していて鳥の羽ばたきにも似ている。
扇面は、同寺の定紋に対する裏の紋ともいうべきもので、これは本堂屋根の大棟にも浮き出ていて印象的である。
本堂の左手は庫裏だが、その横にはひかり保育園があって、園児たちの明るい笑顔や歌声の震源地となっている。
また、山門のそばに建つ大きな石碑は、幕末から明治にかけての下関の教育界に鮮明な足跡を残した広井良図の顕彰碑である。
しかし、ところどころ損傷したりして極めて読みにくい。
良図は清末藩士で、萩明倫館や清末育英館の舎頭をつとめたほどの人物。
明治時代には現在の下関商高、豊浦高校などで教鞭をとり、西細江に硯湾学舎という私塾を開いたりした。
だが、こうして読めなくなった顕彰碑の前に立ってみると、今度はその脇に解説碑を建てなければならなくのではないかと思えてくる。
ところで光明寺といえば、少し幕末の事に詳しい人なら大抵思い出すのが、光明寺党であろう。
久坂玄瑞以下六十余名の有志隊で、文久三年五月の攘夷決行では先頭に立って外艦を砲撃した。
彼らはやがて高杉晋作の奇兵隊にその大半が包含されることになるが、急進的公家である中山忠光卿は光明寺党の志士たちを大変好もしく思っていたようで、狐狩りの獲物をさげて同寺に行き召し上がられたと白石正一郎も日記に書いている。
光明寺を出て大通りに出ると国道9号線だ。
この辺りは戦前には「山陽の浜」と呼ばれる下関第一の繁華街があった。
アセチレンガスとバラナの叩き売りがここの名物でもあった。
下関では今でもバナナをバラナと呼ぶ老人が多い。
この国道沿いにある労働会館は昔の山陽百貨店で昭和七年に出来た鉄筋コンクリートの六階建てデパートは当時の下関の自慢であった。
その隣は下関警察署で、かつては下関駅の真ん前に位置して、大いに睨みをきかしていた。
旧下関駅はこの警察署と文化会館の間の海より真正面にあった。
東海道から続く山陽本線のレールはこの駅で波型に曲げられ、本州の最端であることを示していた。
この駅前の古ぼけたビルは明治三十六年五月に我が国の鉄道ホテル第一号として開業した山陽ホテルで、大正十三年に再建されたものである。
九州や大陸への橋渡しとして、このホテルはほとんどの有名人が宿泊した。
ベーブルースも、ヘレンケラーもここに泊まったと、古い馬関っ子たちは自慢するが、この旧山陽ホテルの真正面、つまり警察署の南側にも、当時の駅前旅館がそのままの形で残っている。
木造三階建のこの宿には、今でも郷愁を抱く人が多いという。
歌舞伎座の玄関を思わせるような佇まいを、じっと眺めていると、この旧浜吉旅館と旧山陽ホテルの相対する二つの宿は、いつまでも残して欲しいものと思わずにはいられない。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
日和山の表坂は石段が約二百四十段、下ったところに「日和山公園入口」の標識がある。
だから、本当はこの石段を登るべきですよ、と意味している訳だ。
しかし、そこは気ままなぶらたん氏、もう随分昔から、この階段は帰り道として利用する事にしている。
やはりこの丘は、殿峰墓碑前の坂道や、豊前田の谷、入江の丸山通り一角、高尾の交差点などから放射状に集まったいくつもの小路を辿りながら登るに限る。
そうだ、高杉さんの立つこの公園へは、光明寺の横の小路に迷い込んで静かな宅地の雰囲気を味わいながら行く事ができる。
その光明寺は細江町の中通り、日和山公園入口の東側約百メートルの所に建つ浄土真宗のお寺だ。
もともと豊浦郡の西市にあったが、内日、幡生と転じ、享保十七年、今から二百四十年前にここに移ったという。
山門下の石段は重量感のある立派な参道であったが、今は下半分がセメントに替えられ、その両脇も駐車場と、かつての風格が薄らいだのが惜しい。
境内に入ると正面の入母屋造りの本堂が覆いかぶさるように迫ってくる。
そばの大イチョウも負けじと天高く聳え立っていて、実はこれも市の指定による保存樹木だ。
右手の墓地に入ってみると、昭和二年と書かれた燈籠などもなどもあるが、何よりそこから眺める本堂の大屋根の美しさがたまらない。
扇を描いた見事な鬼瓦、そこから前後に伸びる両翼は優雅な曲線を作り出していて鳥の羽ばたきにも似ている。
扇面は、同寺の定紋に対する裏の紋ともいうべきもので、これは本堂屋根の大棟にも浮き出ていて印象的である。
本堂の左手は庫裏だが、その横にはひかり保育園があって、園児たちの明るい笑顔や歌声の震源地となっている。
また、山門のそばに建つ大きな石碑は、幕末から明治にかけての下関の教育界に鮮明な足跡を残した広井良図の顕彰碑である。
しかし、ところどころ損傷したりして極めて読みにくい。
良図は清末藩士で、萩明倫館や清末育英館の舎頭をつとめたほどの人物。
明治時代には現在の下関商高、豊浦高校などで教鞭をとり、西細江に硯湾学舎という私塾を開いたりした。
だが、こうして読めなくなった顕彰碑の前に立ってみると、今度はその脇に解説碑を建てなければならなくのではないかと思えてくる。
ところで光明寺といえば、少し幕末の事に詳しい人なら大抵思い出すのが、光明寺党であろう。
久坂玄瑞以下六十余名の有志隊で、文久三年五月の攘夷決行では先頭に立って外艦を砲撃した。
彼らはやがて高杉晋作の奇兵隊にその大半が包含されることになるが、急進的公家である中山忠光卿は光明寺党の志士たちを大変好もしく思っていたようで、狐狩りの獲物をさげて同寺に行き召し上がられたと白石正一郎も日記に書いている。
光明寺を出て大通りに出ると国道9号線だ。
この辺りは戦前には「山陽の浜」と呼ばれる下関第一の繁華街があった。
アセチレンガスとバラナの叩き売りがここの名物でもあった。
下関では今でもバナナをバラナと呼ぶ老人が多い。
この国道沿いにある労働会館は昔の山陽百貨店で昭和七年に出来た鉄筋コンクリートの六階建てデパートは当時の下関の自慢であった。
その隣は下関警察署で、かつては下関駅の真ん前に位置して、大いに睨みをきかしていた。
旧下関駅はこの警察署と文化会館の間の海より真正面にあった。
東海道から続く山陽本線のレールはこの駅で波型に曲げられ、本州の最端であることを示していた。
この駅前の古ぼけたビルは明治三十六年五月に我が国の鉄道ホテル第一号として開業した山陽ホテルで、大正十三年に再建されたものである。
九州や大陸への橋渡しとして、このホテルはほとんどの有名人が宿泊した。
ベーブルースも、ヘレンケラーもここに泊まったと、古い馬関っ子たちは自慢するが、この旧山陽ホテルの真正面、つまり警察署の南側にも、当時の駅前旅館がそのままの形で残っている。
木造三階建のこの宿には、今でも郷愁を抱く人が多いという。
歌舞伎座の玄関を思わせるような佇まいを、じっと眺めていると、この旧浜吉旅館と旧山陽ホテルの相対する二つの宿は、いつまでも残して欲しいものと思わずにはいられない。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/10/30 Wed. 09:30 [edit]
category: ぶらたん
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勝安寺と高台の町々
勝安寺と高台の町々
旧下関駅前の市営駐車場一帯には戦後しばらくまで豪華なグリーンベルトが造られていた。
ここに立って正面の丘を見るとあの特徴ある長刀を握りしめた高杉晋作の銅像が見下ろしていた。
人々はその像を見上げては、本州の最果てにやってきた感慨に耽り、あるいは祖国への別れを惜しんだ。
また、関釜航路で帰国する人は六連島のあたりから台上の高杉像を探し求め、ようやく帰り着いたという喜びにしたるのであった。
それは高杉の銅像が下関の駅前に建っていたからこそ、市民にも馴染み深く、旅人たちには高杉と下関の結びつきが強く印象づけられたのであろう。
上野の西郷、土佐桂浜の龍馬とともに下関の高杉はこうして全国に知られるようになったが、駅が遠く西へ移ったというそれだけの理由で、シンボルとしての存在が薄れ始めたと思えてならない。
それは何も、銅像が陶像に変わったということではなく、やはり旅行者にとっての立地条件が悪くなったせいであろう。
もし、そうだとすれば、下関駅、唐戸、赤間神宮、火の山、長府城下町とつづく観光コースに、この日和山をぜひ加えて、歩いてでも登ってみたいと思わせる魅力づくりを検討する必要がありはしないか。
などと、ぶらたん氏、もっともらしい顔つきになるが、そんなことはどうでもいい。
さあ、先を急ごう。
文化会館の前の信号を渡る。
要通りを抜ける。
裏通りから更に中通りへ出て下関駅へ向かって歩こう。
右手に殿峰墓碑の案内柱があり、東光寺参道も岐れている。
その少し先は豊前田の谷だ、
そこから茶山口まではアーケードが続く商店街。
その少し西よりの婦人服店の真正面に真宗本願寺派の勝安寺がある。
もともと彦島にあった寺院だが、元禄年間にここに移ったと伝えられている。
約二十段の石段を登って山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏があって、商店街のど真ん中とは思えない静かさだ。
泰山木とザクロの古木が四季折々にその濃度を変えて、開花期のひそやかな美しさもまた格別である。
「村上先生感恩碑」と書かれた台座を含めば約三メートルの石碑は、下関の初等教育の基礎を作った功労者の一人、村上正介の頌徳碑。
村上正介は広井良図と共に多くの子弟を育てたが明治初年に開いた赤間義塾は現在の関西小学校の前身である。
その横に文政八年と刻まれた石灯籠が一対、その真ん中にはかなり風化した石文がある。
しかし、刻んであるものが俳句か和歌か判読できない。
また、ここの墓地には、文政元年に「長門国志」三十三巻を書き残した中村徳美の墓があると伝えられているが、見当たらない。
本堂左手の墓地のイチョウの木はかなり高く大きいし、それよりもっと高く聳え立っている大イチョウは本堂の裏手にあるが、そのことは先に笹山への道筋にも書いた。
勝安寺に遊んだ後は、そのまま下関駅へ向かってもいいだろう。
だが、もしも、まだ歩き足りないなとお思いなら、豊前田の谷まで戻って、笹山、東方司、八幡町などの複雑な高台の辻々を歩いてみるのもまた楽しい。
まず、谷筋の坂道を登ってみよう。
紅葉稲荷への参道を右手に、笹山から下ってきた小道を左にやり過ごし、少し登ると古い家並みに挟まれて朱塗りの鳥居が立っている。
扁額には「最上位政徳天王」と書かれてあるが、鳥居の奥の突き当たりの家には「最上稲荷」となっていて、なんとなくその由緒などを訊ねてみたい雰囲気がある。
鳥居の前を更に登るとやがて峠に出るが、その少し手前の酒屋の角を左に入ってみよう。
正面に天理教硯海分教会への矢印があり、それに沿って登ればインマヌエルキリスト教会が右手奥にあるが、そのまままっすぐに進むと下り坂となる。
その下りかけたあたりの角の店を左に折れると笹山一-27の標識のそばに庚申塚がひっそりと立っている。
町に住む人々にとってはすでに伝説的でさえある庚申信仰がこのような台地の一角では、まだまだ立派に生き続けているのだ。
そこは変則四差路となっていて、どの路地を歩いてもそれぞれに趣があって楽しいが、再び先ほどの店まで戻って旧東方司の長い下り坂を味わうのもいい。
狭く細い急坂で、最も下関らしい風情を醸し出してくれる町筋でもある。
このまま下れば茶山市場の少し上の理髪店のそばに出るが、途中から左手の大きく生い茂った樹へつづく石段を登って安政年間と書かれた童女を供養する地蔵尊を拝んで薬剤師会館前から茶山商店街へ出てもいい。
また、旧八幡町を楽しみたいと思うなら、豊前田町の谷の峠近く、長崎町と関西町との境界の小路を左へ折れてみるのがよかろう。
細く入り組んだ道で、とんとんと石段を登るとすぐに下り始める。
その途中、右手の石段の上に小さな鳥居が見える。
ついでに登ってみよう。
「正一位勇覚稲荷、松川稲荷、古川稲荷」と一つの石に三つの名前を併記した祠がある。
他に社殿はなく実にあっけらかんとしているが、鳥居のそばには文政年間に奉納された手洗鉢があるので、藩制時代には多くの信者を集めた由緒あるお稲荷さんであったのだろう。
すぐ下には関西小学校、右手の丘は日和山で、遠くに火の山や竜王山が望める。
そして、鳥居の下の小路を西へ行けば突き当たりに本願寺派の大願寺、ここの住職は法正院や常楽院の住職らと共に山口県児童文化研究会を主宰し、児童の健全育成のために献しつづけている。
しかし極めて地道な活動であり売名でないことをモットーにしているところから、案外、知られていない。
大願寺の前の石段を下って右に折れると、笹山や旧東方司と同じように長い下り坂がつづく。
右側は明るくどっしりした石垣の列で、左側は道路の高さに家の屋根が並んでいたりしてこの風景は珍しい。
そんな坂道をのんびり下っていけば、やがて上条の交差点に出るが、その少し手前の風呂屋の煙突の脇へ向かって路地に入り込めば、茶山と長門市場の間に出る。
買い物公園「グリーンモール」を通って下関駅へはそこから五分もあれば充分。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
旧下関駅前の市営駐車場一帯には戦後しばらくまで豪華なグリーンベルトが造られていた。
ここに立って正面の丘を見るとあの特徴ある長刀を握りしめた高杉晋作の銅像が見下ろしていた。
人々はその像を見上げては、本州の最果てにやってきた感慨に耽り、あるいは祖国への別れを惜しんだ。
また、関釜航路で帰国する人は六連島のあたりから台上の高杉像を探し求め、ようやく帰り着いたという喜びにしたるのであった。
それは高杉の銅像が下関の駅前に建っていたからこそ、市民にも馴染み深く、旅人たちには高杉と下関の結びつきが強く印象づけられたのであろう。
上野の西郷、土佐桂浜の龍馬とともに下関の高杉はこうして全国に知られるようになったが、駅が遠く西へ移ったというそれだけの理由で、シンボルとしての存在が薄れ始めたと思えてならない。
それは何も、銅像が陶像に変わったということではなく、やはり旅行者にとっての立地条件が悪くなったせいであろう。
もし、そうだとすれば、下関駅、唐戸、赤間神宮、火の山、長府城下町とつづく観光コースに、この日和山をぜひ加えて、歩いてでも登ってみたいと思わせる魅力づくりを検討する必要がありはしないか。
などと、ぶらたん氏、もっともらしい顔つきになるが、そんなことはどうでもいい。
さあ、先を急ごう。
文化会館の前の信号を渡る。
要通りを抜ける。
裏通りから更に中通りへ出て下関駅へ向かって歩こう。
右手に殿峰墓碑の案内柱があり、東光寺参道も岐れている。
その少し先は豊前田の谷だ、
そこから茶山口まではアーケードが続く商店街。
その少し西よりの婦人服店の真正面に真宗本願寺派の勝安寺がある。
もともと彦島にあった寺院だが、元禄年間にここに移ったと伝えられている。
約二十段の石段を登って山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏があって、商店街のど真ん中とは思えない静かさだ。
泰山木とザクロの古木が四季折々にその濃度を変えて、開花期のひそやかな美しさもまた格別である。
「村上先生感恩碑」と書かれた台座を含めば約三メートルの石碑は、下関の初等教育の基礎を作った功労者の一人、村上正介の頌徳碑。
村上正介は広井良図と共に多くの子弟を育てたが明治初年に開いた赤間義塾は現在の関西小学校の前身である。
その横に文政八年と刻まれた石灯籠が一対、その真ん中にはかなり風化した石文がある。
しかし、刻んであるものが俳句か和歌か判読できない。
また、ここの墓地には、文政元年に「長門国志」三十三巻を書き残した中村徳美の墓があると伝えられているが、見当たらない。
本堂左手の墓地のイチョウの木はかなり高く大きいし、それよりもっと高く聳え立っている大イチョウは本堂の裏手にあるが、そのことは先に笹山への道筋にも書いた。
勝安寺に遊んだ後は、そのまま下関駅へ向かってもいいだろう。
だが、もしも、まだ歩き足りないなとお思いなら、豊前田の谷まで戻って、笹山、東方司、八幡町などの複雑な高台の辻々を歩いてみるのもまた楽しい。
まず、谷筋の坂道を登ってみよう。
紅葉稲荷への参道を右手に、笹山から下ってきた小道を左にやり過ごし、少し登ると古い家並みに挟まれて朱塗りの鳥居が立っている。
扁額には「最上位政徳天王」と書かれてあるが、鳥居の奥の突き当たりの家には「最上稲荷」となっていて、なんとなくその由緒などを訊ねてみたい雰囲気がある。
鳥居の前を更に登るとやがて峠に出るが、その少し手前の酒屋の角を左に入ってみよう。
正面に天理教硯海分教会への矢印があり、それに沿って登ればインマヌエルキリスト教会が右手奥にあるが、そのまままっすぐに進むと下り坂となる。
その下りかけたあたりの角の店を左に折れると笹山一-27の標識のそばに庚申塚がひっそりと立っている。
町に住む人々にとってはすでに伝説的でさえある庚申信仰がこのような台地の一角では、まだまだ立派に生き続けているのだ。
そこは変則四差路となっていて、どの路地を歩いてもそれぞれに趣があって楽しいが、再び先ほどの店まで戻って旧東方司の長い下り坂を味わうのもいい。
狭く細い急坂で、最も下関らしい風情を醸し出してくれる町筋でもある。
このまま下れば茶山市場の少し上の理髪店のそばに出るが、途中から左手の大きく生い茂った樹へつづく石段を登って安政年間と書かれた童女を供養する地蔵尊を拝んで薬剤師会館前から茶山商店街へ出てもいい。
また、旧八幡町を楽しみたいと思うなら、豊前田町の谷の峠近く、長崎町と関西町との境界の小路を左へ折れてみるのがよかろう。
細く入り組んだ道で、とんとんと石段を登るとすぐに下り始める。
その途中、右手の石段の上に小さな鳥居が見える。
ついでに登ってみよう。
「正一位勇覚稲荷、松川稲荷、古川稲荷」と一つの石に三つの名前を併記した祠がある。
他に社殿はなく実にあっけらかんとしているが、鳥居のそばには文政年間に奉納された手洗鉢があるので、藩制時代には多くの信者を集めた由緒あるお稲荷さんであったのだろう。
すぐ下には関西小学校、右手の丘は日和山で、遠くに火の山や竜王山が望める。
そして、鳥居の下の小路を西へ行けば突き当たりに本願寺派の大願寺、ここの住職は法正院や常楽院の住職らと共に山口県児童文化研究会を主宰し、児童の健全育成のために献しつづけている。
しかし極めて地道な活動であり売名でないことをモットーにしているところから、案外、知られていない。
大願寺の前の石段を下って右に折れると、笹山や旧東方司と同じように長い下り坂がつづく。
右側は明るくどっしりした石垣の列で、左側は道路の高さに家の屋根が並んでいたりしてこの風景は珍しい。
そんな坂道をのんびり下っていけば、やがて上条の交差点に出るが、その少し手前の風呂屋の煙突の脇へ向かって路地に入り込めば、茶山と長門市場の間に出る。
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Posted on 2019/10/29 Tue. 10:09 [edit]
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耳なし芳一伝説
耳なし芳一伝説
芳一は阿弥陀寺(後出)の盲目の僧。琵琶の達人。中でも「平家物語」の弾き語りは見事で、幼い頃から師匠をしのぐ腕前があったとされています。
ある日、芳一は深夜外出を繰り返し、不信に感じた僧たちが芳一の行先を探したところ、七盛塚(平家一門の墓のこと。後出)の前で平家物語を奏でていたところを発見されます。住職は怨霊を取り除くため、芳一の身体中に般若心経を書き綴りました。ところが芳一の両耳に経文が書かれていなかったため、怨霊がそれに気付き、その両耳をちぎって立ち去りました。以降は怨霊が現れることはなくなりましたが、いつからとなく「耳なし芳一」といわれるようになったものです。
しものせき観光ホームページより
赤間神宮は、下関を訪れる観光客のほとんどの方々が見学する、下関を代表する観光地のひとつ。源平壇之浦の合戦で平家一門が敗れ、二位尼(にいのあま)に抱かれ、御歳8歳で入水された安徳天皇が祀られています。その豪華な水天門は、入水された安徳帝を慰めるために竜宮城に見立てて建てられており、毎年5月3日には、絢爛豪華な「先帝祭上臈参拝」の行事が行われます。隣接する地には天皇陵「安徳天皇阿弥陀寺御陵」があります。
一方で赤間神宮は、貞観元年(859)大安寺の僧行教が開山した「阿弥陀寺」というお寺が前身です。
寿永4年(1185)3月24日、源平壇之浦の合戦において入水崩御された幼帝安徳天皇のご尊体を紅石山のふもとに埋葬し、その後、建久2年(1191)閏12月14日、後鳥羽天皇が長門国に勅して御陵上に御影堂を建立し、安徳帝の菩提を弔ったとされています。
明治維新の変革によって起こった廃仏毀釈の風潮にともない、明治3年(1870)5月、阿弥陀寺を廃して御影堂が天皇社と改称されます。明治8年に赤間宮と改称、昭和15年官幣大社となり赤間神宮となりました。
琵琶法師「耳なし芳一」は、赤間神宮の前身、「阿弥陀寺」の僧侶だったのです。
芳一は阿弥陀寺(後出)の盲目の僧。琵琶の達人。中でも「平家物語」の弾き語りは見事で、幼い頃から師匠をしのぐ腕前があったとされています。
ある日、芳一は深夜外出を繰り返し、不信に感じた僧たちが芳一の行先を探したところ、七盛塚(平家一門の墓のこと。後出)の前で平家物語を奏でていたところを発見されます。住職は怨霊を取り除くため、芳一の身体中に般若心経を書き綴りました。ところが芳一の両耳に経文が書かれていなかったため、怨霊がそれに気付き、その両耳をちぎって立ち去りました。以降は怨霊が現れることはなくなりましたが、いつからとなく「耳なし芳一」といわれるようになったものです。
しものせき観光ホームページより
赤間神宮は、下関を訪れる観光客のほとんどの方々が見学する、下関を代表する観光地のひとつ。源平壇之浦の合戦で平家一門が敗れ、二位尼(にいのあま)に抱かれ、御歳8歳で入水された安徳天皇が祀られています。その豪華な水天門は、入水された安徳帝を慰めるために竜宮城に見立てて建てられており、毎年5月3日には、絢爛豪華な「先帝祭上臈参拝」の行事が行われます。隣接する地には天皇陵「安徳天皇阿弥陀寺御陵」があります。
一方で赤間神宮は、貞観元年(859)大安寺の僧行教が開山した「阿弥陀寺」というお寺が前身です。
寿永4年(1185)3月24日、源平壇之浦の合戦において入水崩御された幼帝安徳天皇のご尊体を紅石山のふもとに埋葬し、その後、建久2年(1191)閏12月14日、後鳥羽天皇が長門国に勅して御陵上に御影堂を建立し、安徳帝の菩提を弔ったとされています。
明治維新の変革によって起こった廃仏毀釈の風潮にともない、明治3年(1870)5月、阿弥陀寺を廃して御影堂が天皇社と改称されます。明治8年に赤間宮と改称、昭和15年官幣大社となり赤間神宮となりました。
琵琶法師「耳なし芳一」は、赤間神宮の前身、「阿弥陀寺」の僧侶だったのです。
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Posted on 2019/10/29 Tue. 09:17 [edit]
category: 下関あれこれ
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高杉東行像と崑崙丸碑
高杉東行像と崑崙丸碑
日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。
高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。
高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。
この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。
まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す
この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。
これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。
石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。
谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける
まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ
谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。
ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。
この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。
結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。
おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり
さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。
この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。
旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。
高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。
その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。
つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。
関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。
このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
日和山公園の中央に大きく聳え立っているのは、長府の功山寺に挙兵して長州の藩論を覆し明治維新を早める動機を作り出してくれた東行高杉晋作の像である。
高杉は萩藩士だが、下関で奇兵隊を結成して以来、古い因習に苛まれることの少ないこの商業と港の町の底抜けな明るさに魅せられたのか。その晩年を下関とともに生きた。
だから、決起を前に書き残した手紙にも「死して赤間関の鬼となり、赤間関の鎮主とならん」という意味の字句がある。
高杉の像は、昭和十一年に銅像として建てられたが戦時中に供出され、現在のものは戦後、備前焼で復元された像、つまり陶像である。
作者は伊勢陽山、かつて銅像が建っていた台座に昭和三十一年四月に据えられた。
その台座に刻まれた「高杉晋作像」という字は昭和のお殿様である毛利元昭の書だから、感激家の東行、地下で感涙にむせびつづけていることだろう。
この像の脇には大きな石文がある。
上下二段に区切って、上には高杉の詩が、そして下には野村望東尼の歌が刻まれ、二人の絆が思い出される。
まず高杉の詩は、元治元年大庭伝七に宛てた手紙の中にある憤怒の叫びである。
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高説成功略 欲学二人作一人
国を売り君を囚え至らざるなし
生を捨て義を取るはこれこのとき
天祥の高説 成功の略
二人を学んで一人とならんと欲す
この場合の天祥は文天祥、成功は鄭成功で、二人とも中国の忠臣である。
これは、俗論党の天下を憂えて怒り心頭の末に書いた詩だが、このとき、高杉はすでに死を覚悟していて、自分の墓碑銘や借財の返済などを頼み「陣中で楽しむために頼山陽の筆による小屏風を盗んできたが許してくれ」という意味のことまで書いている。
石文の下の段は野村望東尼の歌で、これは高杉が俗論党の手を逃れて福岡平尾山荘の望東尼にかくまわれている間に長州藩では三家老と四参謀が処刑され、それを聞いた高杉が蜂起を決意して下関に帰る際に着物と一緒に贈ったものである。
谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに
形見として夜もすがら
旅衣を縫ひて贈りける
まごころを つくしのきぬは 国のため
たちかへるべき 衣手にせよ
谷梅ぬし、というのは高杉の変名で、谷梅之助といっていたからである。
ところで、望東尼は、高杉をかくまった罪により大分の姫島に流されるが、それを聞いた高杉は直ちに牢破りをして救出し白石正一郎の屋敷に保護する。
この石文のそばに黒っぽい石が三つ並んでいて「野村望東尼ゆかりの石、姫島産」とか「姫島石」などと刻まれているのはそんな経緯があるからだ。
結局高杉は明治維新を待たずして慶応三年四月十四日、満二十七歳八ヶ月の若さで永眠するが、そのときの辞世も上の句を読んだところで力尽きてしまったため、望東尼が続けたのであった。
おもしろきことも無き世を面白く
すみなすものは心なりけり
さて、高杉晋作像の東側には「重村禎介、吉村藤舟両先覚顕彰碑」という立派な碑が建っている。
こうした人々の事跡を顕彰し後世に遺してやることは大変結構だ。
だが、ぶらたん氏、いささか物足りない。
この種の顕彰碑とか頌徳碑などは大抵、その人の名前と建設発起人などの団体名が刻まれているのにすぎないからだ。
これではあまりにも不親切ではないだろうか。
何も多く書く必要はない。
例えばこの顕彰碑であれば裏面に、
重山 下関二千年史 編著
吉村 下関郷土物語二十冊 編者
だけでも彫り加えてあれば、碑の前に佇む人々も納得するだろう。
ただ、褒め称えるだけで多額の金を費やす訳ではないはずで、その人の成し遂げた功績を書き残すのが目的なら、名前よりもむしろその足跡を大きく刻んで良いくらいだ。
旅の途中に立ち寄った寺院や公園などで、知らない人の銅像や頌徳碑の前に立ったとき、この人を知らないのはお前の責任だと、いつもぶらたん氏、叱られる気持ちに襲われる。
高杉晋作像の前の石段を降りたところにある灯篭はなかなか立派なものだが、「つかずの灯篭」と呼ばれている。
約百二十年くらい前、つまり幕末の頃には壇ノ浦の海岸に建っていた灯明台であるが、長府藩報国隊が貴船町の招魂場に移そうとして事件が起こった。
それを運搬する際に、裏町の吉信という料理屋の格子にぶっつかり、かなり家を傷めたため吉信の主人が何か言おうとしたところを、報国隊士が勢いに乗じて斬ってしまった。
その吉信の主人の霊が乗り移ったためか、この灯篭はいくら火をつけてもすぐに消えるので隊士たちも気味悪がって路傍にうち捨てていたという。
それが昭和十一年に高杉像が出来た時、ここに移されたのである。
つかずの灯篭が建っている公園広場の南側の出っぱなに、「崑崙丸慰霊碑」がある。
関釜連絡船については先に「鉄道桟橋跡」の項で簡単ながらも触れたので、ここでは慰霊の碑文を読むだけにとどめよう。
関釜連絡船、崑崙丸七千八百総屯は太平洋戦争最中昭和十八年十月四日二十二時五分、下関鉄道桟橋を出港し釜山に向け航行中、翌五日一時二十分、沖島北東十海里の地点にて潜水艦の魚雷攻撃を受け一瞬にして沈没、乗組員二十四名、船内警察官三名、税関史二名、海軍警備兵二名、乗客四百五十一名は船と運命を共にし悲壮な最期を遂ぐ。
ここに有志一同の芳志により、かっての関釜航路の基地、下関港を見下ろす日和山公園に碑を建て、これら犠牲者の冥福を衷心より祈り、併せて永遠の平和を希う。
このそばに長い石段が下っているが、本当はこれが日和山の正面階段である。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/10/28 Mon. 09:32 [edit]
category: ぶらたん
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きぬかけ岩
源平ゆかりの地 きぬかけ岩
源平壇之浦の合戦に敗れ、入水した平家の武将の妻が、彦島に流れ着いたものの、夫を慕い、ある風の強い日に、この岩に衣をかけて小門(おど)海峡へ身を投げてしまいました。
その後強風が収まったときにその衣が風に飛ばされることもなく、くっついていました。
それから、誰となくこの岩を「きぬかけ岩」と呼ぶようになりました。
源平壇之浦の合戦に敗れ、入水した平家の武将の妻が、彦島に流れ着いたものの、夫を慕い、ある風の強い日に、この岩に衣をかけて小門(おど)海峡へ身を投げてしまいました。
その後強風が収まったときにその衣が風に飛ばされることもなく、くっついていました。
それから、誰となくこの岩を「きぬかけ岩」と呼ぶようになりました。
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Posted on 2019/10/28 Mon. 09:20 [edit]
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