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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

曲がってなお行けず 

曲がってなお行けず

懐古趣味に浸ってか、ぶらたん氏、いささか下関駅で時間を潰した感がある。
ぼつぼつ駅の外へ出てみよう。

東口に立つと、タクシーの行列、有料駐車場、黒っぽい銀行のビルなどが眼に飛び込んで、車の流れの手前に小さな三角緑地が見える。
観光案内板があってフェニックスとソテツが植えられている。
以前はもっと広い、ゆったりとした憩いの場であったが、駐車場や地下道入り口などに取られて見るからに肩身の狭い思いをしているように感じられる。

この中のソテツは西細江の旧駅前に、明治四十年前後に植えられたものだというから、すでに六十数年もの間、市民を見つめてきたということになる。
それをここに移植したのは戦後のことで、「全通記念木・明治三十四年五月」と彫られている石碑も一緒に移されている。

二本のフェニックスは昭和二十四年に三本十万円で宮崎県の業者から購入したものだが、一本は間もなく枯れてしまったという。

フェニックスは、今でこそ宇部市などの街路樹で、立派に育ち珍しく無くなってしまったが、当時、本州でフェニックスを植えたのは下関だけであった。

ところで、このフェニックスの蔭に川柳を刻んだ句碑があることは、毎日ここを何度も通る市民でさえ知らない人が多い。
「人生の行路」と題したその句碑には、藤井米三という人の次の川柳が彫られている。

真っ直ぐに行けず  曲がってなおいけず

これには、関門トンネル開通以前の下関という土地柄を、人生の機微に照らし合わせた面白さが感じられて、市内の数多い句碑の中でも、ぶらたん氏が好む碑のひとつである。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/09/23 Mon. 09:51 [edit]

category: ぶらたん

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関釜連絡船の慰霊碑 

関釜連絡船の慰霊碑
帰郷断たれた無念刻む


  1905年9月、当時の山陽鉄道株式会社が下関-釜山間に定期航路を開設して、来年で100年がたとうとしている。1945年までの40年の歴史は、日本の大陸膨張政策・植民地統治と密接な関連をもち、一旗揚げようとした大量の日本人をアジア各地へ、そして日本に生活の糧を求め、あるいはまた強制連行された朝鮮の人々を日本へ運んだのである。

  現在下関市には、当時の関釜連絡船を想い起こさせる具体的な遺物としては、旧鉄道省直営で名高かった山陽ホテル(1924年再築)の建物が市内細江町に残っているに過ぎない。そこにはベーブルースやヘレンケラーなどの著名な人士が泊まったとされており、それらのVIPが使用した出入口跡も見ることができる。しかし、朝鮮の人々はそのようなホテルに泊まるべくもなく、就労先の決まった人は直ちに次の列車に乗って下関をあとにし、また当てもなく渡日した人々は、1928年に山口県社会事業協会によって開設された昭和館(当時大坪町、現在は跡地のみ)に一時的に身を寄せ、日本語教育や就職先を提供された。

  このほか船舶関係の記念碑では、市内の海峡ゆめ広場に「下関鉄道桟橋跡」として関釜連絡船の船名レリーフがある。その船名をたどっていくと、壱岐丸・対馬丸からはじまり、高麗丸・新羅丸という旧国名、景福丸・徳寿丸という王宮名、さらに金剛丸・興安丸・天山丸・崑崙丸という山岳名が続く。とくに山岳名は日本が大陸深く膨張していくさまを表していよう。

  船舶に関してはまた、上記の興安丸の碇が岬之町の旧海岸端に置かれているほか、1943年10月に潜水艦の攻撃を受けて沈没した崑崙丸の慰霊碑が、1960年に日和山公園に建てられている。1943年10月12日付『朝日新聞』には、一等17名、二等137名、三等296名の乗船客中、遭難した人々の名前が掲載されている(三等は東日本関係者のみ)。日本に働きに来て帰郷途中の朝鮮の人々もたくさん犠牲になったことが、その創氏名からうかがうことができる。

  現在では、「はまゆう」と「星希」の二隻のフェリーが、年間16万人を乗せて関釜間を航行している。今後も平和裏のうちに、末長く二国間を往来し続けて欲しいものである。

木村健二・在日コリアン歴史資料館調査委員会調査委員=下関市大教授
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Posted on 2019/09/23 Mon. 09:41 [edit]

category: 下関あれこれ

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