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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より 

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/09/30 Mon. 12:20 [edit]

category: ぶらたん

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光明寺(こうみょうじ) 

光明寺(こうみょうじ)

文久3年(1863)4月、久坂玄端は各地の浪人などを引き連れ、京都から下関へ帰り長泉寺(ちょうせんじ)を宿舎にしましたが、のちに細江の光明寺にうつりました。
この一団は「光明寺党」と呼ばれ、高杉晋作が奇兵隊を結成した際、その母体となりました。

所在地下関市細江町1丁目7-10
交通 JR下関駅から徒歩15分
お問合せ 083-222-0156


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/09/30 Mon. 11:25 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関駅周辺下駄ばきぶらたん より 

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/09/29 Sun. 11:19 [edit]

category: ぶらたん

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航送船の碑 

航送船の碑

フェニックスが生い茂る三角緑地には「ふく笛」をあしらった歓迎塔に「おいでませ」の文字が旅人を待っている。
フク笛は下関を代表するユーモラスな郷土玩具だから、これは駅前にふさわしい。
しかし「おいでませ」というのは「山口ことば」として広く宣伝されてはいても、ここ下関で使う人はまずいない。
むしろ「おいでなんせえ」とか「よう来ちゃったのう」などと書くべきだろう。
そんなことを考えながら散歩の足を進めてみよう。

緑地の横を国道が走っていて下関郵便局あたりから山口銀行近くへかけて。いつも車が渋滞している。
四十年ごろまで、ここには山陽本線の踏切があった。
列車の通過で一度び閉まると、なかなか開かなくて通行人はイライラしながら踏切警手の手旗を見つめていた。

その踏切の少し駅より、専門大店とサンデン営業所のあたりであったろうか、ここには国鉄の機関区があった。
旧下関駅に入ってくるSLたちは、この円型工場で整備点検され、元気一杯、山陽本線、山陰本線をひた走った。
そして、機関区といえば野球で鳴らした関鉄を思い出す人も多い。
関鉄は正式には下関鉄道管理局で、大洋漁業、全下関などのノンプロ球団とともに活躍し、中等野球の下関商業と並んで熱狂的なファンを集めていた。

機関区の少し南側は海であった。
このあたりの地形は度重なる埋め立てにより、人々の記憶もその年代によって異なる。

ここには、ついこの間まで鉄道病院があったが、今は下関駅のブラットフォーム寄りに移っている。
「シーモール」という大規模商店街が建設されるために立ち退いたものだが、その旧鉄道病院の玄関脇に建っていた「準鉄道記念物・車両航送発祥の地」の大きな石碑も一緒に片付けられてしまった。

下関駅の話によれば、この記念碑の位置だけは変えるわけにゆかないので、シーモールが完成した暁には、元の場所に建てることになっているとか。

さて「車両航送」というのは、貨物航送船、関門航送船、あるいは外輪船などと呼ばれ親しまれた関門海峡の風物詩のことである。
まず、碑面の説明文を読んでみよう。

「本州・九州間の国鉄貨物輸送に大変革をもたらした貨車航送は、下関・小森江間の航送作業を請け負った宮本高次が明治四十四年三月一日から試航送を行い同年十月一日鉄道院はこの航路を関森航路として正式に営業を開始しました。
宮本高次は、かねてから貨車航送について深い関心を寄せ航送作業を請け負うに当たり私財を投じて七トン貨車三両を積載する艀三隻とこれを曳航する小発蒸気汽船三隻を建造し当時の困難な海陸連絡輸送を打開しました。
この貨車航送は我が国の車両航送のはじまりであり、当時の下関側発着場がこの地点です。

現在、日本はフェリー時代を迎えているが、これは今から約七十年前も前の画期的な事業であった。
それまでの本州から九州への貨物輸送は、下関で貨車からおろした荷物がほとんど人力によって艀に移された。
艀は小さな蒸気船に引っ張られ門司に渡り、そこで再び人力によって貨車に積み込まれるというこの繰り返しであった。
それを一挙に解消したのが、我が国におけるフェリーの第一号、関門貨車航送船である。

この船は、前にも書いたように外輪船とも呼ばれ、船体の両側に約五メートルに近い大きな水車を取り付けて、それを回して操船する珍しい船…。
だから旅人の多くは、まるでミシシッピー川を下る映画の風景がそこに現出した気がして、しばし岸壁に佇んだものであった。

それが関門トンネルが開通したために昭和十七年に姿を消し、戦後二十五年に自動車航送船として再び活躍することになったものの、さらに関門国道トンネル開通の三十三年、時代の波に勝つことはできず、ついに海峡から姿を消してしまった。
関門民芸会の佐藤治氏は、それを惜しんで次のように詩っている。

この船は私たちの郷愁であった
この船は海峡のシンボルであった
どうしてもこの海峡におきたかった船


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/09/28 Sat. 10:48 [edit]

category: ぶらたん

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桜山神社(さくらやまじんじゃ) 

桜山神社(さくらやまじんじゃ)


境内裏手には、明治維新に散った志士たち391柱の霊標があります。
中央に吉田松陰、両側には高杉晋作、久坂玄端が並び、うしろの方には、ただ名前だけ刻まれたものもあり、維新に貢献した様々な人々がまつられています。
この招魂社(しょうこんしゃ)の形式は、高杉晋作の発起によってまつられたもので、靖国(やすくに)神社等の始まりといわれています。

所在地 下関市上新地町 2-6-22
交通 JR下関駅から筋川方面行きバス7分「厚生病院前」下車、徒歩5分
お問合せ 083-222-6735


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/09/28 Sat. 10:21 [edit]

category: 下関あれこれ

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川棚温泉の青龍伝説 

川棚温泉の青龍伝説

青龍伝説

 遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
 しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
 青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
 そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。


怡雲(いうん)和尚

 その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
 怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
 以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/09/27 Fri. 09:35 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関駅周辺下駄ばきぶらたん より 

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/09/26 Thu. 11:09 [edit]

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厚島とコルトー 

厚島とコルトー


 厚島(あづしま)は豊浦町の響灘沖合2kmに浮かぶ無人島で、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称です。

 アルフレッド・コルトー(1877-1962)は、ジュネーブ近郊に生まれ、ショパンの最後の弟子の一人エミール・デコンブに学び、ヴァーグナーに心酔しました。ピアノの詩人と謳われ、ショパンを弾けばルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストでした。日本においても、昭和初期レコード鑑賞や名曲喫茶が流行り、ショパンのピアノ曲が浸透し始めたころ、常にSPレコードでベストセラーだったのが、コルトーの弾くショパンでした。また、彼はパリに「エコール・ノルマル・ド・ミュージック」という音楽院を設立し、現在も多くの優れた音楽家を世界中に輩出しています。

 コルトーは、晩年の1952(昭和27)年にただ1度、念願の来日を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。宇部公演を控えた10月7日、翌8日、そして下関公演の9日の3日間、川棚村(現下関市豊浦町川棚)の川棚観光ホテルに宿泊しました。
 来日して2週間が経っていたコルトーは、ここに来て「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしています。
 とりわけ、宿泊したホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景にとても魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「あの無人島に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と交渉しました。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、それが本気であるとわかると、考えた末に「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたといいます。コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大変感激しています。
 しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。

 コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
 近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、2003(平成15)年10月、ついに孤留島と厚島とが再び結びつきました。
 フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、今また数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。


しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/09/26 Thu. 10:35 [edit]

category: 下関あれこれ

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下関駅周辺下駄ばきぶらたん より 

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/09/25 Wed. 12:03 [edit]

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本州最西端の地 

本州最西端の地


下関市の吉母毘沙ノ鼻は、北緯34度6分27秒・東経130度51分45秒で、本州最西端の地です。

この地は、海岸の岩が切り立った先端にあり、ルート知り尽くした釣り人以外は、行く事が出来ません。
そこで、毘沙ノ鼻の岩礁からはるかに高い位置の山林を切り開き、展望台を設置し、観光客が車で訪れることができるようになっています。

この最西端の地域は、歴史や伝説の多い地区でもあります。
そのなかから、幾つかを紹介しましょう。

毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」があります。

この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる所です。
この場所は、周囲の黒色の岩盤中に、黄色をおびた岩肌が、波打ち際から絶壁の上まで続き、さながらに畳を積み重ねた様相にも見えるところから、このように名付けられたものです。

また、この近くに「どうどうケ瀬」「馬取場」という場所があります。
この地名は、牧場の馬が「どうどう」という、止まれという声も聞かずに淵に飛び込み、これを重ねているうちにみごとに育ち、「するすみ」「池月」という、宇治川の先陣争いにその名の残る名馬になった、というものです。

「馬取」は、馬取殿といわれた人の屋敷があったから、といわれています。

馬の伝説に「ひばり毛の名馬」もあります。
これは、母馬を亡くした子馬が、母恋しくていななくと、はるか4キロ沖の海上に浮かぶ蓋井島から、応えるかのように母馬らしい声が聞こえます。
子馬は、母を求めて海を泳ぎ渡り、島を探し回っても母馬はいません。
そこで、ふたたび母恋しくいななくと、今度は、牧場の方からいななきの声がします。
すぐに飛び込んで、牧場に戻ってみますが、母馬の姿はもちろんありません。
こうして、蓋井島との間を何回も泳いでいるうちに、ひばり毛のみごとな名馬になり、大内義隆の愛馬となった、というものです。

次は、住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、一宮領と馬牧場の絵図で確認すると、紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。
当時でも、鯨は大切な食糧であったことがわかります。

さらに、この地域が、伊能忠敬の測量地図に「正月不知」と記されています。

伊能忠敬は、文化3年5月16日、
「吉母村黒嶋一周、室津村の内、正月不知迄測、測量場甚難所ニ付…」
とあり、御崎を「正月不知」と記述しています。

これは、この地域が温暖で、スイセンが他の地より早く咲き、下関へ売りに出たところ、よく売れるため、毎日毎日売りに出ていましたが、突然売れなくなりました。
いつの日か正月に入っていた、という笑い話です。

この話が古くからあったことを示し、伊能忠敬の地図に記述されているところから、日本全国、世界までも流布していることになります。

終わりに、万葉の歌碑を紹介しましょう。

 長門なる 沖つ借島 奥まへて
 吾が思ふ君は 千歳にもがも (万葉集巻六 1024)

の歌碑が、毘沙ノ鼻展望台の地に建っています。
沖つ借島は、この地から展望できる蓋井島のことで、平成12年に地元の皆さんによって建立されたものです。

この歌は、天平10年8月20日、時の右大臣橘諸兄の家での宴で、長門守巨曽倍対馬朝臣が詠んだものです。

このように、本州最西端の地、毘沙ノ鼻は、歴史と伝説の地でもあります。
どうぞ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/09/25 Wed. 11:45 [edit]

category: 下関あれこれ

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