彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
川棚温泉の青龍伝説
川棚温泉の青龍伝説
青龍伝説
遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。
怡雲(いうん)和尚
その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。
しものせき観光ホームページより
青龍伝説
遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。
しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。
青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。
そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます。
怡雲(いうん)和尚
その後、月日はめぐり温泉が枯れてしまうと、青龍のことも人々の記憶から忘れられようとしていました。すると応永年間(1394~1427)、再びこの地を日照りと疫病が襲いました。川棚を見下ろす小高い山の中にある三恵寺の住職であった「怡雲(いうん)和尚」は、厄災に苦しむ人々を助けたい一心で仏に祈り続けました。そんなある晩、怡雲和尚の枕元に薬師如来が現れました。薬師如来は枕元で、和尚にこの土地に住む青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げました。
怡雲和尚は薬師如来の霊告をもとに、忘れられていた温泉を再び掘り返す決心をし、周辺の村人の協力を得て作業に取りかかると、見事に温泉を掘り起こしました。青龍の伝説と薬師如来の霊告のとおり、その温泉の湯を浴びると人々の病気は次々に回復したといいます。再び平穏を取り戻した村人たちは、温泉がもう二度と枯れないように伝説の青龍を温泉と村の「守護神」としてお祀りすることを決め、祈りを欠かさないようつとめました。
以来、数百年の月日が経ちますが、今も青龍の伝説は語り継がれ、青龍権現に守られた温泉は枯れることなく沸き続けているのです。
しものせき観光ホームページより
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Posted on 2019/09/27 Fri. 09:35 [edit]
category: 下関あれこれ
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27
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Posted on 2019/09/26 Thu. 11:09 [edit]
category: ぶらたん
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26
厚島とコルトー
厚島とコルトー
厚島(あづしま)は豊浦町の響灘沖合2kmに浮かぶ無人島で、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称です。
アルフレッド・コルトー(1877-1962)は、ジュネーブ近郊に生まれ、ショパンの最後の弟子の一人エミール・デコンブに学び、ヴァーグナーに心酔しました。ピアノの詩人と謳われ、ショパンを弾けばルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストでした。日本においても、昭和初期レコード鑑賞や名曲喫茶が流行り、ショパンのピアノ曲が浸透し始めたころ、常にSPレコードでベストセラーだったのが、コルトーの弾くショパンでした。また、彼はパリに「エコール・ノルマル・ド・ミュージック」という音楽院を設立し、現在も多くの優れた音楽家を世界中に輩出しています。
コルトーは、晩年の1952(昭和27)年にただ1度、念願の来日を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。宇部公演を控えた10月7日、翌8日、そして下関公演の9日の3日間、川棚村(現下関市豊浦町川棚)の川棚観光ホテルに宿泊しました。
来日して2週間が経っていたコルトーは、ここに来て「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしています。
とりわけ、宿泊したホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景にとても魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「あの無人島に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と交渉しました。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、それが本気であるとわかると、考えた末に「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたといいます。コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大変感激しています。
しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。
コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、2003(平成15)年10月、ついに孤留島と厚島とが再び結びつきました。
フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、今また数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。
しものせき観光ホームページより
厚島(あづしま)は豊浦町の響灘沖合2kmに浮かぶ無人島で、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称です。
アルフレッド・コルトー(1877-1962)は、ジュネーブ近郊に生まれ、ショパンの最後の弟子の一人エミール・デコンブに学び、ヴァーグナーに心酔しました。ピアノの詩人と謳われ、ショパンを弾けばルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストでした。日本においても、昭和初期レコード鑑賞や名曲喫茶が流行り、ショパンのピアノ曲が浸透し始めたころ、常にSPレコードでベストセラーだったのが、コルトーの弾くショパンでした。また、彼はパリに「エコール・ノルマル・ド・ミュージック」という音楽院を設立し、現在も多くの優れた音楽家を世界中に輩出しています。
コルトーは、晩年の1952(昭和27)年にただ1度、念願の来日を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。宇部公演を控えた10月7日、翌8日、そして下関公演の9日の3日間、川棚村(現下関市豊浦町川棚)の川棚観光ホテルに宿泊しました。
来日して2週間が経っていたコルトーは、ここに来て「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしています。
とりわけ、宿泊したホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景にとても魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「あの無人島に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と交渉しました。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、それが本気であるとわかると、考えた末に「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたといいます。コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大変感激しています。
しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。
コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、2003(平成15)年10月、ついに孤留島と厚島とが再び結びつきました。
フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、今また数十年ぶりに結ばれることとなりました。もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。
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Posted on 2019/09/26 Thu. 10:35 [edit]
category: 下関あれこれ
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下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/09/25 Wed. 12:03 [edit]
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本州最西端の地
本州最西端の地
下関市の吉母毘沙ノ鼻は、北緯34度6分27秒・東経130度51分45秒で、本州最西端の地です。
この地は、海岸の岩が切り立った先端にあり、ルート知り尽くした釣り人以外は、行く事が出来ません。
そこで、毘沙ノ鼻の岩礁からはるかに高い位置の山林を切り開き、展望台を設置し、観光客が車で訪れることができるようになっています。
この最西端の地域は、歴史や伝説の多い地区でもあります。
そのなかから、幾つかを紹介しましょう。
毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」があります。
この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる所です。
この場所は、周囲の黒色の岩盤中に、黄色をおびた岩肌が、波打ち際から絶壁の上まで続き、さながらに畳を積み重ねた様相にも見えるところから、このように名付けられたものです。
また、この近くに「どうどうケ瀬」「馬取場」という場所があります。
この地名は、牧場の馬が「どうどう」という、止まれという声も聞かずに淵に飛び込み、これを重ねているうちにみごとに育ち、「するすみ」「池月」という、宇治川の先陣争いにその名の残る名馬になった、というものです。
「馬取」は、馬取殿といわれた人の屋敷があったから、といわれています。
馬の伝説に「ひばり毛の名馬」もあります。
これは、母馬を亡くした子馬が、母恋しくていななくと、はるか4キロ沖の海上に浮かぶ蓋井島から、応えるかのように母馬らしい声が聞こえます。
子馬は、母を求めて海を泳ぎ渡り、島を探し回っても母馬はいません。
そこで、ふたたび母恋しくいななくと、今度は、牧場の方からいななきの声がします。
すぐに飛び込んで、牧場に戻ってみますが、母馬の姿はもちろんありません。
こうして、蓋井島との間を何回も泳いでいるうちに、ひばり毛のみごとな名馬になり、大内義隆の愛馬となった、というものです。
次は、住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、一宮領と馬牧場の絵図で確認すると、紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。
当時でも、鯨は大切な食糧であったことがわかります。
さらに、この地域が、伊能忠敬の測量地図に「正月不知」と記されています。
伊能忠敬は、文化3年5月16日、
「吉母村黒嶋一周、室津村の内、正月不知迄測、測量場甚難所ニ付…」
とあり、御崎を「正月不知」と記述しています。
これは、この地域が温暖で、スイセンが他の地より早く咲き、下関へ売りに出たところ、よく売れるため、毎日毎日売りに出ていましたが、突然売れなくなりました。
いつの日か正月に入っていた、という笑い話です。
この話が古くからあったことを示し、伊能忠敬の地図に記述されているところから、日本全国、世界までも流布していることになります。
終わりに、万葉の歌碑を紹介しましょう。
長門なる 沖つ借島 奥まへて
吾が思ふ君は 千歳にもがも (万葉集巻六 1024)
の歌碑が、毘沙ノ鼻展望台の地に建っています。
沖つ借島は、この地から展望できる蓋井島のことで、平成12年に地元の皆さんによって建立されたものです。
この歌は、天平10年8月20日、時の右大臣橘諸兄の家での宴で、長門守巨曽倍対馬朝臣が詠んだものです。
このように、本州最西端の地、毘沙ノ鼻は、歴史と伝説の地でもあります。
どうぞ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
下関市の吉母毘沙ノ鼻は、北緯34度6分27秒・東経130度51分45秒で、本州最西端の地です。
この地は、海岸の岩が切り立った先端にあり、ルート知り尽くした釣り人以外は、行く事が出来ません。
そこで、毘沙ノ鼻の岩礁からはるかに高い位置の山林を切り開き、展望台を設置し、観光客が車で訪れることができるようになっています。
この最西端の地域は、歴史や伝説の多い地区でもあります。
そのなかから、幾つかを紹介しましょう。
毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」があります。
この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる所です。
この場所は、周囲の黒色の岩盤中に、黄色をおびた岩肌が、波打ち際から絶壁の上まで続き、さながらに畳を積み重ねた様相にも見えるところから、このように名付けられたものです。
また、この近くに「どうどうケ瀬」「馬取場」という場所があります。
この地名は、牧場の馬が「どうどう」という、止まれという声も聞かずに淵に飛び込み、これを重ねているうちにみごとに育ち、「するすみ」「池月」という、宇治川の先陣争いにその名の残る名馬になった、というものです。
「馬取」は、馬取殿といわれた人の屋敷があったから、といわれています。
馬の伝説に「ひばり毛の名馬」もあります。
これは、母馬を亡くした子馬が、母恋しくていななくと、はるか4キロ沖の海上に浮かぶ蓋井島から、応えるかのように母馬らしい声が聞こえます。
子馬は、母を求めて海を泳ぎ渡り、島を探し回っても母馬はいません。
そこで、ふたたび母恋しくいななくと、今度は、牧場の方からいななきの声がします。
すぐに飛び込んで、牧場に戻ってみますが、母馬の姿はもちろんありません。
こうして、蓋井島との間を何回も泳いでいるうちに、ひばり毛のみごとな名馬になり、大内義隆の愛馬となった、というものです。
次は、住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、一宮領と馬牧場の絵図で確認すると、紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。
当時でも、鯨は大切な食糧であったことがわかります。
さらに、この地域が、伊能忠敬の測量地図に「正月不知」と記されています。
伊能忠敬は、文化3年5月16日、
「吉母村黒嶋一周、室津村の内、正月不知迄測、測量場甚難所ニ付…」
とあり、御崎を「正月不知」と記述しています。
これは、この地域が温暖で、スイセンが他の地より早く咲き、下関へ売りに出たところ、よく売れるため、毎日毎日売りに出ていましたが、突然売れなくなりました。
いつの日か正月に入っていた、という笑い話です。
この話が古くからあったことを示し、伊能忠敬の地図に記述されているところから、日本全国、世界までも流布していることになります。
終わりに、万葉の歌碑を紹介しましょう。
長門なる 沖つ借島 奥まへて
吾が思ふ君は 千歳にもがも (万葉集巻六 1024)
の歌碑が、毘沙ノ鼻展望台の地に建っています。
沖つ借島は、この地から展望できる蓋井島のことで、平成12年に地元の皆さんによって建立されたものです。
この歌は、天平10年8月20日、時の右大臣橘諸兄の家での宴で、長門守巨曽倍対馬朝臣が詠んだものです。
このように、本州最西端の地、毘沙ノ鼻は、歴史と伝説の地でもあります。
どうぞ、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/09/25 Wed. 11:45 [edit]
category: 下関あれこれ
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