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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

日和山と句碑 

日和山と句碑

殿峰墓碑の前に、細いけれども幾らか急な坂道がある。
ここから五・六十メートルくだれば細江の中通りで墓碑の案内柱がある。
しかし、このまま下ってしまうのはまだ早い。
その坂をしばらく喘いでみよう。

つい先ほどまで豊前田町を歩いていたつもりなのに、いつのまにか細江町に入っていて、ここらあたりはもう丸山五丁目。
平坦地が少なく、小丘ばかりが折り重なる港町特有の複雑な地形は、初めて訪れる人を悩ませるという。
そんな道筋がこの付近にも多く入り組んでいる。

だが、何の当てもないぶらたん散歩なら、どの道を辿ろうと気ままなものだ。

左手の雑木が途切れたあたりからこの坂道はかなり角度をますが、急ぐことはない。
ゆっくりとこの谷筋の小道を味わいながら登ろう。
整然とそそり立つ石垣の列とその曲線、城郭を思わせるようなそれらの上に立ち並ぶ家々と、出窓や掛け出しや出格子、そして右手にうずくまるような古い家並みなどは、最も下関らしい風景の一つだ。
さして時折、振り返ってみると海峡の波が眩しく光っているから余計に嬉しくなる。

登りながら、少しづつ海が広がり、対岸の山並みが大きく感じられてくる喜びを味わいたければ、五、六歩のぼってはちょっと振り返って見るのがいい。
そんな時、路地から飛び出してきた子犬に吠えられることもあるだろう。
でも、犬は吠えるのが商売だ。
何も恐れることはありはしない。

登りきったあたりから右側一帯は日和山公園。
下関駅周辺の公園としては最も大きく充実していて、眺望も第一だ。

だが、公園に入る前に左への下り坂も説明しておこう。
右は長崎中央町で左は豊前田町だが少し下ると前方に遠く彦島大橋が見える。
ここから眺める響灘への落日は恐らく素晴らしいにちがいない。
こんなに狭い急坂でもひっきれなしに車が上り下りする。
そして下りきった所は豊前田の谷の峠付近だ。

さて、先ほどの日和山公園に戻ってゆっくり時間を潰してみよう。
この公園の丘上は下関上水の浄水池だから立ち入ることはできない。
その柵のすぐそばに「岡十郎、山田桃作両君記念碑」が建っている。
岡十郎は明治三年に阿武郡で生まれ、山田桃作は安政四年に大津郡で生まれた。
どちらも日本水産の母体となる捕鯨会社の設立者で、わが国における近代捕鯨の先覚者だ。

その柵には「日和山公園碑」があって、さらに東隣に並んで西尾桃支氏の句碑が建っている。

鴎とぶ 春の潮の 秀にふれて

桃支氏は俳句結社「其桃」を主催して四十数年、その句誌も既に三百八十号を超える芭蕉派の俳人である。
彼は毎年、何人か生まれる新しい同人への祝いとして「鴎とぶ春の潮の秀にふれて」の句を揮毫するのを慣しとしているという。
桃支氏の夫人、採菊さんもまた、つつましやかな俳人でその句碑は岬之町の屋敷内に建っていると聞いたことがある。

鴎の句碑からとんと降りて公園の東の隅に回ってみると、ここにも立派な句碑がある。
桃支氏の岳父、西尾其桃の句が刻まれていて、毎年四月に其桃の流れをくむ俳人たちが集まって「墨直し」を催しているので、いつ訪れても墨痕鮮やかに句が浮き出ている。

春の日の きらめく蘭の 葉尖かな 其桃

明治元年兵庫県明石で生まれた其桃は、本名を西尾弥三郎、三千堂と号して芭蕉の流れを継ぐ正統派。
いづれは大津市にある無名庵の第十七世を継承することに決まっていたが、昭和六年四月、旅先の白浜で没した。六十五歳であった。

その少し南寄りには戦時教育の名残り「遥拝所」がある。
石段を上がると東へ向かって皇大神宮、橿原神宮、宮城、明治神宮、靖国神社などが列記されていて、南側には宮崎神宮だけが刻まれている。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/20 Tue. 10:34 [edit]

category: ぶらたん

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下関の民俗 民間治療法19 

民間治療法19


《盲腸炎》

フナかドジョウを三尾、梅干しまたは酢少々、麦飯茶碗一杯全部をよく混ぜ、よくたたき、すりつぶして、五時間くらい幹部に五日間貼り続ける。
(清末)

《痔疾》

ニンニクをつける。
(王司・彦島・内日)

ナスのヘタの黒焼きをつける。
(王司・彦島・内日)

イチジクの葉で患部をなでる。
(吉見)

卵を焼いて油をとり、肛門に差し込む。
(蓋井島)

ゲンノショウコを煎じて飲む。
(蓋井島)

風呂に入って温まり、指で何回も押さえる。
(彦島)

灸をすえる。
(彦島)

朝起きた直後の自分のツバを幹部につける。
(清末)

《かっけ》

麦粉、小豆を煮て食べる。

麦飯を食べる。

朝露を踏む。
(蓋井島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/20 Tue. 10:32 [edit]

category: 下関の民俗

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平家踊り 

平家踊り


この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。

この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。

それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/20 Tue. 10:08 [edit]

category: ぶらたん彦島

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