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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

東光寺と殿峰墓碑 

東光寺と殿峰墓碑

紅葉稲荷の参道に面した福仙寺の脇門に「露涼し 身は撫子の…」という俳句の一部が刻んであることは前にも書いた。
このそばの鳥居から山手へ向かって小道が登っている。
行き着く先は東光寺の墓地。
この細いのぼりもまた、趣があっていい。
だが、お寺さんの訪問はやはり表坂からからが本当だろう。

豊前田の谷を下るとそこは商店街。
四つ角の食料品店のそばに大きな門柱が建っている。
右には「浄瑠璃山」左の石柱には「禅宗 東光寺」と大書してある。
突き当たりの石段を登り右に折れてさらに登ると竜宮城の絵にも似た山門がある。
この様式は唐風というのか、あるいは中国風とでもいうのであろうか。
白く厚いどっしりとした感じがなかなか好もしい。

山門のすぐ下に古ぼけた立て札がある。
「長州藩海軍五戦士の墓碑」と書いてあって、幕末維新の足音が聞こえるような気がする。
「墓碑」というのは次のような経緯があるのだ。

文久三年五月長州藩は「五月十日をもって攘夷期限とする」という京都よりの指示に従って、関門海峡を通航する外国船を砲撃した。
その第四次光線は六月一日であったが、その日、長州藩の壬戌丸が撃たれて乗務員に八名の死傷者をだした。
そのうちの死者五名は手厚く葬られたが、それらの名前は次の通りである。
山本弥八、斉藤亀蔵、堀寅蔵、藤吉、條八、
ここには、その五名の墓が建てられていたが、昭和四十七年に、諸隊士の顕彰墓地を吉田の東行庵に建設する際、墓石と共に移転されたという。

さて、山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏、左手には大師堂があって、その扁額はかつて文化市長と評判の高かった木下友敬の揮毫である。

本堂と大師堂の間に寛政七年に奉納した地蔵尊がある。
その前を通って脇に出ると包丁塚がある。
そこから本堂裏手の墓地群に入って一つ一つ墓標を眺めて歩くのもいいだろう。
その前の小道をとんとんと下ると、先ほど歩いた紅葉稲荷の境内だが、それよりも東光寺山門のそばに立って九州の山塊や海峡を行き交う船の航跡を追ってたのしもう。

さて、東光寺の東側、ここもまた墓地がつづいている。
細江町の興禅寺の墓地である。
しかし、興禅寺なるお寺はどこにもない。
今は丸山一町の光禅寺に合流されているからだ。
南禅寺派臨済宗の光禅寺はもともと光明寺といった。
細江町に同じ光明寺があるので、丸山光明寺と呼び分けたが、興禅寺と龍興寺を同山に合して光禅寺と改めた、となかなか解りにくい。

話を興禅寺の墓地にもどそう。
ここには、明治末期の衆議院議員で下関の政財界で幾多の功績を残した松尾寅三の墓もある。
しかし、この墓地の見所は広江殿峰の墓標だろう。

殿峰は宝暦六年の生まれで絵と印章彫刻に秀でており。多くの文人墨客と交わりがあった。
例えば頼山陽、田能村竹田、原田柳庵、武元登々庵らで、ことに頼山陽は、文政元年三月に殿峰宅に杖を止めて約四十日間世話になっている。

本当の目的は九州遊歴であったが、下関の酒と魚の美味しさに魅せられてか、思わぬ長逗留となったようである。
もともと酒を飲まなかった山陽は三十八歳のこの時から味を覚え始めたという。
だから徳富蘇峰「山陽下ノ關広江殿峰の家に初めて酒徒たる洗礼を受けた」という意味のことを書き残している。

山陽はまた、よほど下関が気に入ったとみえ、九州からの帰りにまた立ち寄って殿峰宅に四十数日間も滞在している。
殿峰は文政五年に没したが、その墓碑銘と碑文は山陽の真筆を宮内省の某書記が写し取り、それを刻んだものである。

ところで、この墓碑への案内碑は細江町中通りの一角にある高さ一メートル弱の小さな石柱だが、
広江殿峯墓碑
此の上 六十米 頼山陽 選並書
ときざまれている。
この石柱は殿峯となっており、墓碑には殿峰という字が当てられている。
人間は他人のこととなると、案外あいまいなままにやり過ごしてしまうものらしい。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/19 Mon. 10:42 [edit]

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西楽寺 

西楽寺


専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。

その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。

時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。


ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/19 Mon. 09:39 [edit]

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