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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

大歳さん 

大歳さん

おーさら、大歳神社は竹崎
二見ヶ浦は伊勢参宮
参拝すまして帰りましょう
おう皆さん、こんばんは
手々のせ一個で、おーさら

女の子たちの、お手玉遊びの唄である。
ずいぶん長い唄だが、ここに歌われる大歳神社は住友銀行横の鳥居をくぐって百二十段近い石段を登ったところにある。

参道の大鳥居は文久二年に幕末の勤王の志でもあり豪商でもあった白石正一郎が奉納したもので、銅製の扁額もかかっている。
そして鳥居の裏側には「白石正一郎智資興建」と大きく彫ってある。

石段を登りきると正面に本殿、左手には八坂神社と蛭子神社があって玉垣には播州明石・中部幾次郎という名前も見える。
本殿の右手の赤鳥居の列は正一位稲荷五社大明神と書いてある。

本殿の前の「遷座碑」には、このお宮は文治二年正月に下関郵便局とニチイの中間あたりにあった丘の上に建てられたが、山陽本線の移動により昭和十五年二月、この地へ遷座されたとの説明。

境内の東側には社務所があってその右に大きな石碑が建っている。
「明治維新萌漸之史跡」と大書きしてあるが、これは白石正一郎兄弟が幕末から維新へかけて果たした大きな役割と献身について感謝の思いが込められた文章が刻まれている。
この種の石文としては読みやすく解りやすい碑文である。

その右には風雨にさらされてかなり傷められているが「七卿潜寓の画碑」がある。
大正五年に関門史談会が寄贈したものだから、このように損傷するとは考えられないが、材質が砂岩と聞けば、なるほどとうなづける。

七卿の都落ちについてはあまりにも有名であるため、ここでは触れまい。
ただ、文久三年夏の政変によって朝廷を追われた攘夷派の七卿のうち沢宣嘉卿を除く六卿が元治元年白石正一郎の家に入った。

そのことについては、画碑のそばに次の説明板が建っているのでそれを読むことにしよう。

「七卿画碑由来」
この画碑は三条実美公等の七卿が政変をさけ長州に下向の途中、編笠姿の実景を画碑に写刻して一時、当時竹崎の豪商白石正一郎宅に滞在せられし因縁の所、大歳神社境内に大正五年関門史談会が建立、後世長く七卿の顕彰を伝えんとしたものである。


七卿の白石邸到着は元治元年三月二十七日で宅跡はこれより先西約一町半の所にあり。

七卿名
三條実美卿
三條西季知卿
東久世通禧卿
壬生基修卿
錦小路頼徳卿
四条隆謌卿
沢宜嘉卿

さて、読み終わったら四周を眺めて、関門の明るく大きな景観を楽しもう。
この辺りでは日和山に次ぐ絶好の展望地だから。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/14 Wed. 10:05 [edit]

category: ぶらたん

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下関の民俗 民間治療法14 

民間治療法14


《シャックリ》

柿のへた、または種を煎じて飲む。
(王司・長府・彦島)

砂糖、あめ、サイダーなどを飲む。
(長府)

びっくりさせる。

《心臓病》

卵の油を飲む。
(旧市内・彦島・内日)

サフランの汁を飲む。
(内日)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/14 Wed. 09:53 [edit]

category: 下関の民俗

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杉田古墳 

杉田古墳


江ノ浦桟橋通り、といっても二十年も前から桟橋はなく、バス停だけが残っているに過ぎない。
その停留所から山手に入れば、嘗ての遊郭街の名残を留める桜町。
そこから、杉田へ抜ける急坂は昔の幹道で、地蔵峠(じぞうだお)と呼ばれてきた。それは、本村の地蔵峠と同じ呼び方であるところから、鎌崎の峠とも杉田の坂とも呼ぶが、この峠の東寄りの丘に杉田古墳がある。
大きな石が三つ、肩を寄せ合うように南へ向けて据えられている。

一つは、ほぼ正方形で、絵のようなものが刻まれているが風雨にさらされて何を描いたものか判然としない。
恐らく四人の人物で、中央は女性であろうと推定されている。その東には一段高い位置に臥牛の形をした石が置かれ、前面には三角形の平石が据えてある。
周囲には、3、40センチ程度の石も置かれているが、何か意味ありげに見える。

下関市史によれば、これは「岩刻絵画」と呼ばれ、「墳形不明」となっている。
昭和初年、当時この丘一体を所有していた旧家、百合野忠美氏が、石に刻み込まれた絵を見て、「古墳ではないだろうか」と、彦島町教育委員会に調査を依頼した。
町では、県や市の協力を求めてつぶさに調べた結果、この付近では珍しい岩刻古墳であることが判った。

この丘には同じような石があちこちに建てられていたが明治の頃、宅地造成などによって破壊されたと、百合野氏は古老に聞いたことがあるというが、それでも同氏が幼少の頃いは、まだ何ヶ所か残っていたそうである。
それも、どの場所も共通して大岩が三つずつ置かれてあって、その中央には丘の頂から母屋へ向けて殆ど一直線となるように八つの平石が、ある間隔をおいて並べてあったので、不思議でならなかったと述懐していた。
しかし、それからも、大正の半ば頃から、心ない石屋たちによって密かに持ち去られはじめ、かろうじて残されたのが、彦島唯一のこの古墳である。

多くの貴重な文化遺産は、いつの時代でもひとびとの無知と無関心と、利害によって失われるもので、かつては、老の山の西麓や、福浦の鋤崎あたりにも、それらしい墳墓があったと云われているが、今となっては探すすべもない。

現在、杉田古墳には「高貴古墳之霊石」と書いた立て札が設けられ、板囲いも施されて近寄ることは出来ない。
炎暑に照らされ、雨に打たれ、雹に叩かれ、千五百年という永い年月に耐えてきたこの古墳の絵画は、これからも風雨にさらされて、ますます識別しにくくなるに違いないが、一応、往古のままに保存だけはされている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/14 Wed. 09:35 [edit]

category: ぶらたん彦島

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