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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より 

下関駅周辺下駄ばきぶらたん より
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Posted on 2019/08/11 Sun. 12:32 [edit]

category: ぶらたん

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ミニ水族館 

ミニ水族館

駅のコンコースの東口寄り、押しボタン式の市内観光案内板のそばに大きな水槽があり、鯛や黒鯛、カレイ、タコ、伊勢海老などが悠然と泳いでいる。

駅の水族館とか豆水族館、あるいはミニ水族館などと呼ばれて多くの市民に親しまれているが、駅裏の海岸が埋め立てらりてからは、汐水が遠くなったせいか時々故障するようだ。
それでも駅舎の近くに貯水槽と濾過器を設置しているので、常に四トンの水が循環している。

この水槽の魚の世話は、長府にある下関水族館の職員が責任を持って当たっている。
そして時折、魚の入れ替えもしているが、冬と夏とでは水温の関係でその種類は殆ど一変してしまうらしい。
つまり、夏になると熱帯性の魚を入れるわけである。

「もしもし、夕方六時に駅の水族館のそばで待ってるワ」
という声は、あちらこちらの公衆電話でよく聞かれる。
かなり以前にも、相手が長府の水族館と間違えて、ついに逢えなかったというまるで映画でも見るような悲劇もあったらしいが、今ではすっかり市民にお馴染みとなったようだ。

だから、この水槽の周りには、いつも人待ち顔が寄り集まっていて、泳ぐ魚たちも心なしか面映ゆげである。

人々の待ち合わせの場所、このミニ水族館は、東京でいえばさしずめ渋谷のハチ公というところか。

さて、この下関駅は、市内のほぼ中央にあって東と西に玄関を有している。
従って市民には駅に用事がなくとも、東から西、西から東へと往来するたびに駅を通ることになる。
ということは、これほど多くの市民に親しまれ利用され、愛されている駅は全国でも稀ではないかと考えたくもなるのだ。

水槽の魚たちは毎日、何万人という人々に眺められて倖せと迷惑のどちらを感じているであろうが。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/11 Sun. 10:21 [edit]

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下関の民俗 民間治療法11 

民間治療法11


《風邪》

だいだい汁かショウガ汁を熱湯にとかして飲む。

卵黄と砂糖少々を酒の熱燗で飲んで寝る。

梅干しの黒焼き、玉子酒を飲む。
(内日)

栗ガユを食べる。
(内日)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/11 Sun. 10:09 [edit]

category: 下関の民俗

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平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/11 Sun. 09:46 [edit]

category: ぶらたん彦島

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