07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

ぶらり歩けば 

ぶらり歩けば

日曜日…多くの人が街にあふれる。
デパートやスーパーはふくれあがり、駅には人の波が高くうねる。
お隣の町、小倉や黒崎、博多にまで買い物に出かける人、リュックを担げば九州にしか山はないとでも言いたげな足取りで闊歩する人、遊園地や温泉などの観光地めざしてうきうきと改札口を走り抜ける人、人、人、
いつの頃からか、私たちはレジャーに踊らされるようになった。

日曜日…。
出かけるには些か億劫だし、それに金もない。
中にはそんな人もいる。
何の目的もなく雑踏に紛れ込んでうろつき、ただ時間を潰して帰ってくる。
そんな人もいるに違いない。

日曜日だから…。
どこかへ出かけなければ気が済まないという子供が、近頃は多いという。
子供同士で遊ぶ方法を知らない現代っ子たちは休日を待ちかねて、デパートや行楽地へ「行こうよ」「連れてってよ」と親にねだる。
パパゴン、ママゴンと呼ばれる親たちもまた、子供達を放任することが出来ず、急に相互を崩して一緒に出かけることになる。

日曜日…。
前夜から降り続いていた雨が昼過ぎに上がる。
新聞を隅々まで読み尽くして、あとは何をするでもなく退屈を囲っていた顔が、からりと晴れた青空を見上げて明るくなる。
だが、もう改まって出かけるような時間ではない。
そんな時、下駄をつっかけてぶらっと歩く近くの小路や小丘を歩いてみる気にはならないものか。

すみからすみまで、下関のことは何でも知り尽くしているという人は多い。
しかし、そんな人は大抵、赤間神宮、住吉神社、功山寺、水族館などを頭に描いているだけに過ぎない。

パンフレットで紹介され、絵葉書で売り出されたそれらも、下関の一つの顔であろう。
常に上品ぶって心の内奥を見せてくれない他所ゆきの顔だ。
だが、本当の姿はそんなところになんぞあろうはずがない。

下関の、もっとも下関らしい顔は、街を歩いていてふと眼に止まった路地に何気なく入ってみることにより接することができる。

一人通れば、野良犬でさえも避けなければならないほど狭い急坂を登ってみよう。
石垣の途切れたあたりに遠く海峡の波が光っていたりすると、私たちは永い間忘れていた下関の生き様をそこに見る思いがするに違いない。

ベンガラ色の出格子のそばに昔ながらのお地蔵さんが新しいよだれ掛けを貰って嬉しげであったり、響灘に落ちる太陽が真っ紅に染まってくるくる回るさまが谷あいの家並みを通して眺められたり、思わぬところに素晴らしい風景が私たちのまわりにはあるものだ。

何も考えずに、気軽に歩いてみるのもいい。
お寺の境内に佇んで天を衝くような古木を見上げるのも楽しいだろう。
墓地に入って歴史で名高い人の名前を見出しても、それがどんな人であったかなどは考えまい。

とにかく、自分の住んでいる町を歩くことから始めよう。
何度も何度も、暇をみては歩き続ければ、やがてそれらの路地や神社仏閣についても、いろいろ知りたいと思うようになる。
お墓の人物の事蹟を調べるのは、それからでも良いわけだ。

だから、ぶらたん氏も、むつかしいことはあえて考えず、ひたすら関の町を歩くことにした、とまあこういう訳である。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
関連記事

Posted on 2019/08/08 Thu. 10:39 [edit]

category: ぶらたん

TB: --    CM: 0

08

下関の民俗 民間治療法8 

民間治療法8


《歯痛》

梅干しの皮をほおに貼る。
(王司・秋根・彦島・内日)

しょうちゅうを口にふくむ。
(彦島)

虫歯にはクレオソートまたは正露丸を詰める。
(蓋井島)

《魚の骨が喉にささったとき》

御飯を丸のみにする。
(秋根・彦島・安岡・蓋井島)

榎の実を陰干しにしたものを水で飲む。
(内日)

和紙を切って水に浮かべて呑み込む。
(蓋井島)

絹の真綿を指に巻いて、のどに差し込んで取る。
(蓋井島)

顔をずっと下げ箸の先に脱脂綿を巻いて、喉の奥をなでる。
(彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/08 Thu. 09:33 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

08

水雷発射管 

水雷発射管


この浜辺は、水雷発射管の跡地として、戦前まではかなり知られていたところである。
また、幕末攘夷戦に於いて活躍した弟子待砲台や山床砲台も、すぐこの近くにあった。

水雷発射管は、ロシアのバルチック艦隊襲来にそなえて明治35年に建造されたものである。
それはロシア艦隊が関門海峡に近づくことに対しての、いわば本土決戦体制であった。
即ち、バ艦隊が本土に近づいた場合には、まず老ノ山砲台がこれを撃破するが、もし突破された場合には、田ノ首の砲台山と海軍山で砲撃し、次に弟子待の水雷発射管が活躍する。
それでも駄目な場合には火ノ山砲台と門司の和布刈が撃滅する手筈になっていた。

そのため、弟子待では、一度だけ実弾演習を行ったところ、兵隊の多くが鼓膜を破ってしまったので、和布刈では演習を取りやめる羽目になったという。
因みに、門司の和布刈は、当時、下関要塞司令部の管轄であった。

結局、日露戦争は日本海海戦で終止符を打ち、関門海峡へ敵艦を迎えることはなかったが、老ノ山砲台や六連島砲台はかなり活躍した。

その時の模様を明治29年生まれという竹ノ子島の瓜生さんは記憶をたどりながら、こう話してくれた。
「何人か忘れたがのう。ロシアの兵隊が溺れて、この瀬戸を流れたもんじゃ。そこの突き出しの浜でも一人打ち上げられてのう」

ところで、現存の発射管は、赤レンガ造りの短いトンネルだけで、その前面には幅3メートル、長さ約50メートルの突堤が海峡に延びているにすぎないが、七十余年前の当時としては帝国海軍の頭脳を集めた堅固な要塞の一つであったことであろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋

zz48_201405220901350e1.jpg

関連記事

Posted on 2019/08/08 Thu. 09:10 [edit]

category: ぶらたん彦島

TB: --    CM: 0

08