07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

西楽寺 

西楽寺


専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。

その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。

時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。


ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
関連記事

Posted on 2019/08/06 Tue. 15:27 [edit]

category: ぶらたん彦島

TB: --    CM: 0

06

下関の民俗 民間治療法6 

民間治療法6


《耳だれ》

ユキノシタの汁を耳の中へしぼり込む。

セミの抜け殻を粉にして入れる。
(内日)

ムカデの油を入れる。
(旧市内・彦島)

脱脂綿でウミを拭き取り後、オキシフルを脱脂綿にひたし、ウミの出なくなるまで拭き取る。
(蓋井島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/06 Tue. 15:05 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

06

下関漁港閘門 

下関漁港閘門 山口県・下関市

下関漁港の閘門は、日本海と瀬戸内海の干満差によって生じる激しい潮流を抑制し、漁港の安全性を確保するために戦前に建設された構造物。
戦後の下関漁港の発展に多大な貢献をしており、昭和41年には28万5千トンの水揚量日本一に輝いた。
閘門は今なお現役稼動中で船舶が航行しており、この様な構造物は全国的にも珍しい。閘門の通過方法は規模の大小はあるがパナマ運河と同じである。

全国漁港漁場協会より

■閘門建設の経緯

本州と九州を隔てる関門海峡の西側(東シナ海側)に彦島という島があります。行政上は山口県下関市に属し、3万人以上が住む人口の多い島です。島といっても地図では本州とほとんど地続きに見えますが、実際には小瀬戸という狭い海峡で隔てられています。もともと狭い海峡だったものが、1937(昭和12)年に完了した埋め立て工事で最も狭い部分は幅8mにまで狭まりました。
彦島が関門海峡西端に位置するということは小瀬戸は東シナ海と瀬戸内海に面します。双方の干満差から生じる潮流は激しく、そのままでは漁港の安全が保てないため、1938(昭和13)年に最小幅部分に閘門(こうもん)※ が建設されました。これが初代の下関漁港閘門です。

※ 水位の異なる水面を船が航行するための仕組み。二つの水門で閉鎖した部分に船を入れて水位を上下に調整する。

■戦後から現在まで

初代閘門の門扉は水平方向にスライドする引き戸式で、ユニークなことに門扉の上部は人や車が通行可能でした。つまり可動橋を兼ねていたのです。

1947(昭和22)年、小瀬戸に関彦橋(かんげんきょう)が完成。これは木製だったので車は通行できなかったものの、同橋は1954(昭和29)年にコンクリートで架け替えられます。1961(昭和36)年、閘門は巻上式ローラーゲートの2代目に変わります。門扉上部には幅1.5mの歩道が併設され、閘門側の車の通行はなくなりました。

その後、彦島大橋という新たな橋が完成しますが、これが有料道路だったためか(現在は無料)関彦橋の交通量は依然多く、そこで1982(昭和57)年に閘門中央に水門橋という可動橋が架けられました。さらに1986(昭和61)年、閘門が3代目に更新されて現在の姿になります。

■下関漁港閘門の特徴

下関漁港閘門の特徴は2つあります。ひとつは海峡の閘門。そもそも舟運の需要が減少した日本では現役の閘門自体少ないのですが、現存する閘門はほとんどが運河や河川にあるもので海峡の閘門はかなり珍しい。

もうひとつは可動橋との併用。水門では可動橋と併用した事例はいくつかありますが、閘門と可動橋の併用は、私が調べた限り、国内では下関漁港閘門の他には尼崎閘門(兵庫県尼崎市)など1~2カ所しかありません。

さらに付け加えると、尼崎は閘門の扉と可動橋は独立した構造なのに対して、下関の初代閘門は扉自体が可動橋の機能を兼ねていました。現在の水門橋は閘門とは別個の構造ですが、閘門の扉の上部は2代目・3代目とも歩道で、これは昇開式可動橋といえます。点検用通路ではなく一般人が扉上部を通行できる閘門や水門は、あまり例がないはずです。

■可動橋として独特な形の水門橋

閘門の中央に車を通すために設置された水門橋もかなり独特な形をしています。この橋は、下の連続写真のように橋桁が上下に動く昇開式というタイプの可動橋です。一般的な昇開式可動橋は、例えば筑後川昇開橋のように2本の塔が建っているものですが、この水門橋は両岸の昇開機構を梁で連結して井桁状に組んでいます。いくつかの可動橋を見てきた私もこの形は初めて見ました。

余談ですが、閘門に架かる橋ならば本来は閘門橋とすべきで、水門橋という名前は適当ではないというか正確さに欠ける感じがします。名前が「肛門」を連想させるので避けたのでしょうか。

名称 下関漁港閘門 水門橋
Shimonoseki Fishing Port Lock, Watergate Bridge

設計 未確認

所在地 山口県下関市大和町2・彦島本村町6

用途 閘門、橋

竣工 初代閘門:1936(昭和11)年

現在(3代目)の閘門:1986(昭和61)年

水門橋:1982(昭和57)年

構造 閘門:鉄筋コンクリート造(門柱)、アルミ合金(門扉)

水門橋:鉄骨造

交通 鉄道:下関駅下車 徒歩約30分

Architectural Mapより
http://www.archi-map.jp/

関連記事

Posted on 2019/08/06 Tue. 14:40 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

06