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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

地名の読み方 

地名の読み方


彦島の地名には、約八百年近い歴史と、それにまつわる開拓の物語が秘められている。
地形的に見て実にふさわしい地名もあれば、素直には読めそうにない難解な名もある。
現在すでに安易な読み方に変えられつつある所もあって、そのような土地は、まず最初に勝手な名に改められるのではないかと思えば、やはり気が気でなくなる。

下関でいえば『阿弥陀寺』が『あみだじ』と変り、『外浜(とぱま)』が『そとはま』と呼ばれはじめたように彦島でも『武者田(びしゃで)』は最近、『むしゃだ』と呼ばれるしまつ。
そこで新住居表示に何かの参考になるのではないかと、難解な地名や、誤読され易いものを少しばかり拾ってみた。


小戸(おど)
海士郷の西寄り一帯で下関側の小門と相対し、小瀬戸の略。

海士郷(あまのごう)
彦島七浦の一つで古老は「あまにごう」と呼んでいる。

老(おい)
海士郷と本村との間で、戦前まで老村と呼んだ。老ノ山がある。

本村(ほんむら)
本町、新町、中町、卯月町、後山、長崎町を包含する。

石ヶ原(こがばら)
現在、本村小学校が建っている付近一帯。

藤ヶ迫(ふじがさと)
本村小学校裏山から第一高校付近一帯。

脇田(わきんた)
老町の貴船神社と、その裏山付近。

名合浦(なごーら)
本村本町の山手、百段の峠付近の住宅地。

東山(ひがしやま)
本村本町、卯月町と迫町に挟まれた丘陵地帯。第二中学予定地。

里(さと)
卯月峠を西山へ向かって下り切った辺りの左側一帯。彦島開拓発祥の地。

迫(さこ)
本村と西山に挟まれ、荒田方面に急速に伸びている。

西山(にしやま)
迫の西、彦島の最西端で、波高(はたか)、渡瀬(わたせ)、栄螺瀬(さざえのせ)などがある。

南風泊(はえどまり)
西山の一角で、国際漁港。現在はフクの水揚地で有名。

竹ノ子島(たけのこじま)
西山の最西端から橋によって陸続きとなっている。

絞(しぼり)
荒田と本村長崎町との中間で、昔はロータリーからここまで海だった。

武者田(びしゃで)
本村長崎町の一部で福浦を結ぶ谷あい一帯。

江向(えむか)
ロータリー付近から彦島中学辺りまで。

塩谷(しゅうや)
彦島中学付近から江の浦小学校へ至る一円。

福浦(ふくら)
硴崎(かけざき)安舎(あんじゃ)鋤崎(すきさき)中ノ浜などを包含する。

塩浜(しおはま)
福浦の対岸。大山(おおやま)沖塩田(おきのしおた)陸塩田(やかのしおた)竜宮島を含む。

角倉(すまくら)
福浦口から段地堤(だんじつづみ)へ至る角倉小学校一帯。

田ノ首(たのくび)
彦島の最南端。山床鼻(やまとこはな)神田(じんで)雁谷迫(かりやがさこ)などを含む。

弟子待(でしまつ)
田ノ首と江ノ浦に挟まれた海岸で、姫の水(ひめのみず)も含んでいる。

杉田(すぎた)
江ノ浦の一部で、弟子待、山中への分岐点一帯。鯉ノ巣(こいのす)も含む。

江ノ浦(えのうら)
杉田(すぎた)鎌崎(かまさき)堀越(ほりこし)塩谷(しゅうや)などを包含する。

六連島(むつれじま)
下関の西、彦島の北西五キロの海上に浮かぶ島。

船島(ふなしま)
古くは舟島と書き、今は巌流島の方が通りが良い。


以上が彦島の主な地名とその呼び方であるが、小字として残っているもので、比較的誤読され易いものを少しばかり拾って羅列してみよう。

牛ヶ鼻(うしがはな)棚田(たんだ 丹田とも書く)峠(たお)打石(うつし)伊無田(えびた)伊佐浦(いさうら いさんだ とも言う)沖ノ通(おけんた 桶無田とも書く)笠石(かさし)遠磯(とうそ)海賊泊(かいぞくどまり)生板(まないた)金弦(かねがつる)

これらの地名について、それぞれ考証を記述すべきかとも考えたが、スペースが許さないので、それは後日、稿を改めて『彦島地名考』とでも題して発表したいと思う。


彦島の地名を古記録や伝承などをもとにいろいろ調べてみると、いずれも二度、あるいは三、四度と呼び名が変っている。
それは、八百年前の開拓時代から、藩制に於ける埋め立てや造成を積み重ねる度に地名を変えたものと考えられ、そこにも血の通う歴史が感じられるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/04 Sun. 10:16 [edit]

category: ぶらたん彦島

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下関の民俗 民間治療法4 

民間治療法4


《鳥目》

肝油を杯に半分くらい、二、三回飲むとなおる。
(蓋井島)

鵜・鶏・ウナギの肝臓を食べる。

牛の肝臓を食べる。
(蓋井島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より


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Posted on 2019/08/04 Sun. 10:01 [edit]

category: 下関の民俗

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壇ノ浦古戦場跡 

壇ノ浦古戦場跡

平安時代末期の寿永4年(1185)に、源氏と平家の最後の戦いとなった「壇ノ浦合戦」の跡。現在は「みもすそ川公園」として遊歩道が整備されています。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたといわれます。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。

壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)
・所在地:下関市みもすそ川1番

壇ノ浦の合戦

平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。寿永4年(1185)3月24日、両軍約4,000艘ともいわれる軍船が、関門海峡に集結していました。白旗をなびかせるのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。まず優勢に立ったのは平家の船団。東流れの潮流に乗り、戦いを有利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わりはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源氏が優勢になるにつれ、平家から源治へ裏切るものが相次ぎました。平家きっての武将、平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。敗戦を覚悟した二位の尼は、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。後を追った帝の母健礼門院は助けられて囚われの身となりました。勝敗がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わりました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つことはありませんでした。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/08/04 Sun. 09:44 [edit]

category: 彦島あれこれ

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