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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

フク供養 

フク供養


春分の日は、別に「お大師さん」とも呼び、下関近郊では「旗貰いの日」として、子供たちに喜ばれている。
米を一つまみ程度、和紙に包んだ「おひねり」を幾つも作り、地蔵尊をまつる家を回って、旗菓子と交換するのだが、昔は、ぜんざいや、おはぎで接待する家もあった。

昭和50年3月21日、子供たちが旗貰いに走り回っている頃、南風泊市場では、「河豚供養」が行われていた。
前年秋、唐戸から引っ越したこの市場は、日本一のフク市場を目指して意気軒昂たるものがあったが、幕を開けてみると、思わぬ話題が渦巻いた。
フク漁のスタートは例年に比べ、約二十日も早く、関係者は「幸先よし」と喜んだものであった。
ところが、シーズンに入ってまもなく、黄海で「軍事警戒ライン侵犯」という事件が起こり、中国側の厳重な抗議によって業者も自粛したため、水揚げが激減した。

水揚げが減れば当然セリ値は高くなるが、石油ショック以来の不況は益々深刻化して、フク需要は落ち込む一方であった。
それでも年末の需要最盛期だけは、例年とほぼ同じ水揚げと出荷のバランスを取り戻し、業者をほっとさせたものであった。
しかし、それもほんの束の間の喜びでしかなかった。

食通で知られる人間国宝の坂東三津五郎丈がフクのキモに当たって亡くなったからである。
いわゆる三津五郎ショック。そのショックで京阪神方面の需要が激減し、相場はトラフクの白生きがキロ当たり七、八千円の高値から、千円台にガタ落ちしたから、下関市と関係業者は大慌てで打開策に乗り出した。

調理師講習会を開いたり、フク料理の安全PRを全国に展開し、ようやくその努力が実って相場が例年並みに回復したのは、二月も下旬のことであった。
それにしても、京都の料理屋で起こった三津五郎さんの死は、「調理師の料理なら絶対当たらない」と自信を持ち続けてきた下関の業者にとっては、実に迷惑な出来事であったといわれても仕方があるまい。

フクの本場を自認する下関では、昔からシラコ(精巣)は食べても、マコ(卵巣)とキモ(肝臓)は絶対に食べてはならないとされている。
「シビレルくらいがフクの醍醐味だ」とか、「下関のフクはキモを食わせないから美味しくない」など通ぶる声には耳を貸さず、下関の業者は敢えて、内臓の調理を拒否しつづけてきた。

フクの異名に鉄砲とかカセンバ(棺桶)とかがあるが、下関ではそんな呼び名はなく、「絶対に当たらんものはフクと天気予報」。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/08/01 Thu. 13:55 [edit]

category: ぶらたん彦島

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下関の民俗 民間治療法1 

民間治療法1


《てんかん》
ユキノシタを塩もみして汁を飲ませる。
(旧市内・秋根・彦島・内日)

《中風》
あひるの生き血を飲ませる。
(彦島・蓋井島)

ヨモギを熱湯に漬け、密閉してさましたものを飲ませる。
(長府)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/01 Thu. 13:18 [edit]

category: 下関の民俗

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巌流島の決闘 

巌流島の決闘

1612(慶長17)年4月13日に、長門の国「船島」(現在の巌流島)で宮本武蔵(当時29歳)と佐々木小次郎が決闘をしました。当時、諸国をまわったのち小倉の細川家に仕え、小倉城下に道場を開いていた佐々木小次郎に、諸国修行中の武芸者宮本武蔵が、細川家の家来であった長岡佐渡を通じて試合を申し込みました。試合場所に指定されたのが、船島(巌流島)でした。
決闘の約束は辰の刻(午前8時)でしたが、武蔵の到着が遅れ島に着いたのは、巳の刻(午前10時)になりました。小次郎は波打ち際で武蔵を迎えました。遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、刃渡り三尺はありそうな刀を抜きました。武蔵の前頭部に振り下ろされましたが、刀は武蔵の鉢巻の結び目を切っただけで、かわりに武蔵は船の櫓ろをけずって作った長い木剣で小次郎の頭を打ち砕き、小次郎はばたりと倒れました。武蔵はとどめを刺すことも忘れ舟へ飛び乗り、下関へと急ぎました。
武蔵はこの後、細川家に仕えて晩年を全うしましたが、敗者を想う地元の人々は敗れた小次郎の流派をとって後に「巌流島」と呼ぶようになりました。
※武蔵と小次郎の決闘については諸説あります。

昭和・平成の巌流島の戦い

昭和の時代以降も「決闘の聖地」として様々な決闘が行われました。
1987年10月4日に行われた新日本プロレスの企画したアントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合。が巌流島で行われた。武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島を決戦の場所に定め、無観客試合、時間無制限、ノールールで行われた。午後4時30分、試合開始となったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、ようやく30分後、斎藤に向かって歩み寄っていった。
試合は一進一退の攻防が続き、夕暮れになるとコーナーポストにかがり火が立てられた。試合が2時間経過し、両者フラフラになりながら決闘は続いた。そして、2時間5分14秒、猪木は斎藤の背後から裸絞めを決め、猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。

2012年05月には宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘400周年を記念したチャリティーイベント「レジェンド・ザ・プロレスリング『巌流島5・5マッチ』」が開催されました。地元出身の初代タイガーマスク、佐山聡さんらの熱闘を約3000人が観戦。東日本大震災で被災した岩手県宮古市から招かれた子どもたちも声援を送った。


下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/08/01 Thu. 12:56 [edit]

category: 彦島あれこれ

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