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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

法正院・円通寺・光東寺 


法正院・円通寺・光東寺

関西通りは「カンセイ」と読み、南部町の「ナベ」と同じく下関らしい地名である。
この通りはゆるい坂道だが下関駅方面へ少し行くと右手に「南妙法蓮華経」と書いた大きな石碑が建っていて、立派な石段の上に山門がある。
法正院だ。
ここの住職は山口県児童文化研究会を主宰しているが、そのことは大願寺の項でも述べた。

山門をくぐると正面に庫裏があるが、ここは開放されていて「ひまわり保育園」となっている。
余程、子供達を愛する心やさしいお坊さんなのだろう。

境内に「立正安国」の石碑がある。
その揮毫は「晩翠」となっているから些か気にかかるがその詮索は遠慮した。
すべて知ってしまうと、後の楽しみがなくなる。
いずれ訊ねてみようという宿題があってもいいような気がするのだ。

本堂の横にはセメントで作ったすべり台があって、その横にはもう永い間、苔むした蹲がひっくり返ったままになっている。
なんとなく生活臭さが漂っているようで面白い。

裏門はいつも閉まっていて、鐘楼の鐘はかなり新しく、保育園の子供達が境内せましと走り回っていている実に明るくのどかなお寺さんである。

法正院を出て上条の交差点を横断すると、そこはもう買い物公園グリーンモールだ。
商店と人道と公園と車道、それに街路樹をからませたこの通りは、つい先年まで東の唐戸市場に対する西の長門市場としてその雑踏が市民に親しまれたものであった。
あの狭い土地に物売りと買い物客が溢れて、常にもみ合わなければ通り抜けられぬ市場は、魚と野菜と人いきれ、それに泥やドブ、汗なども入り混じって一種独特の雰囲気を醸し出していた。
だからこのように整然とした公園ができたことに反発する人もいるというが、あまり難しいことは考えまい。
美しい街並みをそぞろ歩くのも、また楽しいものだ。

そのグリーンモール、上条からゆるい坂を下りかけた左手の石垣の中ほどに猿田彦が祀られてあり、こんなところにも庚申信仰が生きているのが嬉しい。
この猿田彦にはユッカやアジサイが植えられていて、季節ごとに開くその花は美しい。

ゆるい坂を下りきったあたりに右に山陽本線をくぐる細いガードがある。
今浦の裏通りと呼ばれているが、昔はこの小さな道が本通りであった。
時代の流れは如何ともし難い。

その通りの右手丘の上に円通寺がある。
昔は海峡を一望して素晴らしい景観が楽しめたことだろうが今では古い家並みの間や前方にビルが林立して青い空を眺めるくらいのもの。
すぐそばを山陽本線が走っていて、ひっきりなしに列車が轟音をこだまさせて通過する。

本堂の右手には朽木を扁額にした瑠璃殿があり、その横には半跏像の地蔵菩薩が祀られている。
「南無大師遍生金剛」と書いた弘法大師像はさらにその横に建てられていて、八十八ヶ所ならぬ三十三ヶ所も境内にまとめられている。
第一番は紀伊国那智で三十三番霊所は美濃国谷汲寺となっていて、それぞれの仏様が肩を寄せ合っているのは満員電車を見るようで痛ましいが、京都念佛寺の千体佛のひしめきに較べれば、まだましだろう。

庫裏の裏手には稲荷神社の祠があり、そばの林に分け入ると丘の上に墓地が並ぶ。
海峡と漁港と響灘が見渡せる。

さて、ここからはもう駅も近い。
円通寺の石段を下ってグリーンモールへ戻り、そのまま買い物公園沿いに旧邦楽座通りをぶらついてもいいし、茶山の坂を登って豊前田へ行くのも楽しいだろう。
あるいは、直接、円通寺から長門市場の雑踏に紛れ込んで魚の匂いを嗅ぎ、買い物カゴにぶっつかりながら、ニチイのそばに出るコースもある。

ここまで戻れば、もう急ぐこともあるまい。
下関駅に最も近いお寺さん、光東寺にお詣りしてみよう。
ニチイのそばから竹崎の旧道を少し入った右手の丘にある曹洞宗の寺院で山号は海潮山。
小瀬戸の流れが参道の石段を洗っていた頃に想いを馳せると、この山号もまたふさわしい。

山門から本堂まではわずか十メートル足らずで境内は狭いが、本堂や鐘楼の屋根瓦には一に三つ星の毛利家の定紋が浮き出ている。
左手の墓地には百日紅、夾竹桃、枇杷、柿、梨などの木が植えられていて八十八ヶ所の霊場が順不同で墓群れの間を縫っている。
おびただしい石佛の大半は風化して頭部が落ちたり、お顔が崩れたものも多い。
しかし、ほとんどの台座は大正年間に赤レンガとセメントで補修されているので些か救われる。
墓地の奥と鐘楼の横に旅館があり、参道脇には飲み屋などもある。
そして周囲は大きなビルがジャングルの様相を呈して、先ほどの円通寺以上に眺望がせばめられているのが何とも物悲しい。
しかし、駅前の喧騒がまるで嘘のように、この境内はいつ来ても静かで心の休まる思いがする。

時折、遠く海峡を往来する船舶の汽笛が長く尾を引いて流れる。
列車の発着を告げる下関駅のマイクロフォンの声なども、この山門に行って聞くと、何かしら淡い夢に包まれたように耳をくすぐる。
ぶらたん氏、下駄のはき心地の良さに任せて歩き疲れたのであろうか。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/31 Sat. 11:29 [edit]

category: ぶらたん

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下関の民俗 民間治療法29 

民間治療法29


《ひょうそ》

ツワブキを塩でもみ、患部に巻きつけて、竹の皮で覆い包帯をする。
(小月・内日)

《オデキの吸い出し》

ドクダミの葉を火であぶり、患部に貼る。

杉の木のヤニを貼る。

牛の歯落(野草)をもんで、オデキの頭につけておくと、すぐ穴があく。
(蓋井島)

舟虫と麦飯を合わせて貼るとよい。
(蓋井島)

《あせも》

潮あびをする。

モモの葉を入れた湯、または塩水で行水する。

《わきが》

焼きミョウバンを脇にすり込む。
(王司・長府・安岡・彦島・内日)

《インキン・タムシ》

ヌカ油を塗る。
(王司・長府・秋根・彦島)

墨をこくすって患部に塗る。
(王司・彦島・内日)

タズの葉を汁をつける。
(内日)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/31 Sat. 10:48 [edit]

category: 下関の民俗

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了円寺と高杉療養地跡 


了円寺と高杉療養地跡

国道脇の人道を歩くのはあまり楽しいものではない。
「桜山神社」の標柱のそばの書道具店とお茶屋の間に入ってみよう。
静かな小路がつづく。
かつて小瀬戸の海がこの辺りまで入り込んでいた頃、人々はこの狭い道を行き来していた。
右手は石垣の上に古い家々が並び、左手は道よりも下に家が建っていたりして旧八幡町に似た風情がある。

屋根が足元にうずくまっているような錯覚を起こしながら、のんびり歩いて行くと、横断歩道橋のそばに出ることになるが構わず右へ折れて小路を辿ることにしよう。
やがて、いやでも国道に出てしまう。
そのあたりからが了円寺坂で、その名の寺院は坂の登りかけた途中に堂々とした山門を据えて白塀と石垣の曲線が美しい。

本堂、方丈、庫裡、鐘楼とすべて揃っていて、大きなイチョウの木が二本、桜も墓地のネムノキも共に大きい。
しかし、幕末に志士たちが屯所としていた面影は何もなく、また、それを記した立て札さえもないのはやはり寂しい。
同じことは西の光明寺でもいえるが。

ところで、了円寺の明治時代の住職、丘道徹は私財を投じて、代用感化院薫育寮を二十数年間経営していたが、これは大正元年に山口市にある「山口県立育成学校」に改組移管された。
すなわち丘住職はこの方面のパイオニアという訳である。

境内を出て横手のゆるい石段のある坂を下ると、途中に「了円寺参道」と書かれた碑が雑草に埋もれていた。
ということは参道は山門をくぐらずにその左手を登っていたことになる。
そういえば、了円寺の山門は長府毛利家の勝山御殿から移したものだという話を聞いたことがある。

さて下駄ばきぶらたんも、下関駅周辺という制約があれば、この辺りから引き返すべきであろう。
了円寺坂を登ってしまうと、金比羅、武久、幡生と先は広くつい帰りそびれてしまう恐れがある。
とりあえず、厳島さんの信号まで戻って神社手前の小路を左に入ろう。

まっすぐに進むと山陽本線の狭く低いガードをくぐることになり更に左に折れて坂道を登ると左手住宅の玄関先に「高杉東行療養之地」の碑が建っていて鉄扉の中に花立が一本と晋作の詩碑がある。
高杉は短い生涯に何百という詩歌を書き、旅日記なども事細かに書き残しており、平和な時代に生きていれば文人としてその名を高めたかもしれない。

落花斜 日恨無窮 自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下 暮朝欲佛廟前紅

落花斜日恨み窮まりなし
自ら愧ず残骸晩風に泣く
怪しむをやめよ家を華表の下に移すを
暮朝廟前の紅をはらわんと欲す

この詩は慶応二年の作で「桜山七絶」と題し「時に予、家を桜山の下に移す」と副書きがしてある。
病気療養のため白石家からここに移ってきた頃の感傷だ。ちなみに華表とは鳥居のことである。

高杉はここで度重なる入牢と回天義挙などによりボロボロに痛めた体を休めながら、国を憂い、多くの死者たちのことを思って悩み苦しんだ。
そして秋から冬へかけて日に日に衰えてゆく体力を気力はどうすることも出来ず、やがて新地の林邸に移って死期を迎えることになるのです。

己惚れて 世は済ましけり 歳の暮 東行

ところで、この療養地のすぐ上に赤鳥居の「立石稲荷」があり、本当はここで静養したんだという説もかなり広く信じられている。
そういえば拝殿の前の花立に彫られた定紋は高杉家のものと類似しているし、ここからなら招魂社の森も手に取るように近い。

お稲荷さんの上の平坦地は住宅地になっているが、戦前には桜山競馬場といって草競馬ファンにとって懐かしい場所。
この住宅地の突き当たりは河野学園で、幼稚園から女子短大までの各層の賑やかな声が聞かれる。
その少し手前を右に折れると正面に神田小学校があり、前の坂道を東にくだると厳島神社の横に出ることになる。
しかし、坂を下りきったあたりから左に折れて、適当な小路を右に入り細い坂道をぐんぐん登るとやがて下りとなって山手町から関西通りへ出ることができる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/30 Fri. 10:23 [edit]

category: ぶらたん

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下関の民俗 民間治療法28 

民間治療法28


《イボ》

ナスのへたでこする。

ハトムギを食べる。
(長府)

《シモヤケ》

ショウガの葉か、松葉を煎じて患部をひたす。

《そこまめ》

タバコの灰と麦飯を練り合わせ患部に貼る。
(蓋井島)

《腫れもの》

ヒルに膿を吸わせる。

ヒガンバナの球根をつぶして塗る。
(王司・秋根・安岡・彦島)

水仙の球根をすりつぶし、メリケン粉と酢をまぜ布にぬって貼る。
(六連島)

ドクダミを用いる。

《水ぼうそう》

谷ガニを布に包んでつぶし、その汁をぬる。
(小月・王司・内日)

大根の葉をすって、それを患部に貼り付ける。
(彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/08/30 Fri. 10:13 [edit]

category: 下関の民俗

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高杉終焉の地かいわい 


高杉終焉の地かいわい

利慶寺の前の小路は幾つもの路地に分かれていて、かつての新地遊郭の名残りも感じられるが、それを横目にしばらく西へ歩き、少し大きな通りを右折して北へ出よう。
国道191号線はすぐそこだ。
目の前に信号があったらボタンを押して国道を横断しよう。
そのまま山手に向かって小路を入る。
古い家並みの十字路の角に「左こんぴら北うら」と彫った標柱が建っている。
「左は金比羅から北浦街道へ」という意味で、この道は藩制時代の往還だったから当時のものがそのままの形で残っているわけだ。

その標柱から少し下関駅方向に戻ると左手に「小田海仙宅跡」の石柱がある。
萩毛利藩の御用絵師で、江戸、京都、大阪などで広くその名を知られた海仙は、頼山陽とも親しく分筆にも秀れていたというが、文久二年に七十八歳で世を去っている。

さて、ぶらたん氏のコースはここから再び先ほどの指導標まで戻ることになる。
だが、そのまま引き返しては面白くない。
途中の小路の奥をちょっと覗いてみよう。
そこはかつてのの新富座、戎座の跡地だが、嬉しいことに今でも「戎座」の看板だけが残っている。
そして懐かしい「新富湯」も依然として健在である。
だから、戎座の看板や新富湯の暖簾を眺めに遠くから杖をついてやってくる老人が何人かいる、という話を聞いたりすると、さもありなん、と、ついうなずきたくなろうというもの。

新地には江戸時代末期に芝居の掛小屋としての新地小屋があった。
それは明治になってから少し離れた場所に戎座と改めて開業されたがまもなくして、それは新富座となった。

「下関市の新地新開作新宅新田の新富座の障子の下にシラミが四匹、敷居の下にもシラミが四匹、尻を並べて舌出して芝居の最中に死んでいた」と唄っては、「シの字がナンボあったかあ」と当て合う他愛ない語呂遊びが流行るほど繁盛し市民に親しまれた新富座は、戦後間もなく全焼した。
その跡にできたのが明治時代の名前を引き継いだ戎座だが、これも約二十年間娯楽の灯をともし続けたものの、数年前にその営業を閉じた。
しかし、幕末の新地小屋から脈々と続いた「シントミ」と「エビス」の二つの名前は、裏町の弁天座、細江の稲荷座と共に下関市民の郷愁をそそるものがある。

先ほどの指導標の前にあるボーリング場は下関のボーリング熱の草分けで、その後、市内には十幾つのボーリング場が乱立した。
その大きな建物の裏には「高杉晋作終焉の地」と書かれた大標柱が建っている。
周囲に玉垣を巡らし鉄扉が閉じられているが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。

文久三年六月奇兵隊結成のために下関に出てきた高杉東行は、若い命の燃焼のままに藩を動かし国を揺さぶり、そして国を救う大活躍をしたが、無理がたたって結核を患って倒れた。
「白石正一郎日記」によれば慶応二年七月、小倉戦争の指揮中に病気を訴えた、とある。
高杉はその後も門司に渡って野営をしたり陣頭に立って指揮をとったが、過労は病状を悪化させ、ついには起き上がれぬ体になってしまった。
小倉攻めの作戦会議は高杉の枕辺に集まって開かれたりした。

そのうち小倉城が燃え落ちるとその方面の参謀職を前原一誠に譲って、桜山の奇兵隊営所とは名ばかりのあばら家へ移った。
そこで秋から厳しい冬へかけて、高杉は療養の身を横たえ、翌三年の正月すぎに新地の酒造家、林算九郎の屋敷に移ってきた。
そして四月十四日、満二十七歳と何ヶ月かの短い生涯をここで終えたのであった。

その終焉の地を隔てて建つ山門は中島名左衛門ゆかりの妙蓮寺である。
山門の二階には太鼓が奉納されていて、正面に方丈と庫裏、右手に本堂があり、親鸞上人像と茶筅塚もある。

中島名左衛門は幕末の洋式砲術家で、もともと長崎の出身だが長州藩に招かれて砲術指南役をつとめていた人物。
文久三年五月、軍議の席上で長州藩の海岸防備の不足を力説したが、庚申丸の艦長らは長州海軍を過信していたために論議は物別れとなり、その夜、新地の藤屋という旅館で何者とも知れぬ三人の刺客によって殺された。
遺体はこの妙蓮寺に葬られ、その墓も本堂の裏手に建てられているが、簡単に参拝できないのが残念だ。
いつでもお詣りできるように本堂の前あたりに移すことはできないものか、と、ぶらたん氏、ここを訪れるたびに嘆く。

ところで、妙蓮寺がなぜこの小路に面して建っているか、ということはつまり国道を背にしているということになるのだが、それは先にも書いたようにここが江戸時代の往還であったからだ。
すなわち現在の国道は了円寺あたりまで海が入り込んでいて人々は伊崎へ行くには渡し舟によるか、あるいは了円寺坂のたもとを巻いていかねばならなかった。
その後、埋め立てにより新地開作が出来上がると、今の新地の中心地あたりに橋が作られた。
それがあの懐かしい思案橋で、別名を永代橋とも呼んでいたという。

今では流行歌などにより思案橋といえば長崎と相場が決まっているが、「行こか戻ろか思案橋」の歌は下関が元祖だと胸を張る老人などもいて、この付近は実に楽しい。
稲荷町、豊前田、新地とつづく歓楽の名残りは、時折このような形でひょいと顔をだすこともある訳だ。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
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Posted on 2019/08/29 Thu. 12:48 [edit]

category: ぶらたん

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