07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

東光寺と殿峰墓碑 

東光寺と殿峰墓碑

紅葉稲荷の参道に面した福仙寺の脇門に「露涼し 身は撫子の…」という俳句の一部が刻んであることは前にも書いた。
このそばの鳥居から山手へ向かって小道が登っている。
行き着く先は東光寺の墓地。
この細いのぼりもまた、趣があっていい。
だが、お寺さんの訪問はやはり表坂からからが本当だろう。

豊前田の谷を下るとそこは商店街。
四つ角の食料品店のそばに大きな門柱が建っている。
右には「浄瑠璃山」左の石柱には「禅宗 東光寺」と大書してある。
突き当たりの石段を登り右に折れてさらに登ると竜宮城の絵にも似た山門がある。
この様式は唐風というのか、あるいは中国風とでもいうのであろうか。
白く厚いどっしりとした感じがなかなか好もしい。

山門のすぐ下に古ぼけた立て札がある。
「長州藩海軍五戦士の墓碑」と書いてあって、幕末維新の足音が聞こえるような気がする。
「墓碑」というのは次のような経緯があるのだ。

文久三年五月長州藩は「五月十日をもって攘夷期限とする」という京都よりの指示に従って、関門海峡を通航する外国船を砲撃した。
その第四次光線は六月一日であったが、その日、長州藩の壬戌丸が撃たれて乗務員に八名の死傷者をだした。
そのうちの死者五名は手厚く葬られたが、それらの名前は次の通りである。
山本弥八、斉藤亀蔵、堀寅蔵、藤吉、條八、
ここには、その五名の墓が建てられていたが、昭和四十七年に、諸隊士の顕彰墓地を吉田の東行庵に建設する際、墓石と共に移転されたという。

さて、山門をくぐると正面に本堂、右手に庫裏、左手には大師堂があって、その扁額はかつて文化市長と評判の高かった木下友敬の揮毫である。

本堂と大師堂の間に寛政七年に奉納した地蔵尊がある。
その前を通って脇に出ると包丁塚がある。
そこから本堂裏手の墓地群に入って一つ一つ墓標を眺めて歩くのもいいだろう。
その前の小道をとんとんと下ると、先ほど歩いた紅葉稲荷の境内だが、それよりも東光寺山門のそばに立って九州の山塊や海峡を行き交う船の航跡を追ってたのしもう。

さて、東光寺の東側、ここもまた墓地がつづいている。
細江町の興禅寺の墓地である。
しかし、興禅寺なるお寺はどこにもない。
今は丸山一町の光禅寺に合流されているからだ。
南禅寺派臨済宗の光禅寺はもともと光明寺といった。
細江町に同じ光明寺があるので、丸山光明寺と呼び分けたが、興禅寺と龍興寺を同山に合して光禅寺と改めた、となかなか解りにくい。

話を興禅寺の墓地にもどそう。
ここには、明治末期の衆議院議員で下関の政財界で幾多の功績を残した松尾寅三の墓もある。
しかし、この墓地の見所は広江殿峰の墓標だろう。

殿峰は宝暦六年の生まれで絵と印章彫刻に秀でており。多くの文人墨客と交わりがあった。
例えば頼山陽、田能村竹田、原田柳庵、武元登々庵らで、ことに頼山陽は、文政元年三月に殿峰宅に杖を止めて約四十日間世話になっている。

本当の目的は九州遊歴であったが、下関の酒と魚の美味しさに魅せられてか、思わぬ長逗留となったようである。
もともと酒を飲まなかった山陽は三十八歳のこの時から味を覚え始めたという。
だから徳富蘇峰「山陽下ノ關広江殿峰の家に初めて酒徒たる洗礼を受けた」という意味のことを書き残している。

山陽はまた、よほど下関が気に入ったとみえ、九州からの帰りにまた立ち寄って殿峰宅に四十数日間も滞在している。
殿峰は文政五年に没したが、その墓碑銘と碑文は山陽の真筆を宮内省の某書記が写し取り、それを刻んだものである。

ところで、この墓碑への案内碑は細江町中通りの一角にある高さ一メートル弱の小さな石柱だが、
広江殿峯墓碑
此の上 六十米 頼山陽 選並書
ときざまれている。
この石柱は殿峯となっており、墓碑には殿峰という字が当てられている。
人間は他人のこととなると、案外あいまいなままにやり過ごしてしまうものらしい。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
関連記事

Posted on 2019/08/19 Mon. 10:42 [edit]

category: ぶらたん

TB: --    CM: 0

19

下関の民俗 民間治療法18 

民間治療法18


《下痢》

梅焼酎を飲む。

梅肉エキスを飲む。

ニンニク酒を飲む。

《食中毒》

早ければ食塩水を多量に飲ませ、鳥の羽か指をノドに差し込んで吐かす。
時間が経っていたら、食い当たったものを黒焼きにして食べさせる。
(蓋井島)

《胃腸病》

胃にはセンブリ、腸にはゲンノショウコを煎じて飲む。

アマガエルを生きたまま飲む。
(王司)

さるのこしかけを煎じて飲む。
(王司・彦島・吉母)

《腎臓病》

スイカを食べさせる。
(彦島・内日)

冬にナシを食べさせる。
(彦島・内日)

トウモロコシのひげを煎じて飲む。
(旧市内)

ナメクジ、カタツムリを黒焼きにして食べさせる。

タズの葉を干して煎じて飲む。


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/19 Mon. 10:16 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

19

西楽寺 

西楽寺


専立寺の東側、といっても並び建っているようなものだが、小丘の中腹に正覚山西楽寺がある。
その参道入口の石段のそばには「平重盛守護仏彦島開闘尊像安置」と刻まれた石塔も建っている。
平重盛の守護仏は阿弥陀如来座像であるが、伝承によれば、白鳳時代の天武六年に賢問子という仏師に天武天皇が勅命によって彫らせた由緒ある仏像である。
この座像は約五百年間、東大寺に安置されていたが、承安四年、平家の絶対権力によって重盛の手に渡り「平家の守護仏」となったという。

その阿弥陀如来座像が彦島に渡って来たのは、源平合戦の後、文治二年一月のことで、平家の執権植田治部之進、岡野将監、百合野民部らによって、観世音菩薩、薬師如来立像と共に密かに運ばれ、迫の一角に隠された。
その地は今でも「カナンドウ」と呼ばれているが、これは「観音堂」が転じたものである。

時宗の祖、一遍上人の高弟、西楽法師は、建治二年三月、九州へ渡る途中来島し、観音堂の阿弥陀像の威光にうたれた。
「これは凡作ではない」と看破して、一遍上人の許しのもとに、彦島に永住し座像に仕えることを決意した。
そして、迫の観音堂を廃し、本村に草庵を建てて、三像を移奉し「西楽庵」あるいは「西楽精舎」と命名したが、それから二年後の弘安元年八月には、重盛の法要を盛大に営んだ。
「小松内大臣重盛公百回忌法要」は8月21日から27日まで開催され、時の太守、大内義成も参詣し、源平の合戦で大内氏が平家にそっぽを向けたことを悔いて、阿弥陀像に泣き伏したと伝えられている。


ところで阿弥陀如来座像は、度重なる海賊の襲来を避けて、下関の専念寺に疎開させられたり、住職の死によって、何度も無住の寺となった時もひっそり留守番役に甘んじて、今では彦島の守護仏となっている。
座像の高さは蓮台から光背まで、ざっと二メートル近いと思われ、薄暗い本堂の正面で、眉間の白豪だけが、いつも透明に輝いている。
「平家一門霊」と書かれた位牌を膝元に置いて、訪れる人もいない阿弥陀像は、平家ブームに便乗するでもなく、荒れ果てた寺院の片隅で、今も彦島の生活を送っていらっしゃる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
関連記事

Posted on 2019/08/19 Mon. 09:39 [edit]

category: ぶらたん彦島

TB: --    CM: 0

19

下関の民俗 民間治療法17 

民間治療法17


《腹痛》

センプリに熱湯をかけて飲む。
(蓋井島)

ネズミチョウ(ネズミのふんのような実なる木)の皮と葉をとり、釜で煎じ途中で汁を絞り再び煎じ詰める。
水飴状になったところで、はしに巻きつけて飲む。
残りは瓶にとっておく。
(蓋井島)

《腹膜炎のはれ》

カイモと小麦粉を練って腹部に貼る。
(小月・内日)

かつらの葉を煎じて飲む。
(彦島)

《腸病》

腸を温め、ゲンノショウコを煎じて飲む。
(蓋井島)

《黄疸》

シジミの味噌汁を飲む。


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/18 Sun. 10:40 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

18

専立寺 

専立寺


本村本町の小高い丘のふところに、西楽寺と並んで建つ海音山専立寺は、青銅でふいた屋根が遠くから眺めても美しい。
この寺院は、古くは安楽寺と呼ばれ、寿永元年和田四郎常保の開基と伝えられている。
伝承によれば、常保は平忠清の執権で、富士川の合戦で敗れ、一門から離れて西走し、彦島に渡って剃髪したことになっている。
富士川の戦いというのは治承四年十月二十日平家の軍勢が頼朝の大軍に気負けして敗退したことをさすのであろうか。

その後、寿永三年秋、平知盛が彦島に城を築き、翌四年早々には、平家一門が続々とこの島にやってきたが、その時の和田四郎の行動は何一つとして記録されていない。
しかし、当時の安楽寺は寺とは名ばかりの小さな草庵にすぎなかったようである。
ところが、建治二年三月、時宗の祖、円照大師一遍上人の高弟、西楽法師が来島し、安楽寺の東側に並んで西楽庵を建てた。
西楽庵は平家の守護仏を安置したので十二苗祖をはじめ島民の信仰を厚くしたが、安楽寺は永年の間、ひっそりと静まりかえったままであった。

その後、西楽庵は西楽寺と改めたため、その山号が安楽寺とまぎわらしくなった。
そこで、弘安二年安楽寺四代住職教順法師が通称「専立寺」と改めたという。この通称が、京都本願寺より正式に寺号として許されて専立寺となったのは四百年近くも後のことで、慶安二年六月四日であった。

その十年ばかり前、寛永十五年には天草の乱における小西の残党が海賊となってこの島を占拠したので、島民の多くは下関へ疎開したが、何人か残った者は、廃寺同然となった西楽寺と共に専立寺を守り通したという。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
関連記事

Posted on 2019/08/18 Sun. 10:21 [edit]

category: ぶらたん彦島

TB: --    CM: 0

18

紅葉稲荷と福仙寺 

紅葉稲荷と福仙寺

地蔵堂の前の道をまっすぐに下れば西尾病院の前を通って豊前田通りへ出るが、地蔵堂のそばの石段を下ると、一人がやっと通れる軒下の路地で茶山通りの商店街に出る。

真向かいのベット屋と呉服屋の間の小路を登れば笹山で、勝安寺裏の大銀杏のそばをなおも登っていくと、左手は古い昔ながらの家並みが続く、そして右手は御影石の立派な石垣が美しい。
やがて峠へ出て左へ並ぶ軒下をくぐれば旧東方司だが、まっすぐに下れば豊前田の谷に出る。

谷筋のゆるやかな坂道を少し下って左手の米屋の角を折れて入ると大鳥居がある。
豊前田繁栄の守り神、紅葉稲荷神社の参道がそれで、左の小さな石段は福仙寺の山門に続く。

紅葉稲荷の玉垣に松旭斉天勝の名前が刻まれているのは、このお稲荷さんがもっと下方にあった頃、その境内の一角に稲荷座が華やかな一時期を送った名残である。

稲荷座は明治の初年から昭和初年までの約五十年間、東の弁天座と西の戎座(のち新富座となり戦後再び戎座)にはさまれながら市川八百蔵、菊五郎、左団次、歌右衛門、吉右衛門など一流の歌舞伎や松井須磨子や沢田正二郎らを招いて親しまれてきた。
しかし、三度に渡る大火によってついに身売りする羽目になり、それが後に大山劇場に変わって戦後はセントラル劇場となった。
今ではその跡地にセントラルビル、銀行、証券会社などが建っている。

豊前田通り近くにあった紅葉稲荷がこの山手に遷座されたのも、やはり三度に渡る大火が原因だった。

約五十年前までは、現在のお稲荷さんの森あたりに料亭が建っていて日夜夜毎、芸妓の笑顔や三味線の音が響いていた。
ところが三度目の大火の際に、焼け残った中村という家の屋根に稲荷大明神が立って、本殿の上方がうるさすぎる、と告げられたという。
そこで近在の住民が協議して、お稲荷さんを料亭よりも上の方、つまり現在地にお移し申し上げたところ、それ以来豊前田には火災が無くなったと、このお宮を守る浜上さんが話してくれた。

さて、ぶらたん氏、石鳥居と玉垣の刻字に見とれ過ぎたきらいがある。
天勝のそばには川棚芝居で鳴らした若島座が奉納した玉垣もあるが、石鳥居をくぐって約四十段の石段をのぼろう。
そこにも鳥居がある。
その脇に福仙寺への入り口があるが、その小さな門柱には、右側に
露涼し 身は撫子の… と彫ってある。
しかし左側の柱には下の句が無い。
よく見ると左右の石柱の大きさが違う。
だから一方が何かの事情で消え失せ、代わりの石を据えたものであろう。
この句の作者は「力」となっているが、無いとなれば何とかして下の句が知りたいと、ぶらたん氏、なかなかあきらめが悪い。

ここからまっすぐにお稲荷さんに向かうと左手に市の保存樹木に指定されている大イチョウがそびえ立っている。
そして右手の広場の片隅には、台座から高さ四メートル弱で幅約七十センチ、奥行三十センチの大きな歌碑が建っている。

一声を高く安け奈ん郭公
久も残土よ利きかしま寸ら舞

一声を高くあげなんほととぎす
雲の上より聞かしますらん

と彫ってあり、作者は為貞となっていて、裏面を見ると明治三十四年に息子さんが建てたことになっている。
為貞という人がどんな人か判らないが、ぶらたん氏はこの歌を判読する為に何度もこの境内に足を運んだ。

ここからまた石段を登ることになるが、その石段のそばにも四季の句を刻んだ碑がある。
読める字もあれば読めない字もかなり多い。
だからあきらめるというのは些か決断が早い。
読めない句碑はひっくり返してでも読んでみよう、と裏面にまわって驚いた。
「ばせを」と書いてあるから紛れもなく芭蕉の句が彫ってあるわけだ。

月代や 膝に手を置く 宵のほど ばせを

芭蕉はこの句を作るにあたって、何度も手を加えている。
「笈日記」を見ると
月代や膝に手を置く宵の宿 となっており、ほかにも、下五が「宵のうち」とか「雲の宿」となっていて、いろいろ迷った末の句であることが判る。

ところで、この句碑は一体なんだろう。
芭蕉の句碑を裏返して蕉風をくむ人たちが四季の句を刻んだものであろうか。
あるいは、何かのはずみで転倒したこの句碑をセメントで固める際に、表裏を間違えてしまったものだろうか。
いずれにしても天下の芭蕉が石垣に鼻をくっつけるようにして建っている句碑とは珍しいかもしれない。
因みに四季の句を彫っている四人は、三原紫幎、山県為静、桝田遊山、菊谷里水の四名だが、この人たちの事績を調べてみるのもまた面白いだろう。

さて、本殿へは、ここからさらに五十段ほど登らねばならない。
宝暦年間の灯篭や天保年間の手洗鉢などがあって本殿は近く屋根を葺き替えるとか。
ここには下関で最も優れた画家といわれた山中月洲の絵がある。

本殿横の朱塗りの鳥居は若宮様を祀っているもので、熱心な信者には、ここに三注の随神がおられ、赤ん坊を抱いた慈母観音の姿がはっきり見えるという。

ところでこのお稲荷さんは伏見稲荷の「わけみたま」だから日本三大稲荷の一つだと、ここにお詣りする人々は鼻が高い。

同じ境内に堀を隔てて並ぶ福仙寺は真言宗のお寺で、紅葉稲荷と同じくらいの大イチョウが本堂の前に繁っている。
大きな手入れのゆきとどいたソテツがあって、鐘楼もあるにはあるが戦時中に献納したままなのか釣鐘が無いのがいささか寂しい。

そして裏山に西国八十八箇所の霊場がある。
この辺り一帯は豊前田商店街からわずか百メートル奥まった場所とは思えないほどの静かな幽境で、まだまだ下関にはこんな聖域も残っているのかと、思わず胸を張りたくなるのである。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
関連記事

Posted on 2019/08/17 Sat. 10:16 [edit]

category: ぶらたん

TB: --    CM: 0

17

下関の民俗 民間治療法16 

民間治療法16


《肋膜炎》

彼岸花の根または水仙の根をおろし、飯粒で練り、布に伸ばして土踏まずに貼る。
(安岡・内日)

マムシを蒸し焼きにして飲ませる。
(安岡)

ミミズを煎じたものを解熱のために飲ませる。
(王司・彦島・安岡・内日)

青ガエルの小さいのを生きたまま飲む。
(清末)

マムシの生かし焼酎を飲ませる。
(安岡)

墓の骨壷にたまった上澄みを飲む。
(秋根)

《心臓・血圧》

カキの葉を煎じて飲む。
(小月・安岡・吉母)

青ジソの焼酎漬に砂糖を加え、三ヶ月たったものを飲む。
(小月・長府・内日)

卵の黄身の油を飲む。
(旧市内・安岡・彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/17 Sat. 09:45 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

17

高杉晋作 

高杉晋作


東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」

その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。

元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。

この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。

相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。

高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。

慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。

彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
関連記事

Posted on 2019/08/17 Sat. 09:15 [edit]

category: ぶらたん彦島

TB: --    CM: 0

17

茶山口のお地蔵さん 

茶山口のお地蔵さん

下関の人々には、神社や仏閣、あるいは辻々の野仏などをさんづけで呼ぶ習慣がある。
だから大歳神社は大歳さんで、赤間さん、住吉さん、八幡さん、光明寺さんと親しげである。

その大歳さんの石段を十段ばかり下って左に20メートル、更に左へ折れ右に折れて坂を下ると「お地蔵さん」の祠に出る。
いつお詣りしても必ず線香が燃えていて何人かの信者が祈っている。
それもほとんどが女性だからその方面に効能があるのかもしれない。
そのことを信者の一人に訊ねてみると、どんなことでも聞いてくださいますよ、という返事が返ってきた。

だが不思議なことに、このお地蔵さんの名前を知る人がいない。
二十年も三十年も前からここにお詣りしているという老婆でさえも「このお地蔵さんは、お地蔵さんという名前で、他にはありませんよ」と、今更変なことを聞くなとでも言いたげであった。

そしてある老女などは別に願い事があって参詣するのではなく、昨日も無事でしたとお礼にきているんだ、と嬉しそうに話してくれるのである。
そんな所に本当の素朴な信仰の姿が感じられるお地蔵さんだがずいぶん昔のこと、ぶらたん氏は何かの本で、このお地蔵さんと法正院との関係について読んだような気がする。

法正院は新地の上条にあるので、出かけて行って訊ねればよさそうなものだが、知りたいと思いつつ何年も過ごしてしまう魅力も捨てがたいから厄介だ。

この地蔵堂には多くの仏像が祀られているが正面の地蔵尊が最も大きく、黒くつやつやと光ったお顔はたくましい。
そして右脇に四体と入口の両側には各三体の地蔵尊が向き合って座っていらっしゃる。
「抱え地蔵」と書かれた木札もある。
その他には観音、阿弥陀、釈迦、仁王、大日、不動明王など、小さな仏像群が線香の煙をあびて、次々に訪れる信者たちにご利益を施しておられる。


冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」
昭和51年 赤間関書房
関連記事

Posted on 2019/08/16 Fri. 12:12 [edit]

category: ぶらたん

TB: --    CM: 0

16

下関の民俗 民間治療法15 

民間治療法15


《肺炎》

コイの生き血を飲む。
(小月・王司・内日・彦島)

金魚の肝を丸飲みにする。
(内日)

コイの肝を丸飲みにする。
(彦島)

鰻の生き血を飲む。
(彦島)

カラシをとかし、厚い布に伸ばして胸に貼る。
氷で頭を冷やす。
(蓋井島)

《肺結核》

スッポンの生き血を飲む。

コイの肝を丸飲みにする。

鰻の肝を毎日飲む。
(彦島)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
関連記事

Posted on 2019/08/16 Fri. 11:33 [edit]

category: 下関の民俗

TB: --    CM: 0

16