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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

平家塚 

平家塚


こんもり繁る森の中に、ひっそりと清盛塚は建っていたが、その後、前田勲氏の調べによると、その「ノジ」の丘は、古くは「小豆山」と呼ばれていたとか。
これも、私にとっては初耳であった。小豆山という地名は、本村と迫の中間の、老の山の中腹にもあったが、その後、卯月と改められ、今では小月山と三転している。
つまり、地蔵峠と小豆山と、同じ地名が江ノ浦と本村にあることに、私は何かの因縁を感じないではいられない。

さて、清盛塚が見つかったからには、平家塚のいわれについても書かねばなるまい。
古老の伝えるところによれば、この島には平家塚は五つ、あるいは七つ、建てられていたことになる。
それが一体、どこにあったかということになると、今となっては全く解らないが、建てた動機については、それぞれまことしやかな理由が伝えられている。

知盛公の築城後に、その勇壮な死を悼んで建てたとか、落人が割腹したあととか、官女が源氏の追討者に痛くいたぶられた所などに、島民が石塔を建てて供養したという。
しかし、それらの平家塚を、誰が守り、どのような形で供養してきたかといえば、塚の建つ部落では、当家を決めて毎月四の日に、そっと花や榊を供える習慣があったとかいうから、一応、想像はできる。
当家は一年間、その塚を守らねばならず、四の日の参拝者は当家の主人だけではなく、その身内であれば誰でもよかったが、たった一人で出かけることになっていたと伝えられている。
だが、かんじんの平家塚が、どのような形をしていたか、あるいは、どの辺りに建てられてあったか、また、その供養がいつの頃まで続いていたものか、それらについては全くわからないままである。

ところで、老の山山頂近くの小道を卯月峠へ向かって、藪をかき分けながら少し下ると「山の神」と書かれた古い石塔が建っている。
数年前、この石を祭神として赤い鳥居を寄進した人がいるが、これなども江ノ浦の清盛塚と同じように、古くから平家塚と呼ばれていたものの裏面に「山の神」の字句を刻んだのではないだろうか。
また、福浦の安舎山の麓にも「地神」と書いた小さな石があったし、角倉の段地堤から山中へ抜ける藪道は、古くビクの谷と呼ばれていたが、その中ほどにも「山の神」の石塔があった。

ちなみに、安舎は、文永11年開拓の頃には安座と呼ばれていたし、ビクの谷は出家が住んでいた谷、つまり比丘の谷に通じる。

「清盛塚」「地鎮神」「山の神」「地神」これらの字句を並べ立てながら、私はその蔭に密かに供養されつづけてた平家塚を見るのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/29 Mon. 11:16 [edit]

category: ぶらたん彦島

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下関の民俗 社会生活に関するもの1 

社会生活に関するもの1


村中の生活に関するものは。父母や年長者から教わった。
(小月・王司・内日・彦島・安岡・六連島・北九州)

枯れ草焼きや道普請などの共同作業への出役は、原則として弁当持参、手当金なしであった。
(吉田・王司・秋根・内日・彦島・安岡・吉母・六連島・北九州)

しつけ・作法・伝授などは、村の長老がいて行われ、また世話人たちが指導した。
(王司・内日・六連島・北九州)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/07/29 Mon. 09:49 [edit]

category: 下関の民俗

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河野 タカ こうの たか(1891-1980) 

河野 タカ こうの たか(1891-1980)


明治24年、現在の下関市彦島本村町で生まれました。
彦島実践女学校を卒業。大正6年に東京武田高等女学校専攻科へ入学。その後、大妻高等女学校高等科手芸科に入学し、同9年、卒業と同時に母校の東京武田高等女学校裁縫教師として就職し、教員生活の第一歩を踏み出しています。
同14年、かねて念願していた女子専門教育を実現させるため下関に帰り、次の年、上田中大正通りに河野高等技芸院を創設。同17年、桜山町に新校舎用地を購入。新校舎の実現は六年後のことでした。
戦後は、教育制度も大きくかわり、学制改革により新制中学校が発足すると、同22年、下関河野学園中学校を創設。続いて、新学制による下関河野学園高等学校を開校し、校長を勤めています。
同25年には、幼児教育の重要性を認識し、市内唯一の私立幼稚園下関河野学園幼稚園を開設、さらに、同37年、下関女子短期大学家政科を創設し学長に就任。
幼稚園・中学・高校・短大と一貫教育の場をつくりました。80歳を過ぎ、なお教壇に立ち、生涯を女子教育にささげました。
同55年ななくなりました。享年88歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/07/29 Mon. 09:48 [edit]

category: 彦島あれこれ

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