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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関の民俗 日常のこと1 

日常のこと1


毎朝、神、仏を拝む。
(小月・王司・秋根・内日・旧市内・彦島・吉見・吉母・六連島・北九州)

敷居(特に玄関の)は主人の顔だから踏むものではない。
(吉田・小月・清末・王司・長府・内日・旧市内・彦島・吉母・蓋井島・北九州)

舟のともづなは踏んで通れ。

北枕で寝ない。
(吉田・小月・清末・王司・内日・旧市内・彦島・吉母・蓋井島・北九州)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 10:17 [edit]

category: 下関の民俗

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下関の地名1 田の首 

田の首(たのくび)


昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。
散木集の歌に「たつ(田鶴)も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。この「たつ」とは鶴のことであります。昔は鶴が降りてきたようであります。
西側の海岸に出張った所を「金が弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたと言う伝説があります。また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。
幕末以降から軍事には重要な所となり、小倉戦争の時には弟子待同様台場に敵艦から激しい砲火を浴びたのでありますが、堂々たる杉山(筋山)の砲台はおおいにその威力を発揮し、明治以降も海峡の重鎮でありました。
なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから西方大山の岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。
以前は田の首の所轄でありました塩浜町は福浦湾に面しておりまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたものであります。

「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 10:01 [edit]

category: 下関の地名

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高杉晋作が彦島を救った 2 

高杉晋作が彦島を救った 2


講和の全権を担って、外国との折衝をまかされたのが「高杉晋作」でした。
講和談判は、彦島が攻撃を受けた翌日の8月8日から始まりました。
イギリスの艦船に乗り込んでの講和談判では、晋作の通訳を伊藤博文、井上馨がつとめました。
賠償金300万ドルの要求は拒否し、これは幕府が払うことになりました。
その他事実上の下関開港や関門海峡の自由通行などは認めました。
その交渉の中で、イギリス提督は「彦島の租借」を申し入れてきました。
「彦島を期限付きで外国に貸してくれ」と言ってきたわけです。
晋作はこの二年前に上海に視察に行く経験をしていました、
二ヶ月間の上海視察で見たものは、欧米列強に支配され、半植民地と化していた清国の惨状でした。
ですから、この「彦島を貸してくれ」という提案が何を意味するのか、しっかりわかっていたのです。
晋作は「この土地は、長州のものではありませーん。むかーし、むかーし、その昔…」と日本の歴史をひもときながら、神々の話などしをして、通訳ごと煙にまいてしまった…とか、烈火のごとく怒って断った等と伝えられています。
明治42年に伊藤博文が、軍艦から彦島を眺めながら当時の交渉を「…今から考えてみると危ないところじゃった。そうなれば、この島はちょうど今日の香港と同じことになるし、馬関は九龍となるところじゃったろう。考えるだけでも身の毛のよだつ話じゃ」と振り返ったことが「伊藤公全集」に残されています。
もしも晋作が「ああ、どうぞどうぞ。彦島なんかでよければ自由に使ってください」と返事をしていたら、その後の日本史は大きく変わっていたでしよう。
今、私たちは彦島に住んでいなかったかもしれません。
高杉晋作が上海に旅行にいったおかげで、今の平和な彦島があるといってもいいでしょう。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 09:44 [edit]

category: 彦島あれこれ

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