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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

平家踊り 

平家踊り


この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。

この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。

それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/26 Fri. 09:21 [edit]

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高杉晋作が彦島を救った 1 

高杉晋作が彦島を救った 1


幕末、彦島はその後の日本史を大きく変えてしまうかもしれないほどの危機にさらされていました。
当時の窮地を救ったのは、若干26歳の「高杉晋作」でした。
新作が24歳の時に、上海に旅行に行っていなかったならば、今頃皆さんの家は彦島にはなかったかもしれない…というお話です。

攘夷の決行

1863年、長州藩は「攘夷」を決行します。
攘夷とは「夷人をしりぞける」。
つまり外国を実力行使で撃ち払うという考えでした。
攘夷戦にそなえて、彦島にも老の山や竹ノ子島、山床(田の首)などに砲台が築かれました。
攘夷期限とされた文久3年5月10日、長州藩は兵を下関に集結させます。
久坂玄端率いる光明寺党は、亀山砲台から合図の一発を放ち、関門海峡を通るアメリカの商船ベンプローク号を砲撃しました。
以降、フランスやオランダの船にも砲撃を加え、長州藩は外国船を撃ち払うことに成功しました。
しかし6月1日、列強の反撃が始まります。
アメリカ軍艦ワイオミング号が関門海峡に現れ、長州藩は亀山砲台と彦島砲台砲撃しますが、砲弾は届きません。
海峡に入ってきたワイオミング号は、艦砲射撃で亀山砲台を破壊し長州藩の軍艦を戦闘不能に追い込みました。
6月5日には、フランスの軍艦2隻がやってきて、前田、壇ノ浦の砲台は壊滅的な打撃を受け、フランス軍250人が前田に上陸。
砲台を占拠され、村に火を放たれるなど大敗を喫することになりました。
下関での敗北は、萩城にいた藩主毛利敬親にもすぐ報告されました。
敬親は、下関の海の守りに萩から25歳の高杉晋作を送り込み、晋作は身分を問わない有志による軍隊「奇兵隊」を結成します。

翌年、四カ国連合艦隊が来襲(下関戦争)彦島も

関門海峡で外国船打ち払いを決行した翌年、元治元年8月、四カ国連合艦隊(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)17隻が下関に来襲しました。
8月5日から7日のわずか三日間で、嵐のような攻撃を受け、7日には彦島の砲台は群は集中攻撃を受け陸戦隊に上陸され、大砲60門を奪いとられました。
長州藩の砲台はことごとく破壊され、多くの外国兵の上陸を許し、長州藩は敗北しました。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
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