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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関とクジラの歴史3 

下関とクジラの歴史3

南氷洋への捕鯨基地へ

中部幾次郎は、大正7年、土佐捕鯨を買収し、捕鯨業に第一歩を踏み出します。
土佐捕鯨には、福志満丸という捕鯨船と、日本一の砲手・志野徳助がいました。
初めての南氷洋捕鯨は、昭和11年に出港。
頼りにした人、志野徳助が南氷洋到着前に急死したものの、シロナガスクジラ807頭、ナガス279頭など捕獲し大成功をおさめ、翌年の4月23日に下関へ帰港。
全船満艦飾の八隻の捕鯨船は、捕獲の成績順に入港したそうです。

しかし、慣れぬ南極海のこと、次の年には、大惨事が待っていました。
気象の急変に気がつかず、三隻の捕鯨船が氷の海に閉じ込められ、動けなくなったのです。
船長以下50人は、船を放棄し、氷の割れ目に転落を防ぐため、一人一人竹竿をもち、氷原を十時間も歩き、やっとの思いで救出されたそうです。

やがて、戦争が激しくなると、捕鯨母船や捕鯨船も戦争のために使われ、そのほとんどが壊滅してしまいました。

戦後は食糧難救済のため、国策の一環として、昭和21年から捕鯨が本格的に再開されました。
急造の船団は、軍艦を改造して母船とし、小笠原島周辺へ向け、下関港から、軍艦マーチ・進軍ラッパに送られて、勇ましく出港しています。

戦後のクジラは、当分の間、政府によって買い上げられ、他の魚とともに統制食料品で、配給によって庶民の手に届いたそうで、名古屋から東では、これを機に食習慣になったといわれています。

大洋漁業は、昭和24年に本社を下関から、東京に移しますが、捕鯨船40余隻を建造した林兼造船、鯨肉を食品に加工した林兼産業、さらに製氷会社など、関連会社の多くを操業させ、下関市発展の一翼をいなっていました。

昭和40年代のことですが、下関でのクジラの消費量は、鯨肉1000トン、ハム・ソーセージなどに4500トンが使われ、安価で蛋白質が豊富なことから、学校給食にも盛んに活用されていました。

また、下関には、昭和33年開店した大洋漁業直営のクジラ専門レストラン「日新」があり、献立は刺身など23品目と、クジラ和会席、クジラの洋食フルコースがあり、年間13万人の客が訪れました。
岡本幸一調理長は、フルコースのできる全国でただ一人のひとでした。

しかし、探鯨機搭載による捕獲率の向上、捕鯨オリンピックと称し各国が南氷洋で覇を競い、日本も昭和34年に第一位となり、最盛期には七船団が出漁、こうした結果は、同60年、商業捕鯨の一時停止を招くことになりました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/07/19 Fri. 10:28 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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下関観光検定091 

【質問】

下関市豊浦高校出身の花原勉は、東京オリンピックで金メダルを獲得しましたが、何の種目で獲得したでしょうか。

【答え】

レスリング

【解説】

花原勉は、東京オリンピックレスリングのグレコローマンスタイルフライ級で金メダルを獲得しました。
豊浦高校時代は柔道部で活躍、日本体育大学でレスリングに転向、昭和35年から昭和40年まで日本選手権を6連覇しています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/07/19 Fri. 09:48 [edit]

category: 下関観光検定

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彦島八幡宮 御由緒 

■彦島八幡宮 御由緒
 
 当宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされたのであります。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったと云われる事から造船、漁業関係者の崇敬が厚く、又、安産の神として別名子安八幡と崇められて併せて式神、文化神、生産神として御霊験あらたかな神様であります。尚、秋の例大祭「十月二十一日」には八百四十余年伝来の無形民俗文化財「サイ上リ神事」があり由緒の深さを示しております。

■河野通次の来島と彦島十二苗祖
 
 河野通次は人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。


彦島八幡宮HPより


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Posted on 2019/07/19 Fri. 09:03 [edit]

category: 彦島あれこれ

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