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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関とクジラの歴史2 

下関とクジラの歴史2

大陸などへ販売を拡張

明治も後半になると、捕鯨の方法も銛や網を使う方法から、近代的な砲を使った「ノルウェー式捕鯨」へと進展し、捕鯨頭数も飛躍的に増加します。

日和山に顕彰碑のある、岡十郎と山田桃作によって、明治32年、日本遠洋漁業が創立されると、その出張所が下関に置かれました。
すると、西村宗四郎は、岬之町に、「西宗商店」を創立し、鯨油・鯨肉などの一手販売を行い、北海道から九州・朝鮮・満州・台湾を販路とし、その規模は関西随一を誇りました。

このころ、国内はもとより、満州や台湾を販路とし、海上運輸、木材・食品と多方面にわたって、流通業を営んでいたのが、南部町に建物が現存する「秋田商会」です。
その規模は、三井・三菱に負けるなを合言葉とし、機密保持と経費節約から、社内専用の「電信暗号帳」までありました。

クジラに関し、電文を紹介しますと、「鯨頼む」は、「クユ タム」となり、7字が4字で節約できるうえ、電文の意味は、全く不明ということになります。

明治時代は、クジラの流通基地・下関でしたが、明治末の37年、兵庫県明石から下関へ本拠を移し、林兼商店を創業した中部幾次郎によって、クジラとの関わりは、さらに大きくなっていきます。
ちなみに「林兼」の語源は、中部幾次郎の祖父・兼松が、屋号を林屋といっていたことによるものです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/07/18 Thu. 10:17 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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下関観光検定090 

【質問】

下関は女性漫画家を生み出していますが、なかでも女性漫画家の先駆者として活躍し、有名漫画家が集まっていた「トキワ荘」にも住み、多くの女性漫画家に影響を与えた人がいます。
それはだれでしょう。

【答え】

水野英子

【解説】

下関生まれの水野英子は、昭和30年漫画家デビュー、手塚治虫の「火の鳥」連載終了をうけて抜擢された新連載「銀の花びら」で読者に熱狂的な支持を得ます。
この頃、石ノ森章太郎、赤塚不二夫と合作のため上京。
伝説の漫画家アパート「トキワ荘」の住人となりました。
昭和45年「ファイアー」で第15回小学館漫画賞を受賞。
現在にいたるまで優れた多数の作品を生み出しています。
水野英子は先駆者としてのみならず、女性マンガの枠を広げ、可能性を示すことにより、多くの作家に多大な影響を与えてきました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/07/18 Thu. 10:14 [edit]

category: 下関観光検定

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平家踊りの歴史 

平家踊りの歴史


 この踊りは、寿永の昔平家終焉の哀史以来、壇之浦において御入水遊ばされた安徳天皇の霊をお慰めすると共に、平家一門供養のために源を発したと言い伝えられ、先帝祭花魁道中(せんていさいおいらんどうちゅう)と共に下関市観光行事の双璧としての由緒ある踊りとして現在に伝承されております。

 三味線、音頭、太鼓、踊りの渾然一体となった速いリズムが醸し出す力強いエネルギーは、恰も関門海峡に渦巻く潮流のうねりの如く、馬関・下関の歴史を現在、そして未来へと伝えます。

 今日、この踊りは郷土芸能として広く下関市民に親しまれるばかりでなく、古くは大阪の万国博や沖縄の海洋博はもとより、国内大行事は申すに及ばず、フランスニースの国際カーニバルにも招待され、最近ではトルコ国イスタンブールにおいて開催されたジャパンウイークフェスティバル(2003年)の他、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国でも公演・出演するなど、その名声は国際的にも高く評価されております。


下関平家踊り保存会ホームページより
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Posted on 2019/07/18 Thu. 09:47 [edit]

category: 彦島あれこれ

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下関とクジラの歴史1 

下関とクジラの歴史1

平成14年4月24日から一ヶ月、下関市で国際捕鯨委員会(IWC)が開催されます。
これを機に、下関とクジラの歴史をひもとき、その大要を紹介しましょう。

古代から親しまれたクジラ

下関市考古博物館に、クジラの骨を利用してできた「アワビオコシ」が、展示されています。
出土したのは、吉母浜遺跡からです。
このことから、弥生時代からすでに、私たちの祖先は、クジラを食用にしたり、骨を生活の道具にしたりしていたことがわかります。

壇之浦での源平合戦においては、クジラの一種イルカが、勝敗を占う手段とされています。
イルカが、平家軍の下を潜り抜けると敗者となり、向きを変えて戻ると勝者となる、と占いが出ました。
結果は、潜り抜けて、平家は敗者となりました。

クジラは、体の全てが利用できることから、「クジラ一頭で七浦潤す」といわれ、貴重なものでした。
永禄11年、下関市の北端、吉母と室津の境界にクジラが流れ着き、その領有をめぐって、両者が相譲らず、争いが起こっているほどです。

江戸時代になると、積極的にクジラを捕る捕鯨業が、さかんに行われるようになり、萩藩、長府藩も捕鯨を奨励援助し、見返りに税を課して収入を得るようになります。
捕れたクジラは、売り捌くことによって、税を払うことができました。
このとき、下関の問屋は、港町という地の利を生かし、長門仙崎や長崎県の生月から鯨油・鯨肉・鯨骨などを仕入れ、薩摩や大阪、東北へと売り捌く流通センターの役割を果たすようになります。
この傾向は、明治・大正・昭和時代と続き、商業都市下関の、クジラとの関わりの大きな柱でした。

では、クジラは、庶民生活にどのようにかかわってきたのでしょうか。

蓋井島に、七年毎に行われる「山ノ神神事」があることは、よく知られていますが、この祭りの「大まかない」という神事の、買い物控帳に、おばいけ、クジラ油が記されています。
また、今から約140年前、下関で奇兵隊を創設した高杉晋作に、物心両面から支援した白石正一郎の日記には、妻の実家へ尾羽毛を贈ったことが記され、鯨肉は大切な食品であり、贈答品とされていたことがわかります。

鯨油は、灯火用やローソクの原料に使われましたが、稲作の害虫ウンカ駆除のため、水田に散布され、農薬の役目を果たしていました。
また鯨骨や内臓は、肥料として大いに利用されて、捨てるところなく利用されていました。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/07/17 Wed. 10:29 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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下関観光検定089 

【質問】

下関市彦島の生まれで、映画で活躍、のちにテレビにも出演、また広告界に進出した俳優のさきがけにもなった女優がいました。
戦前から戦後にかけて活躍したこの女優は、保護司としても活動、さてだれでしょうか。

【答え】

小暮実千代

【解説】

小暮実千代は、下関市彦島福浦町生まれ。
梅光女学院、日大芸術学科卒業。
昭和13年に松竹大船撮影所に入社「愛染かつら」で映画デビューしました。
個性的な美女として活躍。
戦後は「青い山脈」「自由学校」など300本以上の映画に出演。
後テレビにも出演。また広告界に進出した俳優のさきがけで「マダム・ジュジュ・クリーム」や「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名。
昭和30年から戦災孤児のボランティア活動をはじめ、昭和48年からは女優では初めての保護司として活動。
平成2年に72歳で亡くなりました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/07/17 Wed. 10:05 [edit]

category: 下関観光検定

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福浦港・一本道の灯台 

ロケ地ガイド

《福浦港・一本道の灯台》

カーテンコール

昭和の街かどへタイムトリップ
昭和30年から40年そして、現在の下関を舞台に撮影された映画「カーテンコール」。
舞台の7割が下関で、下関駅周辺・カモンワーフ・唐戸ボードウォーク・豊前田・茶山通り・長府地区・彦島地区等、過去から現在の下関がふんだんに映像に取り込まれています。

ストーリー

出版社で見習い記者を勤めながら正社員を目指していた香織(伊藤歩)はふとした事件をきっかけに九州のタウン誌に異動を命じられる。そこで香織を惹きつけた1通の匿名のはがき。このはがきの内容を記事にするために香織は取材を始める。取材を続けるうち昭和の映画全盛の時代に下関のみなと劇場で幕間芸人という仕事に就いていた男(修平:藤井隆)とその家族の数奇な運命に心動かされ、ついに親子探しの旅に出る。佐々部清監督が父、娘、そして家族を暖かく見つめながら描く感動の秀作。
 昭和30年代から40年代にかけての描写にはモノトーン映像が使われるが、スクリーンには昭和の歴史を物語る日本映画の数々が鮮やかなカラーで浮かび上がる。日本版「ニューシネマパラダイス」。

監督 佐々部清
出演 伊藤歩・藤井隆・鶴田真由・奥貫薫・井上尭之・藤村志保・夏八木勲ほか
音楽 藤原いくろう

福浦港・一本道の灯台

修平と良江(奥貫薫)のキスシーンの場所。以来ここで告白すれば必ず叶うといわれてきましたが…。

所在地 下関市彦島福浦町1丁目26番
交通 JR下関駅からバス18分
「福浦本町」バス停下車、徒歩5分

下関市ホームページより
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Posted on 2019/07/17 Wed. 09:34 [edit]

category: 彦島あれこれ

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海峡の水深 

海峡の自然

海峡の水深

関門海峡の水深は、以外に浅く約13メートルです。
関門海峡には、航行する船舶の妨げにならないように常に浚渫作業船の姿が、どこかで見られます。

浚渫作業は、第四港湾建設局が行っているもので、潮流が速く、船舶の往来が激しいことから、一日の作業は四時間以内、平日の潮の流れが4ノット以下の時に行われます。
13メートルの水深で、3万トンクラスの船舶が航行できるそうです。
13メートルは、関門橋のけた下から海面までの高さが61メートルですから、その四分の一にも及びません。

昭和20年に終結した第二次世界大戦では、関門海峡に5500発(日本全土11000発の半数)の機雷が投下され、沈没した船は約400隻を数え、船のマストが海峡に林立していたそうです。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/07/16 Tue. 11:41 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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下関観光検定088 

【質問】

下関に生まれ、日本を代表する大女優となった田中絹代ですが、七歳で大阪に移り住むまで通っていた小学校の名称はなんでしょうか。

【答え】

下関市立王江尋常小学校

【解説】

大正5年、絹代は下関市立王江尋常小学校に入学しましたが、経済的な理由により翌年には、母ヤスの実兄の住む大阪天王寺に移ることになりきした。
現在、田中絹代が二年生一学期まで在籍した王江小学校図書館には、「田中絹代コーナー」が設置されています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/07/16 Tue. 11:39 [edit]

category: 下関観光検定

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新栄湯 

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新栄湯

また入り口が特徴的な明治時代創業のお風呂屋さん「新栄湯」を覗くと、今でも昔のままの番台やロッカー、お風呂場が残っていました。
当時は海軍の兵隊さん方が揃って入浴しにきていたそうです。
先代のお父様が毎日毎日綺麗に掃除していたため、大正時代とは思えないほど綺麗に残っていました。
10年前にお風呂は閉めてしまったそうですが、現在はギャラリーとして古布を使った人形や洋服などが展示販売されていました。

やまぐち自慢ですよ(下関市彦島)2012.07.28より


新栄湯

下関市彦島本村。
創業はなんと明治。
大正時代を経て激動の昭和をくぐり抜けた銭湯だとか。
十数年前に廃業となり今では地域のギャラリー等で利用されていると言う。
未だ男湯、女湯の入口を残しその風情を感じることができる。

銭湯へ行こう( #銭湯へ行こう ) より
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Posted on 2019/07/16 Tue. 11:09 [edit]

category: 彦島あれこれ

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海峡のタコ壷漁 

海峡の自然

海峡のタコ壷漁

関門海峡のタコは、やわらかく、とくにおいしいといわれています。
それは、流れの速い潮で育っているからでしょうか。

海峡でタコ壷漁をする、安岡漁協のみなさんにお聞きした話です。

漁船一隻が、700個のタコ壷を海峡に沈めての漁です。
漁の方法は、長い綱に、3、4メートル毎にタコ壷を取り付け、次々に海峡に沈め、二日に一回引き上げます。
700個のうち、百二三十個にタコが入っているとのことで、確率は約二割です。

沈めた綱にはウキは付いていません。
それは、一日に行き交う船舶が700隻もある海峡では、ウキにぶつかることになるからでしょう。
では、沈めた綱の位置をどうして確認し、引き上げるのでしょうか。
タコの好漁場には10隻もの漁船が集中し、他の船が沈めた綱が、10メートルほどに近接していることもあるものの、決して他の船の綱を間違って引き上げることは許されません。

位置の確認は、「山たて」という方法です。
海上では常に行われるもので、例えば、前方に見える山の山頂と、工場のエントツを結ぶ延長線と、自分の船を結び、右に見える島の端と、山の松の木を結ぶ延長線で自分を結ぶ、その位置がポイントになります。

タコ壷漁でのポイントは、綱の先端から二個目の壷のところを引き上げることにあります。
引き上げるにはスマルという道具を沈め、引っ掛けて上げます。

他の船の綱を引き上げることが無いようにするには、正確な位置の確認が、技量として求められるのです。

スマルという道具は、金属製で、釣り針の形をした大きなものを3、4本結んで束にしたものです。
古くは家庭の井戸で、あやまって井戸に落としたツルベを引き上げるために使った道具でもあります。
引き上げ作業を始めると、綱をゆるめることなく一気に引き上げなければなりません。
少しでもゆるめると、そのときに、タコが壷から逃げ出すため、700個ものタコ壷は、船上の巻上げ機で一気に引き上げられます。

タコはきれい好きで、なめらかな肌の壷に入るそうです。

安岡漁協の岸壁では、小春日和の中に何千個ものタコ壷を並べ、金属のヘラで一つずつ、壷の内部についたカキガラなどを、丹念にけずり落とす作業風景が見られます。
早春の二月、イカ柴漁の開始まで、タコ壷漁は続きます。

おいしいタコをいただくとき、タコ壷漁を思い出してはいかがでしょうか。


安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より
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Posted on 2019/07/14 Sun. 10:20 [edit]

category: 関門海峡雑記帳

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