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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

こびんおおひと 

こびんおおひと


彦島には、どういう訳か「おおひと」にまつわる伝説が多い。
おおひとというのは大男のことで、「大人」と書いている。
これと同じような話は対岸の門司にもあるが、このほうは「巨人」の字を当てている。

西山の「明神さん」の祠のそばに、これはまた実に可愛い「おおひと」の足跡が残っているが、案外、知る人は少ない。
門司の足跡が二畝もある大きなもので、彦島本村のそれは大江の谷が出来るほどの大足だというのに、明神さんのおおひとは、80センチ四方の自然石に20センチ程度の足跡を残している。
それが伝説の「こびんおおひと」の踏み石である。

むかし、世界旅行に出かけたおおひとが彦島をまたごうとした時、連れていたお転婆でヤンチャな一人娘が「おなか、へったあ」といって座り込んでしまった。
父親のおおひとは驚いて「すぐそこの海まで行きゃあ、好きなだけ魚が泳ぎよるけえ、もうちっと元気だせ」と、なだめすかしたが、娘はもう、テコでも動かなかった。
止む無く、おおひとは、すぐ近くの海辺でタコ、サザエ、イサキなどの海の幸を手掴みで採っては娘に食べさせた。

だから、娘がへたばって尻もちをついた浜辺を「江尻」といい、南風泊から西山へかけての海岸には、「タコ岩」「エラ瀬(サザエの瀬ともいう)」「エビタ」「イサンダ」などという地名が残った。
たらふく食べて、ようやく元気になった娘は「ヨイショ」と立ち上がり、そばにあった石に足をかけ「ヤッ」と玄界灘めがけて旅立って行った。
父親のおおひとは大慌てで海に入り波をヒザでかき分けて娘のあとを追ったが、その時の波音があまりにも大きかったので、響灘と呼ばれるようになったという。

そして、彦島の東山の近くに「飛び渡り」という地名も残っているが、これと同じ名前の瀬が、玄界灘の孤島、白島にもある。
それは、おおひとと娘が、大股ぎで一つ飛びに渡ったからからだと伝えられている。
ところで「こびんおおひと」というのは彦島ではお転婆娘のことを「こびんちゃん」と呼んでいるので「お転婆で可愛いおおひとの娘」という意味だろう、と古老たちは説明してくれた。

本村のおおひとについては「彦島の民話」に書いたので重複をさけるが、この他にも西山フイキンの浜は、古くから「大人崎」とも呼ばれており、田ノ首生板の瀬には大人岩がある。
また、弟子待付近の浜には、幕末攘夷戦の際に、弟子待砲台、山床砲台の他に「大人足跡砲台」が築かれ大砲も据え付けていたことが、「白石家文書」に書かれている。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/31 Wed. 10:04 [edit]

category: ぶらたん彦島

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巌流島とは 

巌流島とは

関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにあり、北端に小山があるほかは平らな島で、現在は無人島です。この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 現在は、観光周遊船が接岸できる浮桟橋をはじめ、決闘の地を連想させる海浜整備、宮本武蔵・佐々木小次郎両雄の像、関門海峡沿いには散策道や休憩所も整備されました。大小さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観を眺めつつ、潮風に吹かれながらの巌流島散策がお楽しみいただけます。

船島(巌流島)

所在地 下関市大字彦島字船島648番地
島の周囲 約1.6km
島の面積 約10.3万㎡(※島の約1/3を下関市が、2/3は民間企業が所有)
・明治期以降数度の埋め立て、現在の面積は決闘当時に比べて3~6倍程度大きくなっていると言われています。
・現在は無人島ですが人が住んでいたこともあります。

下関たのしい旅のコンシェルジュ「楽しも」より
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Posted on 2019/07/31 Wed. 09:15 [edit]

category: 彦島あれこれ

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高杉晋作 

高杉晋作


東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。
だから高杉の遺言とも思われる私信に「死して赤間ヶ関の鬼となり」「赤間ヶ関の鎮守とならん」などの字句も見える。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である。
「兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才」

その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。
というよりも、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。

元治元年八月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四カ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい」と申し出た。

この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。
もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は九十九年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。

相手を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生まれながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接しており、関門の要塞としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。

高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久三年6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定弘公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。
また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、長府藩主らも各台場を激励して回っている。
恐らく高杉は先導をつとめたであろう。

慶応二年7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を「盗みを為す者は死し、法を犯すものは罰す」という僅か二ヶ条のみの単純明快さと、「彦島を租借」と一言だけ聞いて烈火のごとく怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられ胸が熱くなる。

彦島の古老が今でも「高杉さん」と呼ぶのは、限りない感謝の気持ちが込められているからだろう。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/30 Tue. 11:41 [edit]

category: ぶらたん彦島

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彦島大橋 

彦島大橋


下関の伊崎と彦島の老の山を結ぶ「彦島大橋」は、橋長710メートル、主橋部の中央径間236メートルで、コンクリート橋としては世界第一の橋である。
世界第十位のつり橋、関門橋と共に、下関の自慢の一つになったことは確かだ。
彦島大橋が出来るまでは、高知県の浦戸大橋が中央径間230メートルで、コンクリート橋世界第一位を誇っていた。

彦島大橋は山口県道路公社の発足第一号の工事で、彦島有料道路の一部に含まれ、その全延長は4.460メートル。
大橋の他に、小迫から長崎町まで山をくり抜いて860メートルのトンネルも通された。
有料道路の工事は暫定二車線であるが、用地買収だけは四車線とし、昭和46年に着手した。そして大橋の着工は昭和48年3月で、昭和50年4月には完工し供用を開始する予定が、例のオイルショックのあおりを受けて約半年、その開通が遅れた。
この工事は、関門橋ほどではないにしても着工からドッキング、開通までにたびたび新聞に報じられたが、各紙とも、彦島上空から撮影して彦島大橋と関門橋の二つを画面に配するという決まった構図が多かった。
「世界一と東洋一が勢ぞろい」と説明をつけた新聞もあって、しきりにその完工が待たれた。

別名ヤジロベエ工法と呼ばれるディビダーク工法は昭和25年西ドイツのミュンヘン市で開発。33年我が国に導入し、神奈川県の相模湖嵐山橋で初めて採用された。

ネズミ色の大きなTの字が二つ、下関側の小門と彦島側の小戸にそびえ立ったのが二年前、それ以来、二つの橋台を軸にして、左右のバランスをとりながらコンクリートブロックを伸ばしていく工法で、「弥次郎兵衛の腕」に似ているところから、ディビダーク工法と呼ばず、ヤジロベエで通っている。

こうして出来上がった大橋は老の山の中腹を巻く関連道路に直結され、泥田堤をまたいでそのままトンネルに入る。
トンネル出口は本村長崎町の通称、篠栗山の山すそにあるが、隊道工事にかかるまでは、ここにこんこんと清水の湧き出る穴があった。
かつてはこの水を利用して清涼飲料水や豆腐の製造工場があったが工事で涸れてしまった。
この湧き水は篠栗の水、あるいは平家水と呼ばれ、昭和の初頭まではその周辺に幾つもの五輪塔が苔むしていたという。
そして、どのような旱魃にも決して涸れることがなかったと伝えられ、平家の引島城はこの丘にあったのではないかと推測する人もいる。

ドイツで生まれたディビダーク工法による彦島大橋は、私どもに八百年の一大絵巻を彷彿させてくれる。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/30 Tue. 11:17 [edit]

category: ぶらたん彦島

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藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997) 

藤本 英雄 ふじもと ひでお(1918-1997)


大正7年、韓国の釜山市で生まれました。
三歳のときに下関市彦島町に転居。昭和13年に下関商業高校を卒業。
甲子園には、同10年と同12年の選抜大会に出場し、二回目のときは優秀選手賞を獲得しています。
下商時代は、二年先輩の高井英一郎とバッテリーを組み、その後明治大学に進むと、二年生でエースとなり六大学リーグで二回優勝。同17年明治大学を卒業し、東京巨人軍に入団しています。
同21年まで巨人で活躍したあと、中日に移りますが、同23年に再び巨人に戻っています。
肩をいためてどん底の時代もありましたが、スライダーの会得で立ち直り、日本でのスライダーの生みの親となりました。スライダーで再起したのち、同25年6月28日、青森球場で西日本チームを相手に、日本プロ野球史上初めての「完全試合」の偉業を達成。
同51年にプロ野球殿堂入りをしています。プロ野球を引退後、同32年から三年間、大和証券の野球部監督として迎えられていました。
平成9年に亡くなりました。享年78歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より

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Posted on 2019/07/30 Tue. 10:35 [edit]

category: 彦島あれこれ

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