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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島あれこれ 

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著者の冨田義弘さんは、父の幼馴染で下商の同級生です。

「彦島あれこれ」は昭和50年9月30日、赤間関書房から発行されました。

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Posted on 2019/07/28 Sun. 10:19 [edit]

category: ぶらたん彦島

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28

下関の民俗 日常のこと2 

日常のこと2


縁から出入りするのは死者の作法として日常は禁じられた。
(吉田・小月・清末・王司・内日・旧市内・彦島・蓋井島・北九州)

茶碗洗いは、朝のものを昼に洗うようなことは許されない。
(小月・長府・内日・旧市内・彦島・北九州)

ふだんの握り飯は三角に結び、不祝儀の時は丸く結ぶ。
(清末)

一つ鍋の煮物に二人の人が一緒に材料を入れると双児が生まれる。
(清末)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/07/28 Sun. 10:04 [edit]

category: 下関の民俗

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28

小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990) 

小暮 実千代 こぐれ みちよ(1918-1990)


大正7年、下関市彦島町で生まれました。
本名は、和田つま、梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。
在学中から松竹映画に出演し、入社一週間目に菊池寛原作の「結婚天気図」の主役に抜擢され、そのまま映画界入りしています。
同19年には満州に渡り、スクリーンを離れますが、引き揚げて帰ると、再び松竹に誘われ「許された夜」でカムバックしています。
以後、「青い山脈」で毎日映画コンクール助演演技賞を受賞、スターの地位を不動のものにしました。
出演した作品は「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」など300本以上を数えたほか、舞台やテレビでも活躍しています。
また、広告界に進出した俳優の先駆けで、マダムジュジュ・クリームや電気洗濯機の「サンヨー夫人」のコマーシャルは有名です。
さらに、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、全国各地から保護司としての講演依頼が殺到、寸暇をさいて要望にこたえていました。
群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」講演会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組み、社交家で情けに厚い人でした。
平成2年に亡くなりました。享年72歳でした。


「下関の人物」下関市教育委員会刊行より
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Posted on 2019/07/28 Sun. 09:22 [edit]

category: 彦島あれこれ

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28

下関の民俗 日常のこと1 

日常のこと1


毎朝、神、仏を拝む。
(小月・王司・秋根・内日・旧市内・彦島・吉見・吉母・六連島・北九州)

敷居(特に玄関の)は主人の顔だから踏むものではない。
(吉田・小月・清末・王司・長府・内日・旧市内・彦島・吉母・蓋井島・北九州)

舟のともづなは踏んで通れ。

北枕で寝ない。
(吉田・小月・清末・王司・内日・旧市内・彦島・吉母・蓋井島・北九州)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 10:17 [edit]

category: 下関の民俗

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下関の地名1 田の首 

田の首(たのくび)


昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。
散木集の歌に「たつ(田鶴)も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。この「たつ」とは鶴のことであります。昔は鶴が降りてきたようであります。
西側の海岸に出張った所を「金が弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたと言う伝説があります。また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。
幕末以降から軍事には重要な所となり、小倉戦争の時には弟子待同様台場に敵艦から激しい砲火を浴びたのでありますが、堂々たる杉山(筋山)の砲台はおおいにその威力を発揮し、明治以降も海峡の重鎮でありました。
なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから西方大山の岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。
以前は田の首の所轄でありました塩浜町は福浦湾に面しておりまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたものであります。

「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 10:01 [edit]

category: 下関の地名

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27

高杉晋作が彦島を救った 2 

高杉晋作が彦島を救った 2


講和の全権を担って、外国との折衝をまかされたのが「高杉晋作」でした。
講和談判は、彦島が攻撃を受けた翌日の8月8日から始まりました。
イギリスの艦船に乗り込んでの講和談判では、晋作の通訳を伊藤博文、井上馨がつとめました。
賠償金300万ドルの要求は拒否し、これは幕府が払うことになりました。
その他事実上の下関開港や関門海峡の自由通行などは認めました。
その交渉の中で、イギリス提督は「彦島の租借」を申し入れてきました。
「彦島を期限付きで外国に貸してくれ」と言ってきたわけです。
晋作はこの二年前に上海に視察に行く経験をしていました、
二ヶ月間の上海視察で見たものは、欧米列強に支配され、半植民地と化していた清国の惨状でした。
ですから、この「彦島を貸してくれ」という提案が何を意味するのか、しっかりわかっていたのです。
晋作は「この土地は、長州のものではありませーん。むかーし、むかーし、その昔…」と日本の歴史をひもときながら、神々の話などしをして、通訳ごと煙にまいてしまった…とか、烈火のごとく怒って断った等と伝えられています。
明治42年に伊藤博文が、軍艦から彦島を眺めながら当時の交渉を「…今から考えてみると危ないところじゃった。そうなれば、この島はちょうど今日の香港と同じことになるし、馬関は九龍となるところじゃったろう。考えるだけでも身の毛のよだつ話じゃ」と振り返ったことが「伊藤公全集」に残されています。
もしも晋作が「ああ、どうぞどうぞ。彦島なんかでよければ自由に使ってください」と返事をしていたら、その後の日本史は大きく変わっていたでしよう。
今、私たちは彦島に住んでいなかったかもしれません。
高杉晋作が上海に旅行にいったおかげで、今の平和な彦島があるといってもいいでしょう。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
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Posted on 2019/07/27 Sat. 09:44 [edit]

category: 彦島あれこれ

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27

平家踊り 

平家踊り


この踊りを彦島では古くから、盆踊りとか地蔵踊りとか呼んでいた。
由来はどうもはっきりしないが、この島に落ち延びた十二家のひとびとが、いつまでもお家再興を願って、その機を窺っていることを知った西楽法師が、それを強く戒め、その説諭に従うことを決めたいきさつを織り込んだという説もある。
また、五穀豊穣を祈るもの、無病息災を願うもの、あるいは先祖を敬い慕う念仏踊りだとする説など、その伝えるところは多い。

この踊りは、永年の間に各地区ごとにそれぞれの形が出来上がり、例えば、一ヶ所に全島の踊り子が集まって競った場合など、観衆はその一人一人を指さして「あれは海士郷の踊りじゃ」「あれは弟子待じゃろう」「ありゃあ、本村がたでよ」といい当てて楽しんだものであった。従って、音頭も太鼓も各地区ごとに特徴があった。

それが近年、平家踊りとして全国的に宣伝されはじめると、市観光協会の保存会が一つの形を作ってしまったから、かつての地区色が薄らいだ。
市のほかに、各地区ごとにも嘗ての青年団を母体にした保存会が作られていて、それぞれにこの踊りを後世に伝えたいと努力してはいるが、画一化された、まるでレコードのような音頭を聞き、音締めの弱い三味線の音色を耳にすると、やはり何か寂しい。
また、戦後しばらくまでは、各地区に太鼓の名手が何人かずつ必ずいて、その曲打ちを見るために出かける人も多かったのだが。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/26 Fri. 09:21 [edit]

category: ぶらたん彦島

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下関の民俗 食事のこと4 

食事のこと4


タクアンなど漬物は三切れを避ける。
(吉田・清末・王司・長府・内日・旧市内・彦島・安岡・吉母・蓋井島・北九州)
※三切れは見切れ、処刑者のおかず。

子供は食べ残しはしない。
(王司・長府・内日・旧市内・安岡・吉見・吉母・六連島・蓋井島・北九州)

汁物のおかわりで三杯とることをしない。
(吉田・王司・長府・秋根・内日・旧市内・彦島・安岡・吉母・蓋井島・北九州)

バカの三杯汁といった。
(秋根・吉母)

食事中にゲップやあくびをすることは禁ず。
(吉田・小月・王司・長府・秋根・内日・旧市内・安岡・吉母・北九州)


「下関の民俗知識」中西輝麿著より
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Posted on 2019/07/26 Fri. 09:08 [edit]

category: 下関の民俗

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26

高杉晋作が彦島を救った 1 

高杉晋作が彦島を救った 1


幕末、彦島はその後の日本史を大きく変えてしまうかもしれないほどの危機にさらされていました。
当時の窮地を救ったのは、若干26歳の「高杉晋作」でした。
新作が24歳の時に、上海に旅行に行っていなかったならば、今頃皆さんの家は彦島にはなかったかもしれない…というお話です。

攘夷の決行

1863年、長州藩は「攘夷」を決行します。
攘夷とは「夷人をしりぞける」。
つまり外国を実力行使で撃ち払うという考えでした。
攘夷戦にそなえて、彦島にも老の山や竹ノ子島、山床(田の首)などに砲台が築かれました。
攘夷期限とされた文久3年5月10日、長州藩は兵を下関に集結させます。
久坂玄端率いる光明寺党は、亀山砲台から合図の一発を放ち、関門海峡を通るアメリカの商船ベンプローク号を砲撃しました。
以降、フランスやオランダの船にも砲撃を加え、長州藩は外国船を撃ち払うことに成功しました。
しかし6月1日、列強の反撃が始まります。
アメリカ軍艦ワイオミング号が関門海峡に現れ、長州藩は亀山砲台と彦島砲台砲撃しますが、砲弾は届きません。
海峡に入ってきたワイオミング号は、艦砲射撃で亀山砲台を破壊し長州藩の軍艦を戦闘不能に追い込みました。
6月5日には、フランスの軍艦2隻がやってきて、前田、壇ノ浦の砲台は壊滅的な打撃を受け、フランス軍250人が前田に上陸。
砲台を占拠され、村に火を放たれるなど大敗を喫することになりました。
下関での敗北は、萩城にいた藩主毛利敬親にもすぐ報告されました。
敬親は、下関の海の守りに萩から25歳の高杉晋作を送り込み、晋作は身分を問わない有志による軍隊「奇兵隊」を結成します。

翌年、四カ国連合艦隊が来襲(下関戦争)彦島も

関門海峡で外国船打ち払いを決行した翌年、元治元年8月、四カ国連合艦隊(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)17隻が下関に来襲しました。
8月5日から7日のわずか三日間で、嵐のような攻撃を受け、7日には彦島の砲台は群は集中攻撃を受け陸戦隊に上陸され、大砲60門を奪いとられました。
長州藩の砲台はことごとく破壊され、多くの外国兵の上陸を許し、長州藩は敗北しました。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
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Posted on 2019/07/26 Fri. 08:48 [edit]

category: 彦島あれこれ

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地名の読み方 

地名の読み方


彦島の地名には、約八百年近い歴史と、それにまつわる開拓の物語が秘められている。
地形的に見て実にふさわしい地名もあれば、素直には読めそうにない難解な名もある。
現在すでに安易な読み方に変えられつつある所もあって、そのような土地は、まず最初に勝手な名に改められるのではないかと思えば、やはり気が気でなくなる。

下関でいえば『阿弥陀寺』が『あみだじ』と変り、『外浜(とぱま)』が『そとはま』と呼ばれはじめたように彦島でも『武者田(びしゃで)』は最近、『むしゃだ』と呼ばれるしまつ。
そこで新住居表示に何かの参考になるのではないかと、難解な地名や、誤読され易いものを少しばかり拾ってみた。


小戸(おど)
海士郷の西寄り一帯で下関側の小門と相対し、小瀬戸の略。

海士郷(あまのごう)
彦島七浦の一つで古老は「あまにごう」と呼んでいる。

老(おい)
海士郷と本村との間で、戦前まで老村と呼んだ。老ノ山がある。

本村(ほんむら)
本町、新町、中町、卯月町、後山、長崎町を包含する。

石ヶ原(こがばら)
現在、本村小学校が建っている付近一帯。

藤ヶ迫(ふじがさと)
本村小学校裏山から第一高校付近一帯。

脇田(わきんた)
老町の貴船神社と、その裏山付近。

名合浦(なごーら)
本村本町の山手、百段の峠付近の住宅地。

東山(ひがしやま)
本村本町、卯月町と迫町に挟まれた丘陵地帯。第二中学予定地。

里(さと)
卯月峠を西山へ向かって下り切った辺りの左側一帯。彦島開拓発祥の地。

迫(さこ)
本村と西山に挟まれ、荒田方面に急速に伸びている。

西山(にしやま)
迫の西、彦島の最西端で、波高(はたか)、渡瀬(わたせ)、栄螺瀬(さざえのせ)などがある。

南風泊(はえどまり)
西山の一角で、国際漁港。現在はフクの水揚地で有名。

竹ノ子島(たけのこじま)
西山の最西端から橋によって陸続きとなっている。

絞(しぼり)
荒田と本村長崎町との中間で、昔はロータリーからここまで海だった。

武者田(びしゃで)
本村長崎町の一部で福浦を結ぶ谷あい一帯。

江向(えむか)
ロータリー付近から彦島中学辺りまで。

塩谷(しゅうや)
彦島中学付近から江の浦小学校へ至る一円。

福浦(ふくら)
硴崎(かけざき)安舎(あんじゃ)鋤崎(すきさき)中ノ浜などを包含する。

塩浜(しおはま)
福浦の対岸。大山(おおやま)沖塩田(おきのしおた)陸塩田(やかのしおた)竜宮島を含む。

角倉(すまくら)
福浦口から段地堤(だんじつづみ)へ至る角倉小学校一帯。

田ノ首(たのくび)
彦島の最南端。山床鼻(やまとこはな)神田(じんで)雁谷迫(かりやがさこ)などを含む。

弟子待(でしまつ)
田ノ首と江ノ浦に挟まれた海岸で、姫の水(ひめのみず)も含んでいる。

杉田(すぎた)
江ノ浦の一部で、弟子待、山中への分岐点一帯。鯉ノ巣(こいのす)も含む。

江ノ浦(えのうら)
杉田(すぎた)鎌崎(かまさき)堀越(ほりこし)塩谷(しゅうや)などを包含する。

六連島(むつれじま)
下関の西、彦島の北西五キロの海上に浮かぶ島。

船島(ふなしま)
古くは舟島と書き、今は巌流島の方が通りが良い。


以上が彦島の主な地名とその呼び方であるが、小字として残っているもので、比較的誤読され易いものを少しばかり拾って羅列してみよう。

牛ヶ鼻(うしがはな)棚田(たんだ 丹田とも書く)峠(たお)打石(うつし)伊無田(えびた)伊佐浦(いさうら いさんだ とも言う)沖ノ通(おけんた 桶無田とも書く)笠石(かさし)遠磯(とうそ)海賊泊(かいぞくどまり)生板(まないた)金弦(かねがつる)

これらの地名について、それぞれ考証を記述すべきかとも考えたが、スペースが許さないので、それは後日、稿を改めて『彦島地名考』とでも題して発表したいと思う。


彦島の地名を古記録や伝承などをもとにいろいろ調べてみると、いずれも二度、あるいは三、四度と呼び名が変っている。
それは、八百年前の開拓時代から、藩制に於ける埋め立てや造成を積み重ねる度に地名を変えたものと考えられ、そこにも血の通う歴史が感じられるのである。


冨田義弘著「彦島あれこれ」より抜粋
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Posted on 2019/07/25 Thu. 10:26 [edit]

category: ぶらたん彦島

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