05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

カッパと寿円禅寺 

カッパと寿円禅寺(じゅえんぜんじ)


 むかしむかし、ひどい日照りが続いて、田んぼも畑も枯れ果ててしまいました。
 こまったのは、人間だけではありません。
 竜が淵(りゅうがふち)に住んでいたカッパも、日照りで魚が死にたえてしまったので食べる物がありません。
 空腹にたえきれなくなったカッパは、悪いとは思いつつ、近くの自住禅寺(じしゅうせんじ)の放生池(ほうしょういけ)のコイを一匹、食べてしまいました。

 この頃、近くの鐘乳洞(しょうにゅうどう)に自住禅寺の寿円禅師(じゅえんぜんじ)が入って、苦しむ百姓(ひゃくしょう)たちを救うために雨乞い(あまごい)のお祈りをはじめていました。
 これを見たカッパは、
「わしが池のコイを食べたので、のろい殺そうというのじゃな」
と、勘違いして、あれこれとお祈りのじゃまを始めました。
 しかし禅師(ぜんじ)は気にもとめず、一心にお祈りを続けました。
「この坊さん、他人のためにここまでするとは」
 心をうたれたカッパはいつしか禅師の弟子となり、禅師のお手伝いをするようになりました。
 そしていよいよ満願(まんがん)の朝、禅師の祈りが天に通じたのか、どこからともなく黒雲が姿を現して、雷をともなう大雨となったのです。
「御仏(みほとけ)は、わたしの願いをお聞きくだされた!」
 禅師は、よろめく足で鍾乳洞から出て行きました。
 弟子となったカッパも、
「これで、わしの罪(つみ)もゆるされよう」
と、禅師に続いて出てみると、禅師が竜が淵の一枚岩(いちまいいわ)の上に立っていたのです。
 実は雨乞いの願いがかなえられた禅師は、そのお礼に自分の命を天にささげようとしたのです。
(あぶない!)
 カッパは駆け出しましたが、禅師はそのまま淵に身を投げてしまいました。
 カッパは禅師をお助けしようと淵に飛び込みましたが、さすがのカッパも大雨の濁流(だくりゅう)ではうまく泳げません。
 カッパは濁流にのみこまれながらも、禅師を助けようとがんばりました。
 岩肌に体をぶつけ、大切な頭の皿も割れてしまいましたが、カッパは最後の力をふりしぼって禅師の体を何とか川岸に引き上げました。
「禅師さま! 禅師さま、ご無事ですか!」
 しかしすでに、禅師は息絶えていました。
「そんな・・・」
 そしてカッパも力つきて、そのまま川下に流されてしまいました。

 やがてこの事を知った村人たちは、禅師の遺体(いたい)を荼毘(たび)にふすと共に、このけなげなカッパを『禅師河童(ぜんじかっぱ)』とたたえて、手厚(てあつ)くとむらったそうです。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
関連記事

Posted on 2019/06/27 Thu. 11:17 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

27

下関観光検定071 

【質問】

我が国で最初に船内郵便局が設置されたのは、関釜連絡船の中でした。
さて設置された関釜連絡船の名前はなんでしょうか。

【答え】

壱岐丸

【解説】

明治38年9月11日、日本初の定期連絡船として下関・釜山間に関釜連絡船が就航しました。
その関釜連絡船の壱岐丸船内に郵便物の引き受け、郵便切手類の販売、郵便物の区分・運搬等をおこなう、いわゆる船内郵便局が「関釜連絡船内第一郵便局」として初めて設置されました。
これが、日本で最初の船内郵便局です。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
関連記事

Posted on 2019/06/27 Thu. 10:35 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

27

源平壇ノ浦の戦い 

源平壇ノ浦の戦い


源氏の総大将は源義経、平家の総大将は平宗盛。
寿永4年、四国屋島の戦いで西へ西へと追われた平家一門は、八歳の安徳帝をともなって、平家の拠点があったここ彦島にたどり着き、体制を立て直そうとしました。
彦島は平知盛の所領地で、知盛は「彦島城」を築こうとしていたといわれています。
彦島のどこにそれがあったのかは諸説ありますが、中には杉田の清盛塚あたりにあったという説もあるようです。
最後の決戦、壇ノ浦の戦いは、寿永4年3月24日に始まります。
源氏は840余りの船を集め長府満珠島を拠点として海戦の準備を整えました。
平家は福良(現在の福浦湾)から、500余りの船で出航しました。
海戦が得意な平家、そして関門海峡の潮の流れ知り尽くした平家最強の武将知盛。
戦いの序盤は、西から東に流れる海流に乗った平家が、源氏を追い込みます。
あと一息で平家の勝利というときに、追い込まれた義経は「船の漕ぎ手と舵取りを弓で射よ」と命じたのです。
当時は、船の漕ぎ手や舵取りは戦闘員ではありませんでしたので、彼らを弓で射ることは禁じ手でした。
しかし奇襲戦法を得意とし手段を選ばぬ義経は、最大の戦法違反を犯して最後の勝負に出ます。
漕ぎ手や舵取りを失った平家の軍勢は、たちまち劣勢となり、覚悟を決めた二位尼は、安徳帝に「波の下にも都がございます」と言って、三種の神器とともに海に身を投じ、平家は最後を迎えます。


彦島商店会発行「もっと知りたい! 彦島」より
関連記事

Posted on 2019/06/27 Thu. 10:33 [edit]

category: 彦島あれこれ

TB: --    CM: 0

27