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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

楊貴妃の墓 

楊貴妃の墓 ~長門市油谷~


 長門市油谷久津(ゆやくず)の二尊院(にそんいん)という古い寺に、楊貴妃(ようきひ)の墓と伝えられるものがある。
 楊貴妃は、唐の国(今の中国)の玄宗皇帝(げんそうこうてい)の妃(きさき)で、皇帝がこのうえなく愛していた美しい妃であった。
 ところが、2500年ほど前、安禄山(あんろくざん)という武将が反乱を起したため、楊貴妃は皇帝といっしょに都からのがれた。そのとちゅう、妃は追ってにつかまって、殺されてしまった。まもなく反乱はおさまった。しかし、妃を失った皇帝の悲しみは大変なものだった。

 ある夜のこと、皇帝はふしぎな夢を見た。
 はるかな水平線のかなたにまっ赤な鳥が現われたと思うと、その鳥はまっしぐらに都をめざしてまっしぐらに飛んできた。そして、皇帝のそばにおりると、ふっと消えてしまった。
 見ると、そこに楊貴妃が立っていた。楊貴妃は、おどろきのあまり声も出ないでいる皇帝をいたわるように、しずかに話しはじめた。

「わたしは安禄山に殺されたと思われていますが、じつは、ともの者が、わたしに似た者を、身代わりにしたのでございます。安禄山から逃げきってから、わたしは夢中で逃げました。それから、のがれのがれて、丸木舟で海に出、日本に流れつきました。土地の人たちはやさしくしてくれましたが、体が弱っていたので、その土地で息をひきとったのです。」
 そう言うと、楊貴妃は消えた。

 皇帝は妃をあわれに思って、二体の仏像を使者にもたせて日本へ出発させた。
 日本へ着いた使者は、楊貴妃が死んだと思われる土地を歩いて、妃の墓をさがしまわった。くる日もくる日もさがし歩いたが、とうとう見つけることができなかった。
 使者は、二体の仏像を京都の清涼寺(せいりょうじ)にあずけ帰国した。

 それから何年かたった。あれほど探しまわってもわからなかった楊貴妃の墓が長門の国(山口県)久津(くず)の天請寺(てんしょうじ)にあることがわかった。
 朝廷では、皇帝の気持ちをくんで、二仏を天請寺へうつすことにした。しかし、これは清涼寺の強い反対にあうことになった。
 二仏をおがみにくる人でにぎわっているのに、その二仏がなくなったらさびれてしまうというのだ。
 そこで、朝廷では、その頃、仏像つくりの名人といわれた仏師に命じて、清涼寺の二仏とまったく同じ二仏をつくらせた。そして、清涼寺にある二仏のうち一体と仏師がつくった二仏のうち一体を天請寺にまつらせた。
 朝廷は、「どちらの寺も尊い仏像が二体づつあるのだから、これからはどちらの寺も二尊院と名乗るがよい。」と、命じられた。
 このときから天請寺は二尊院とよばれるようになったという。


 楊貴妃の墓と伝えられる墓は、今も二尊院の境内にある。
 五輪石を積み重ねたもので、侍女と思われる石塔に守られ、唐の国の方角に向かって、油谷湾を見下ろす小高いところにたっている。
 いつの頃からか、妃の墓にお参りすれば、美人の子が生まれると信じられるようになり、
 今も、日本の各地からこの墓を訪れ、重要文化財の二仏をおがんでいく人があとをたたない。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/05/21 Tue. 10:49 [edit]

category: 山口むかし話

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下関観光検定035 

【質問】

大化改新の後、全国に国・郡の制度が設けられ、下関地方は長門国として、その国府を豊浦に置いたとあります。
さてその場所は現在の町名の由来になっていますが、なんという地名でしょうか。

【答え】

長府

【解説】

大化の改新の後、従来の国造の制度が廃止され、国・郡が設けられました。
「日本書紀」には650年2月の条に穴戸国の国名が初めてみえ、665年8月の条に初めて長門国の国名がみえます。
長門国は厚狭・豊浦・美祢・大津・阿武の5郡からなり、その地方行政官庁である国衛が置かれ、国府と定められたのが豊浦津の地で、長門の国の国府ということから、長府という地名が生まれました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/05/21 Tue. 10:47 [edit]

category: 下関観光検定

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金比羅狐 

金比羅狐


 むかし、下関の港は、北前船西廻り航路の寄港地として栄えていました。
 それは、奥羽、北陸地方から米や、にしん、こんぶなど数多くの塩干魚などをなどを積んだ船が、日本海を西下し、瀬戸内海を東上して大阪に向かう際に、この港が最も重要な役割を果たしていたからです。そのころの下関は兵庫の港と共に西国一を競う程の繁昌ぶりだったと言われています。

 一般には、下関の港、と表現されていますが、その中には、彦島の南風泊りと福浦の両港も当然含まれていました。
 南風泊港は、文字通り南の風を避ける為の港で、福浦港は、今の江浦小学校から姫の水あたりまでが海という大きな入江となっていましたので、風待ちには天然の良港でした。


 福浦港の入口には、地元の人びとが、
『ふくらの金比羅さんの石段は、日本一の急坂じゃ。こねえに急な石段はどこにもありゃあせん』
 と自慢する金比羅神社があります。

 その石段の数は、むかしから二百七十七段、二百七十九段、二百八十一段と、登る人によって違っていました。それは、金比羅狐のいたずらによるものだと言われています。

 ある日、その話を聞いた肥前屋の客が、
『ワシが、石段の数を確かめてやろう』
 と出かけて行きました。船宿の人びとはそのあとに続き、石段の下で様子をみることにしました。
『ひとつ、ふたつ、みっつ……』
 肥前屋の客は、大声に数えながら登って行きました。うっそうとした森に囲まれて、金比羅さんの石段は三分の二から上は殆ど見えません。その見えないあたりに男が登って行って、かなり経ちました。

『おーい、やったぞーッ。二百七十九段が本当じゃ』
 森の中から男の喜び勇んだ声が降りて来ました。人びとは、顔を見合わせて笑いました。しばらくすると、ずっと上の方に男の姿が見えはじめ。何やらつぶやき乍ら下って来ました。
『二百三十六、二百三十七、二百三十八』
 男は下り坂でも、また石段の数を数えていたのです。

『二百七十九、二百八十、二百八十一、あれっ、さっきより二段多いぞ。おかしいな』
 参道の石鳥居まで下って来て、男は眼をまるくしました。
『八合目で狐に会うたじゃろうが』
 見物の中から一人の男が訊ねました。
『うんにゃ、会わん』
『狐の声を聞いたろうが』
『いんにゃ、聞かん。鳥は鳴いたがのう』
『なんちゅうて鳴いたい』
『ぎゃおーっ、小さかったけど、そんな声じゃった』
 人びとはまた顔を合わせて笑いました。

『クソッ、もう一回登って来る』
 男は、再び、一つ、二つと数えながら石段を登って行きましたが、何度数えても上りは二百七十九段、下りは二百八十一段でした。その日だけで、この急坂を十往復もした男は、船宿に戻って、とうとう寝込んでしまいました。

 また、ある日のこと、薩摩屋に泊まっていた客が、金比羅さんの石段を数えながら十往復しましたが、この時は上りが二百八十一段で、下りは二百七十七段しかありませんでした。
 その後も、船木屋の客、淡路屋の客などが噂を聞いてこの石段を上り下りしましたが、誰も同じ数を言い当てた人は居ません。

 福浦の人びとは、いつも笑って見守るだけでした。

 それは、誰もが一度は経験していることで、金比羅狐が居る限り、この石段の数は皆目わからない、と諦めているからでした。
 たった一人で登って行っても、あるいは、多数の人びとであっても、八合目にある脇道まで来ると、必ず何かが起こって数を間違えてしまうのです。
 それは、さっと眼の前を走る狐の影であったり、ゴソッと藪に物音がしたり、ギャォーと雌狐が鳴いたりして、気を散らしてしまうのでした。

 だから、船宿の客が石段の数を確認するという噂が流れると、福浦の人びとはみんな集まって冷ややかに笑い乍ら見守るだけでした。
 そして口々に、こう言ったと伝えられています。

『よそ者の狐ごかしが始まった』


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/05/21 Tue. 10:31 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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