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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

楊貴妃の墓 

楊貴妃の墓


美女の死はさまざまな伝説を生む。
県内にも、各地に小野小町などの墓が残る。
これら美女伝説の中でもひときわ雄大なスケールを誇るのが、大津郡油谷町に伝わる楊貴妃伝説。
同町久津の二尊院には、十数基の小塔に囲まれた彼女の墓がひっそりと立つ。


温泉の水滑らかににして凝脂を洗ふ、と白楽天に歌われた楊貴妃。
その美しさは唐朝六代の玄宗皇帝を迷わせ、その子、寿王の妻だった彼女を自分のものとせずにはおかなかった。
二人の狂おしいまでの愛の日々。
名君と呼ばれた玄宗は政務をかえりみることなく、ついには安禄山の乱を招く。
そして、都長安を捨てて敗走する途中も、玄宗は彼女をそばから離そうとしなかった。
その姿に兵たちは命令を拒み、その殺害を迫り、楊貴妃は自殺する。

実は、彼女は死ななかった。
その死を見届けることを命じられた高力士はひそかに彼女を空ろ船(アシの船)に乗せて逃がす。
黄河を下った船は対馬海流に乗り油谷湾へ。
海岸に着いたとき楊貴妃はすでに息絶えだえで、ようやく「自分は唐の楊貴妃」と言い残して死んだ。
それを手厚く葬ったのが二尊院の墓という。

この話には後日談がある。
乱が鎮圧されたあと、都に戻った玄宗の夢まくらに楊貴妃が立った。
「私は日本で死んだ。しかし、今もって菩提を弔ってくれる人がいません」
彼女を忘れきれなかった玄宗は、大切にしていた印度の名仏師が刻んだ釈迦と阿弥陀の二体の仏像と十三重の石塔を供養のため日本に送る。
しかし、仏像と塔は油谷町へ届かず、京にある同名の二尊院に。
油谷町の二尊院側は引渡しを要求したが京の二尊院は拒否し、朝廷に訴えるまでの騒ぎになったという。
採決は「油谷側の訴えももっともたが、貴重な仏像を都から出すのも困る。半分ずつにしろ」というもの。
当時、日本一といわれた仏師、天照春日に偽物二体をつくらせ、京と油谷町で本物と偽物を一つずつ分け合ったという。
現在、京の二体は国宝、油谷町の二体は重要文化財に指定され、萩に移された石造り十三重塔も県文化財になっている。

しかし、楊貴妃の墓、仏像、十三重塔はすべて鎌倉後期のもの。
楊貴妃の生きた奈良時代とは大きく食い違う。
名もない墓をめぐる話は他にいくつもある。
二尊院の住職、田立智満さんは「あれは安徳天皇の墓」という。
「油谷町に平家が落ち延びたのは宗清などの地名から確か。
二尊院の紋は皇室と同じ十六弁の菊だし、墓が土地の風習に反し東を向いているのも都を望む心」

いずれにしろ、ひっそりと海をながめて立つ墓には、故郷を離れたものの持つ寂しさがただよっていた。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より
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Posted on 2019/05/16 Thu. 11:04 [edit]

category: 山口むかし話

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下関観光検定030 

【質問】

下関市の市の木はなんでしょうか。

【答え】

クスノキ

【解説】

下関市の市の木はクスノキ。
クスノキは市内に広く分布し、環境に強く寿命が長い木です。
豊浦町にある「川棚クスの森」は、日本三大クスノキの一つにも数えられており、国の天然記念物です。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/05/16 Thu. 10:43 [edit]

category: 下関観光検定

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彦島七浦七曲り 

彦島七浦七曲り


平清盛が、天下を治めていたころのこと、平氏の祈願所をつくるために、全国に測量班を差し向け“七里七浦七曲り”の場所を探させました。
もちろん浦があるところといえば海岸線ですが、なかなか一つの土地に七浦もあるところは見つかりません。
あっても五浦とか、たまに七浦をみつけて大喜びしてみると、七里にたらなかったりして、いつもがっかりするのでした。

七という数字は大変縁起のいい数字で、その七が三つ続けばなおさら幸運をもたらすものと、平清盛は信じていましたから、全国の“七里七浦七曲り”の候補地五十箇所をしらみつぶしに調べ、残っているのは長門の国の彦島と安芸の国の宮島の二箇所だけになってしまいました。

はじめに彦島の測量からはじめました。
七浦七曲りあることは、簡単にわかりましたが、測量となるとたいへんな努力と労力がいります。
長い紐を使って測っていくのですが、四里、五里とすすむうちに次第に希望がわいてきました。
五里半、六里、六里からは、一間、二間、三間と数えていきましたが、あとわずかの距離で、どうしても七里にたりませんでした。

こうして彦島の祈願所つくりは夢物語におわり、残りの安芸の宮島が“安芸の宮島回れば七里、浦は七浦七曲り”といわれるように、ここに祈願所がつくられたのでした。


(注)
明治になって彦島を測量してみますと、六里十五町五十一間(約25.3キロメートル)でした。
七里は約27.5キロメートルですから、わずか2.2キロメートル足りなかったことになります。
ところで彦島の七浦というのは、宮ノ浦、江ノ浦、伊佐木ノ浦、鯉ノ浦、桃ノ浦、福浦、名古浦ですが、埋め立てなどですでにわからなくなったところもあります。
いま字名で残っているのは、福浦、江ノ浦、伊佐浦、名古浦の四ヶ所です。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/05/16 Thu. 10:41 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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