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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

ホラふき和尚 

ホラふき和尚


 むかしむかし、あるお寺に、村人たちから『ホラふき和尚』と呼ばれているお坊さんがいました。
 この和尚さん、あんまりホラばかりふいているので、村人たちは和尚さんの言う事を全く信用していません。

 ある日の事、和尚さんは村人たちをおどろかせてやろうと思い、お寺の門前にある大きな池のほとりに、こっそりとこんな立て札をたてました。
《明日のお昼、この池から竜が天に登るであろう。池の主の竜より》
 さあ、この立て札を見た村人たちはびっくりです。
 むかしからこの池には竜が住んでいると言われているので、みんなはこの立て札を信じました。
 ですから次の日の朝には、池のまわりは黒山の人だかりです。
 それを見て、和尚さんはうれしそうに笑いました。
「あっはははは。村の者たちめ、わしのいたずらに、まんまとひっかかったわい。さて、お昼になったら出ていって、わしの仕業だと話してやろう。みんなのあきれた顔が、見ものじゃわい」
 やがて、お昼が近づいてきました。
「よし、そろそろ行くとするか」
 和尚さんが出かけようとすると、空がにわかに曇って暗くなってきました。
 そして目の前の池から、なんと本物の竜が姿を現して、銀色のうろこを光らせながら黒い雲の中へ消えていったのです。
 村人たちは驚きましたが、もっと驚いたのはいたずらをした和尚さんです。
「なっ、なんと! まさか本当に竜がいるとは・・・」
 しばらく呆然としていた和尚さんですが、すぐに村人たちの前に駆け出すと大声で言いました。
「おーい、よく聞け! あの立て札はな、実はわしが立てたんじゃ。わしが立てたおかげで、竜が現れたんじゃ!」
 けれども、村人たちは、
「ほれ、またいつもの和尚のホラが始まった。竜が現れたのを、自分の手柄にしよるぞ」
「ほんに、しようのない和尚じゃ」
と、誰も信じなかったという事です。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
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Posted on 2019/05/14 Tue. 10:34 [edit]

category: 山口むかし話

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下関観光検定028 

【質問】

豊北町には難読駅名として知られるJRの「こっとい駅」があります。
その「こっとい」とはどのような字を書くのでしょうか。

【答え】

特牛

【解説】

特牛駅は、JR山陰線の無人駅です。
駅名は地名「コトイ」に由来しますが、その地名の由来は、牝牛の意味を示す方言の「コトイ」から取ったという説や、日本海に面した小さな入り江を示す「琴江」から取ったという説などがあります。
付近の特牛港からは、平成12年角島大橋開通までは角島までの連絡線が出ていました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/05/14 Tue. 10:32 [edit]

category: 下関観光検定

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楠ノ木の精 

楠ノ木の精


 むかし、彦島八幡宮は西山の舞子島にあった。その御神体は、海中から引き揚げた明鏡であったが、河野通次は立派な八幡尊像を彫って奉納したいと考えた。

 そのころ、里の森の東のはずれに、天にも届くかと思われるような大きな楠ノ木が聳え立っていた。
 通次は、家臣の小川甚六・柴崎甚平を呼び寄せ、その楠ノ木で八幡尊像を刻むよう命じた。永暦元年(1160年)三月のことであった。

 小川・柴崎の両人は、小者を集め、さっそく楠ノ木ほ伐り倒し、幹の芯を取って、小さな八幡尊像を彫塑した。たっぷり三ヶ月かかったという。

 しかし、伐り倒された楠ノ木は、千古の大木であったせいか、その後、不思議なことが続いた。
 月の無い夜には、楠ノ木の伐り株から赤い炎が燃え上がったり、嵐の夜には、そこから女のすすり泣く声が聞こえたりもした。そして、ついには、八幡尊像を刻んだ小川・柴崎両人をはじめ、伐採を手伝った小者たちまでが相次いで原因不明の病気にかかる始末。
 そこで、通次は、秋の八幡祭の後、楠ノ木の伐り株に堂宇を建て佛像を安置し、その付近の地名を『楠』と名付けた。
 里を中心に、各地に名前を付け、舞子島のあたりを『西山』、楠ノ木一帯を『東山』と命名したのはこの時のことだ。その後、西山は広範囲に広がり、現在でもその名は町名として残っているが、東山は本村の陰にかくれて殆ど知られなくなってしまった。

 それはさておいて、伐り株に佛像を安置して楠ノ木の精を慰めても、小川・柴崎両人や小者たちの病は、さっぱり良くならない。
 通次は考えあぐねた末、その原因は、伐られた楠ノ木の残り木の山が、そこに放置されたままになっていることにある、と気づいた。

 そこで翌二年(1161年)の春、堂宇の前に祠をつくり、弘法大師作と伝えられる石の地蔵尊を安置して供養祭を催した。そして、おびただしい楠ノ木の残り木を一カ所に集めて、何かある時には必ずこの木を使うことを誓った。
 すると不思議に、人びとの病いもすっかり良くなり、赤い炎も、女のすすり泣きも、いつの間にか聞かれなくなった。

 通次は大いに喜び、東山の小さな丘に『堂宇の山』という名を付け、日夜、地蔵尊への参詣をつづけ、楠ノ木の供養を怠らなかった。


 その後、何年かたって、平家の残党が落ちのびて来た。
 まず、植田・百合野・岡野の三名が、それぞれ平家の守り本尊一体ずつを覆奉して来島した。そして、迫の一角に観音堂を建てて、三尊を安置したが、その材料は東山の楠ノ木を使った。
 今、迫の山辺に『カナンドウ』という地名と屋号が残っているが、それは観音堂がなまったものだという。


 それからまた何年か経って、和田・冨田・登根という人びとが落ちのびて来た。この人たちは、先の植田らと話し合い、平家再興を祈って、堂宇の山のてっぺんに驚くほど大きな矛を建てた。その矛もまた、楠ノ木の残り木から造ったといわれている。

 ところで、この堂宇山というのは、現在では山頂付近が削られて玄洋中学校が建って居るが、一般には『ドオノ山』と呼ばれてきた。そして、本村寄り、つまり東側の八合目付近から下へかけては鉾江山と呼ばれているが、これは『矛柄(ほこえ)』が転じたものであろうか。
 また、鉾江山の真ん前にある西楽寺山は、古くから鉾崎山と呼ばれ、その麓の林兼造船第二工場のあたりは鉾崎の浜で、これも『矛先』がなまって『ほうさき』となったのかもしれない。


 それからまた何十年か経って、西楽法師が観音堂の三尊像を本村に移して西楽庵を建てた。この時にも、楠ノ木の残り木を使ったという。

 それからまた四十年ばかり後、舞子島にあった八幡宮を、今の宮ノ原に移して、新しく彦島八幡宮を造営することになったが、この時も同じ残り木を使ったと伝えられている。正和二年(1313年)のことであった。


 東山の森に太古の昔から聳え立っていた大楠ノ木は、八幡尊像を刻む為に伐り倒され、約百五十年もの間に、堂宇、観音堂、矛、西楽寺などの建立に少しずつその身を削ってゆき、再び八幡宮に戻って役立ったのであった。

 だから、楠ノ木は『彦島の守り木だ』と昔から伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/05/14 Tue. 10:19 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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