04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

寝太郎物語 

寝太郎物語
山口県の民話


 むかしから、佐渡ヶ島(さどがしま)は金(きん)が取れる事で有名でしたが、それだけに金の監視は厳しく、佐渡ヶ島からはたとえひと握りの砂さえ持ち出す事は出来ませんでした。

 ある庄屋(しょうや)の息子に、寝太郎(ねたろう)と呼ばれる男がいました。
 この寝太郎は名前と同じ様に、毎日毎日寝てばかりいます。
 ところがある時、この寝太郎が突然起き上がって、父親の庄屋にこう言いました。
「お父さん、千石船(せんごくぶね)を二そう作って下さい」
 父親は寝太郎をとても可愛いがっていたので、
「よしよし、さっそく船大工を呼び寄せよう」
と、千石船を作ってやりました。
 すると寝太郎は次に、
「わらじを、千石船いっぱいに用意して下さい」
と、言いました。
 父親は、それも言う通りに用意してやりました。
 すると寝太郎は次に、
「千石船にわらじを積み込んで、船乗りを七、八人やとって下さい」
と、言いました。
 父親がこれも願い通りにしてやると、寝太郎は喜んで船に乗り込み、行く先も告げずに出発してしまいました。
 こうして船がたどり着いた場所が、佐渡ヶ島だったのです。

 佐渡ヶ島の港に船を着けた寝太郎は、さっそく島の人々を呼び集めて言いました。
「はき古しのわらじを、新しい物と取り替えましょう。
 もちろん、お代はいりません。
 ただで、取り替えます。
 そして、はき古しのわらじは、古ければ古いほどにありがたい」
 島のみんなは、ただでわらじを取り替えてくれるとあって、喜んで古いわらじを持って来ました。
 そしてはき古したわらじが、船いっぱいになると、
「さあ、用事はすんだ。家へ帰ろう」
と、島を後にしました。

 さて、はき古しのわらじを船いっぱいに積み込んで帰って来た寝太郎は、今度は大きな桶(おけ)を父親にねだりました。
 父親はさっそく、桶職人をやとって桶を作らせました。
 桶が出来上がると、寝太郎は桶に水を張って、船乗りたちにその中でわらじを洗わせました。
 この仕事は何日も何日も続けられて、やっと全部のわらじを洗い終わると、今度は桶の水を上の方からそっと汲み出させました。
 そうして水がだんだん減って来ると、桶の底に何か金色に光る物がありました。
 船乗りが手にすくってみると、それは金の砂、すなわち砂金だったのです。
「金じゃ。金じゃ。金の砂じゃ」
 喜ぶ船乗りたちの声を聞いて、寝太郎はにっこりと笑いました。
 実は寝太郎、ひと握りの砂も持ち出す事を禁じられていた佐渡の土を、どうやって持ち出そうかと寝ながら考えていたのです。

 それから寝太郎はこの金の砂でもうけたお金で千町田という広い水田を作り、それを村人たちに分け与えました。
 村人たちはとても感謝して、寝太郎を寝太郎大明神(ねたろうだいみょうじん)としてまつる様になったそうです。

おしまい
関連記事

Posted on 2019/05/13 Mon. 11:17 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

13

下関観光検定027 

【質問】

豊浦町小串夢ケ丘が自生南限地帯として、国指定天然記念物になっている植物は何でしょう。


【答え】

エヒメアヤメ

【解説】

エヒメアヤメはあやめ科多年生草木で、タレコエ草とも呼ばれています。
日本列島がアジア大陸と陸続きであったことを証明する植物学上の重要な資料です。
西日本、四国、九州の6ヶ所がエヒメアヤメ自生南限地帯として、天然記念物に指定されています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
関連記事

Posted on 2019/05/13 Mon. 11:08 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

13

十二苗祖 

十二苗祖(じゅうにびょうそ)


 むかし、彦島は『引島』と呼ばれていた。

 今から約八百三十年前、つまり保元二年(1157年)一月のこと。
 四国伊予の勝山城主、河野通次は戦にやぶれ、九州へ落ちのびようとして、この海峡を渡りかけた。その時、真紅の太陽が引島の背に落ちかかっていて、その美しさに打たれた通次は、
『今宵は、あの島で夜露をしのごう』と、上陸した。
 翌朝、通次は家臣の主だった者五名を連れて、島内を調べたところ、この島は本州と九州を隔てる海峡の喉元にあたり、勝山城再興をはかるに最適な場所であることがわかった。
 そこで、里(迫町の一角)に屋敷を建て、園田一学、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の重臣五名と仮寓することに決めた。

 通次ら主従は、里を拠点に島を開拓し、なれない農業や漁業に励みながら、勝山城再興の日を待っていた。
 西山の舞子島に『光格殿』というお宮を建て、引島で一番大きなくすの木を伐って八幡尊像を刻み奉納したり、海峡を見おろす丘の上に立って、兵を挙げる日の一日も早かれと祈願したものだ。

 二十数年という月日が、またたくまに過ぎた。

 そのころ、都で発した源氏と平家の戦いは、西へ西へと伸び、寿永三年(1184年)秋には、平知盛が引島に城を築いて、源氏を迎え撃つことになった。
 今まで、静かであった引島も、つぎつぎに集結する平家の軍勢によって、修羅場のように騒々しくなり始めたが、翌年三月二十四日、壇ノ浦の合戦で、ことごとく滅び、知盛による引島城は『平家最期の砦』になってしまった。

 ようやく、もとの平和な島に戻った翌年、つまり、文治二年(1186年)一月、平家の残党、植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三名が、平家の守護仏である阿弥陀如来坐像と、観世音菩薩、薬師如来立像を、それぞれ捧持して来島した。
 三人の落人は、里に河野通次を訪ね、平家再興の意図を打ち明け、それまでの間、この島にかくまって貰うことにした。
 そして、平家の守り本尊である三像を仮の草庵に安置したが、その場所は今でもカナンドウ(観音堂)と呼ばれている。

 その後、健保二年(1214年)四月には和田伝済、つづいて翌三年には、同じく平家の残党、冨田刑部之輔と登根金吾が、植田治部之進を尋ねて来島した。
 これら和田を除く五名の人びとは、いずれも平家の執権で、彼らは河野家主従に自分たちの身分を明かし、一門再興に力を貸してほしい、と頼み込んだ。勝山城再興を願う河野一族は、この不思議な因縁に驚いたが、同じ境遇である十二氏が力を合わせれば果たせないことはないと、手を取り合って協力を誓った。

 しかし、そのころは、既に河野家第一の参謀である園田一学は病死し、あとを追うように通次もこの世を去っていたので、河野家再興は、なかばあきらめの状態であった。

 一遍上人の高弟、西楽法師が引島に来られたのは健治二年(1276年)三月であった。法師は、観音堂の阿弥陀如来坐像の威光にうたれ、一遍上人の許しを得て引島に永住しようと決心した。それは、観音堂を今の本村に移し『西楽庵』を建てて三像に仕えるためであった。

 そのうち法師は、平家一門と勝山城の、二つの再興話を耳にしたので、その悲願をあきらめさせ、引島開拓に心を打ち込むよう、説いてまわった。
 初めのうちこそ、かたくなに法師の話に耳をかそうとしなかった十二家の人びとも、やがて挙兵のむなしさに気付き、永年の望みを捨て去ることにした。

 そこで人びとは、平家の守り本尊に仕え、農業、漁業、工業にいそしみ、引島に永住することを誓い合った。弘安元年(1278年)秋のことであったという。


 引島開拓と十二氏共栄に力を合わせ始めたこれらのいきさつは、古くから『十二苗祖の誓い』と呼ばれ今もなお語りつがれている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/05/13 Mon. 10:54 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

13