彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
ふげんさま
ふげんさま ~光市~
光市の室積に普賢寺(ふげんじ)というお寺がある。
その本堂の中に、白い象の背中に座った普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像が本尊としてまつってある。この本尊を人びとは「ふげんさま」とよんでいる。
この「ふげんさま」には、次のようなふしぎな話が伝えられている。
今からおよそ970年のむかし、播磨の国(はりまのくに:兵庫県)の書写山(しょしゃざん)にある円教寺(えんきょうじ)に、性空上人(しょうくうじょうにん)というえらいお坊さんがいた。小さいときから、たいそう情けぶかく、また、たいへん知恵もすぐれていた。
十歳のころには、もう法華経(ほっけきょう)というむずかしい仏教の本を8冊も読みつくしてしまうほどだったので、ひとびとは文殊さま(もんじゅさま:知恵の仏)の生まれかわりだといって、心からうやまっていた。
性空上人は、法華経の中に説かれている「ふげんぼさつ」をひごろからふかく信じ、そのお姿をあれこれと想像しては、なんとかしてほんとうのお姿をみたいものだと、毎日思いつめていた。
ある夜、上人はふしぎな夢をみた。まくらもとに仏さまがおたちになって、
「おまえの日ごろの願いをかねてあげよう。摂津(せっつ)の国の江口(えぐち:大阪市東淀川区)というところへ行くがよい。そこでおまえののぞみをとげることができるであろう。」
とつげたかと思うと、すっと消えた。
夢からさめた上人は、両手をあわせて仏さまにお礼を言い、夜があけるとすぐ、旅のしたくもそこそこに江口の里をめざして円教寺を出発した。
その頃、江口の里は港町としてさかえ、年じゅう出入りの船でにぎわっていた。京の都にも近く、大阪の商人がたくさん集まるところだけあって、町のいたるところに店や宿屋、料理屋などがたちならび、にぎやかな三味線の音や歌声が流れていた。
上人は、いったん播磨の室の津(むろのつ)に出て、そこから船で江口にわたった。さっそく町じゅうを歩きまわって、ふげんぼさつのことについて何かしっていないかとたずねまわった。けれども、だれもみな首をかしげるだけで、何のてがかりもつかめなかった。
何日かたったある日のこと。
つかれきって港のはずれを歩いていた上人の耳に、ふと、沖の方からきれいな歌声が聞こえてきた。見ると、すぐ沖合いに一そうの屋形船(やかたぶね)がうかんでいて、着かざった一人の遊女(ゆうじょ)がつづみを打ち鳴らしながら歌っているのが見えた。じっと耳をすませると、
「・・・・・・・・・・周防(すおう)なる室積(むろづみ)の中の御手洗(みたらい)に、風はふかねどささら波立つ・・・・・・・・。」
という声が聞こえてきた。
はて、周防の国といえば本州の西のはしだ。室積というところに御手洗という海があって、風がふかないのに波が立ちさわいでいるというのか。ふしぎな歌を聞いたものだ。
・・・・・・・・・・と目をとじ、考えていると、まぶたのうらで、遊女のすがたがいつのまにか白い象にまたがった仏さまの姿に変わってきた。
はっとして目をあけると、もとのままの遊女が屋形船で歌っている。目をとじると、また仏さまの姿があらわれる。
「あっ、ふげんぼさつさま。」
上人は思わずさけんで、両手をあわせておがみながら急いで屋形船に近づこうとした。とたんに屋形船も遊女の姿も消えて、上人の手の中には、いつのまにか白い象の毛がにぎられていた。
それから十数日、何十里もの長い道のりを、雨風にうたれ、足をひきずるようにして、やっとのことで上人は周防の室積にたどりついた。
室積はけしきの美しい港であった。峨嵋山(がびざん)の先の方に、象の鼻をつき出したような細長いみさきがつづき、そのみさきにだかれるようにして美しい御手洗湾が横たわっていた。白浜にそってつづく松のなみきや、峨嵋山の木々の緑がかげを落としていた。
上人は、つかれもわすれて、この美しいけしきをながめていた。
そして、この土地こそぼさつのすまわれるのにふさわしいところだと感じた。
上人は、会う人ごとに、近ごろ何か変わったできごとはなかったかと聞いてまわった。すると、ある一人の年とった漁師が、
「変わったことちゅうたら、このあいだこの御手洗湾に網を入れたところ、何やら仏像らしいものがかかりましてのう。気味が悪うて、またもとの海へ投げこみましたわい。」
と、話してくれた。
そこで、上人は、ふきんの漁師たちにたのんで、海に網を入れてもらったところ、話のとおり一体の仏像があがってきた。
見ると、それは白象の背中に乗った仏さまの木像で、上人が江口の里で見たあの「ふげんぼさつ」の像にまちがいなかった。
長年ののぞみが今ここにかなえられたのである。
上人はかんげきのなみだをぽろぽろこぼしながら、ぼさつの像をしっかりとささげ持った。
ふげんぼさつが見つかった記念に、上人がさかさに一本の松を植えたところ、しだいに枝葉が広がって、大きな松に成長した。
のちに、この松は「対面の松(たいめんのまつ)」とよばれるようになった。
上人は、このふげんぼさつの像を村のうしろにそびえる大多和羅山(おおたわらやま:大嶺山)にお堂をたてておさめ、その後、村人たちの守りの本尊とした。
こうして、しばらく室積にとどまった上人は、やがてまた、播磨の書写山に帰っていった。
何年かののち玄有(げんゆう)というおしょうさんが、大多和羅山では人びとがおまいりするのに不便だと考え、峨嵋山のふもとの御手洗湾のほとりにお寺をたてて、ふげんぼさつの像をうつした。そのお寺が今の普賢寺本堂、つまり「ふげんさま」である。
性空上人は、書写山の円教寺で97歳で亡くなった。
村人たちは、上人の徳をしのんで、命日の5月14日を中心に三日間、ふげん祭りを毎年おこなうようになった。
「ふげんぼさつ」は、海からみつかったので、海難守護仏(かいなんしゅごぶつ:海の安全を守る仏)として人々にあがめられるようになり、ふげん祭りには、県内はもとより京都や大阪からもやってくる人も多い。
題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部
豊徳園ホームページより
光市の室積に普賢寺(ふげんじ)というお寺がある。
その本堂の中に、白い象の背中に座った普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像が本尊としてまつってある。この本尊を人びとは「ふげんさま」とよんでいる。
この「ふげんさま」には、次のようなふしぎな話が伝えられている。
今からおよそ970年のむかし、播磨の国(はりまのくに:兵庫県)の書写山(しょしゃざん)にある円教寺(えんきょうじ)に、性空上人(しょうくうじょうにん)というえらいお坊さんがいた。小さいときから、たいそう情けぶかく、また、たいへん知恵もすぐれていた。
十歳のころには、もう法華経(ほっけきょう)というむずかしい仏教の本を8冊も読みつくしてしまうほどだったので、ひとびとは文殊さま(もんじゅさま:知恵の仏)の生まれかわりだといって、心からうやまっていた。
性空上人は、法華経の中に説かれている「ふげんぼさつ」をひごろからふかく信じ、そのお姿をあれこれと想像しては、なんとかしてほんとうのお姿をみたいものだと、毎日思いつめていた。
ある夜、上人はふしぎな夢をみた。まくらもとに仏さまがおたちになって、
「おまえの日ごろの願いをかねてあげよう。摂津(せっつ)の国の江口(えぐち:大阪市東淀川区)というところへ行くがよい。そこでおまえののぞみをとげることができるであろう。」
とつげたかと思うと、すっと消えた。
夢からさめた上人は、両手をあわせて仏さまにお礼を言い、夜があけるとすぐ、旅のしたくもそこそこに江口の里をめざして円教寺を出発した。
その頃、江口の里は港町としてさかえ、年じゅう出入りの船でにぎわっていた。京の都にも近く、大阪の商人がたくさん集まるところだけあって、町のいたるところに店や宿屋、料理屋などがたちならび、にぎやかな三味線の音や歌声が流れていた。
上人は、いったん播磨の室の津(むろのつ)に出て、そこから船で江口にわたった。さっそく町じゅうを歩きまわって、ふげんぼさつのことについて何かしっていないかとたずねまわった。けれども、だれもみな首をかしげるだけで、何のてがかりもつかめなかった。
何日かたったある日のこと。
つかれきって港のはずれを歩いていた上人の耳に、ふと、沖の方からきれいな歌声が聞こえてきた。見ると、すぐ沖合いに一そうの屋形船(やかたぶね)がうかんでいて、着かざった一人の遊女(ゆうじょ)がつづみを打ち鳴らしながら歌っているのが見えた。じっと耳をすませると、
「・・・・・・・・・・周防(すおう)なる室積(むろづみ)の中の御手洗(みたらい)に、風はふかねどささら波立つ・・・・・・・・。」
という声が聞こえてきた。
はて、周防の国といえば本州の西のはしだ。室積というところに御手洗という海があって、風がふかないのに波が立ちさわいでいるというのか。ふしぎな歌を聞いたものだ。
・・・・・・・・・・と目をとじ、考えていると、まぶたのうらで、遊女のすがたがいつのまにか白い象にまたがった仏さまの姿に変わってきた。
はっとして目をあけると、もとのままの遊女が屋形船で歌っている。目をとじると、また仏さまの姿があらわれる。
「あっ、ふげんぼさつさま。」
上人は思わずさけんで、両手をあわせておがみながら急いで屋形船に近づこうとした。とたんに屋形船も遊女の姿も消えて、上人の手の中には、いつのまにか白い象の毛がにぎられていた。
それから十数日、何十里もの長い道のりを、雨風にうたれ、足をひきずるようにして、やっとのことで上人は周防の室積にたどりついた。
室積はけしきの美しい港であった。峨嵋山(がびざん)の先の方に、象の鼻をつき出したような細長いみさきがつづき、そのみさきにだかれるようにして美しい御手洗湾が横たわっていた。白浜にそってつづく松のなみきや、峨嵋山の木々の緑がかげを落としていた。
上人は、つかれもわすれて、この美しいけしきをながめていた。
そして、この土地こそぼさつのすまわれるのにふさわしいところだと感じた。
上人は、会う人ごとに、近ごろ何か変わったできごとはなかったかと聞いてまわった。すると、ある一人の年とった漁師が、
「変わったことちゅうたら、このあいだこの御手洗湾に網を入れたところ、何やら仏像らしいものがかかりましてのう。気味が悪うて、またもとの海へ投げこみましたわい。」
と、話してくれた。
そこで、上人は、ふきんの漁師たちにたのんで、海に網を入れてもらったところ、話のとおり一体の仏像があがってきた。
見ると、それは白象の背中に乗った仏さまの木像で、上人が江口の里で見たあの「ふげんぼさつ」の像にまちがいなかった。
長年ののぞみが今ここにかなえられたのである。
上人はかんげきのなみだをぽろぽろこぼしながら、ぼさつの像をしっかりとささげ持った。
ふげんぼさつが見つかった記念に、上人がさかさに一本の松を植えたところ、しだいに枝葉が広がって、大きな松に成長した。
のちに、この松は「対面の松(たいめんのまつ)」とよばれるようになった。
上人は、このふげんぼさつの像を村のうしろにそびえる大多和羅山(おおたわらやま:大嶺山)にお堂をたてておさめ、その後、村人たちの守りの本尊とした。
こうして、しばらく室積にとどまった上人は、やがてまた、播磨の書写山に帰っていった。
何年かののち玄有(げんゆう)というおしょうさんが、大多和羅山では人びとがおまいりするのに不便だと考え、峨嵋山のふもとの御手洗湾のほとりにお寺をたてて、ふげんぼさつの像をうつした。そのお寺が今の普賢寺本堂、つまり「ふげんさま」である。
性空上人は、書写山の円教寺で97歳で亡くなった。
村人たちは、上人の徳をしのんで、命日の5月14日を中心に三日間、ふげん祭りを毎年おこなうようになった。
「ふげんぼさつ」は、海からみつかったので、海難守護仏(かいなんしゅごぶつ:海の安全を守る仏)として人々にあがめられるようになり、ふげん祭りには、県内はもとより京都や大阪からもやってくる人も多い。
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Posted on 2019/05/11 Sat. 10:06 [edit]
category: 山口むかし話
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11
下関観光検定025
【問題】
環境省選定の「残したい日本の音風景百選」に選ばれている関門海峡の音は「関門海峡の潮騒と○○」です。
さて、この○○はなんでしょうか。
【答え】
汽笛
【解説】
関門海峡は本州の西端の下関市と九州東北端の北九州市門司区に挟まれた海峡で、瀬戸内海と日本海を結ぶ、海上交通の要衝。
昔から早鞆の瀬戸といわれた関門橋のあたりは、幅約600メートル、瀬戸内海と日本海の干満の差によって潮流は激変し、特に潮流の激しいところでは時速20キロにもなります。
その海峡を一日大小600隻あまりの船が行き交い、激しい潮流の音の中で聞こえる汽笛との交錯は、まさに海峡の音色そのものといえます。
環境省選定の「残したい日本の音風景百選」に「関門海峡の潮騒と汽笛」として選ばれています。
関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
環境省選定の「残したい日本の音風景百選」に選ばれている関門海峡の音は「関門海峡の潮騒と○○」です。
さて、この○○はなんでしょうか。
【答え】
汽笛
【解説】
関門海峡は本州の西端の下関市と九州東北端の北九州市門司区に挟まれた海峡で、瀬戸内海と日本海を結ぶ、海上交通の要衝。
昔から早鞆の瀬戸といわれた関門橋のあたりは、幅約600メートル、瀬戸内海と日本海の干満の差によって潮流は激変し、特に潮流の激しいところでは時速20キロにもなります。
その海峡を一日大小600隻あまりの船が行き交い、激しい潮流の音の中で聞こえる汽笛との交錯は、まさに海峡の音色そのものといえます。
環境省選定の「残したい日本の音風景百選」に「関門海峡の潮騒と汽笛」として選ばれています。
関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/05/11 Sat. 09:50 [edit]
category: 下関観光検定
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