04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

たにしの姉妹 

たにしの姉妹


むかし、むかし、あるところに、二人の若い兄弟が助け合って仲良く暮らしておりました。

ある秋の日のこと、田んぼで稲刈りをしていると、弟が二つの小さな、たにしを見つけました。
何ともいえない、かわいいたにしなので、持ってかえって流しのすみで飼うことにしました。

「たにしや、たにし。外に出ると、鳥たちの餌にねらわれるぞ。ここにじっとしているのじゃぞ」
兄弟は口ぐちにそういって、田んぼへ働きに行きました。

その日の夕方、弟が夕飯の支度に帰ってみますと、驚いたことに、夕飯の用意がちゃんとできあがっておりました。
誰が用意してくれたのかと、不思議に思った弟は、あくる日の夕方、前の日よりも早く帰ってきて、そーっと家の中の様子をうかがいました。
ご飯やみそ汁のおいしそうなにおいがしましたが、やはり誰の姿も見えません。

弟は兄にこのことをすっかり話すと、そのまたあくる日の夕方、兄弟そろって家のそばの柿の木にのぼり、様子をじっとうかがいました。

しばらくすると
「お姉さん、夕食の支度をはじめましょうか」
という声がして、おいしいみそ汁のにおいと、きれいな娘の歌声が流れてきました。
「いったい、誰じゃろう」
兄弟は急いで木からおり、そーっと家の中にはいってみますと、二人の美しい娘が、流しもとでせっせと働いておりました。

「あんたたちは、いったいどこの誰なのだい」
兄弟の声に、はっと振り返った二人の娘は、どうしようかと互いに顔を見合わせていました。
やがて、娘たちは、
「わたしたちは、あなたたちに助けていただいた、たにしの姉妹です」と、こたえました。

驚いた兄弟がいろいろたずねますと、この姉妹は、山ひとつ越えた里の裕福な家の娘たちでした。
しかし、ぜいたくに育てられたのでわがままになり、夕飯の手伝いもしない有様でした。
あまりいうことを聞かないので、つい、母親が
「いうことを聞かないと、たにしになりますよ」と、いったところ
「たにしになってもええわいな」と、姉妹は口ごたえしました。
すると、みるみるうちに、たにしの姿になりかわってしまい、姉妹は、この村の田んぼにやってきて、鳥たちにいつ食べられてしまうかとおびえていたところを、兄弟たちに助けられたということでした。

どうしたわけか夕方だけは人間に戻れるので、姉妹は恩返しに、夕飯を作っていたということです。

これを聞いた兄弟はあわれに思い、村の恵比須さまに、姉妹をもとの姿に返していただけるよう願いました。

すると、ちょうど満願の日に
「お前たち兄弟の仲の良さ、けなげな働きに免じて、姉妹をもとの人間の姿にかえしてやろう」
と、恵比須さまの夢のお告げがあり、たにしの姉妹はもとの美しい姿にもどりました。

それから姉妹は、まじめに働くようになり、やがて、それぞれ兄弟のお嫁さんとなって、末長く幸せに暮らしたということです。

(熊毛・都濃・佐波郡)


山口銀行編纂 山口むかし話より転載
関連記事

Posted on 2019/05/31 Fri. 11:37 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

31

下関観光検定045 

【質問】

宝永7年7月11碑、豊田町浮石の農民たちが凶作に対する年貢の減租を訴え、幕府の巡見使に直訴しました。
このとき、直訴した場所はどこでしょうか。

【答え】

内日亀ヶ原

【解説】

この頃は、凶作と豊作が交互に起こっていました。
当時の浮石村は長府藩家老の給領地で、度重なる凶作にもかかわらず納米(年貢)の増量を押し付けられていました。
そこでついに農民たちが怒り、代表で庄屋、畦頭たち五名が7月1日、下杢路子の豊田渡瀬で巡見使一行を待ち受けていましたがうまくいかず、翌11日内日村の亀ヶ原で直訴を決行しました。
結果的には、ご法度破りということで、彼らは長府松小田の刑場で処刑さけました。
しかし、この直訴によって年貢の増量は免除されるなど事件は「義挙」として後世に語り継がれ「浮石義民顕彰会」が組織され、浮石の亀尾山神社境内に「義民碑」、内日亀ヶ原には「浮石義民直訴の地」の石碑が建てられています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
関連記事

Posted on 2019/05/31 Fri. 11:25 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

31

果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの) 

果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの)
山口県の民話


 むかしむかし、長門の国(ながとのくに→山口県)の北浦のある里に、とても貧しい夫婦が住んでいました。
 二人はわずかな田んぼをたがやし、山から拾ってきた薪(たきぎ)を売って、ようやくその日の暮らしをたてていました。

 ある日の事、だんなが女房にこんな事を言いました。
「毎日毎日、汗水流して働いているのに、わしらの暮らしは少しも良くならんな。わしは、もう働くのにあきてしもうた」
 すると女房が、こう言いました。
「確かに、そうですね。
 そう言えばこの間、大寧寺(だいねいじ)の和尚さんが説教で『果報は寝て待て』と言っていましたよ。
 あわてずに寝て待っていれば、良い事は向こうからやって来るんだそうです。
 あなたもひとつ、果報を寝て待ってはどうですか?」
「なるほど、寝て待てばいいのか。そいつは楽だ」
 そこでだんなは、その次の日から寝てばかりいました。
 しかし果報は、いつまでたってもやって来ません。

 そんなある満月の夜、寝ながら果報を待っていただんなが大声で叫びました。
「おい、こっちへ来てみろ。ほれほれ、この天井窓から、お月さんのウサギが餅をついとるのがよく見えるぞ」
「あら、ほんとうね」
 確かに、天井窓からお月さんのウサギがはっきりと見えました。

 さて、この話がたちまち村中に広がり、月夜の晩には大勢の村人たちが夫婦の家へ集まって来て、天井窓から月をのぞくようになりました。
 それがやがて、
「あの家の天井窓からウサギの餅つきを拝んだ者には、果報が来るそうだ」
と、言ううわさなって、だんだん遠くからも人が集まって来るようになりました。
 そしてお月さんを見に来た人々がお礼のお金やお供物を置いて行くので、夫婦はたちまち大金持ちになったのです。
 ついに、果報がやってきたのです。

 喜んだ二人は、ぼろ家をこわして立派な家を建てると、もっとお金がもうかるようにと、十も二十も天井窓を取付けました。
 しかしどうしたわけか、新しい天井窓からはいくらお月さんをのぞいても、ちっともウサギの餅つきが見えないのです。
 やがて夫婦の家には、誰も来なくなりました。
 それどころか雨が降ると天井窓から雨もりがして、雨水で家が腐り始めたのです。
 困った二人は、大寧寺の和尚さんのところへ相談に行きました。
 すると和尚さんは、大声で笑いながら、
「あはははははは。人間は欲を起こすと、果報者も阿呆者になるという事じゃ」
と、言ったそうです。

おしまい
関連記事

Posted on 2019/05/30 Thu. 11:43 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

30

下関観光検定044 

【質問】

毛利長府藩の藩校の名前はなんでしょうか。

【答え】

敬業館

【解説】

長府藩の藩校は「敬業館」
長府侍町二丁目の発祥の地には碑が建てられています。
この地は一時「集童場」もおかれていた場所です。
敬業館は寛政4年5月に創設、藩士の子弟を教育。
集童場は元治元年に古江小路に設立され、士庶の別なく人材を育成する目的の教育機関。
敬業館が移転したあとに集童場が一時移転しておかれました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
関連記事

Posted on 2019/05/30 Thu. 11:13 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

30

大内人形 

大内人形 ~山口市~


 今から六百三十年ほど昔のこと。

 そのころ、周防・長門(山口県)、石見(島根県)の三ヶ国は、二十四代めの大内弘世(おおうちひろよ)がおさめていた。天皇の信頼もあつく、陽禄門院三条氏(ようろくいんさんじょうし)という公家の、たいそう美しい姫を妻にいただいていたほどである。

 ところでこの姫は、みやこから遠くはなれた山口の地へ来たので、いつもみやこをなつかしみ、さびしげであった。
 弘世がいくらやさしくしても、姫の気持ちを引きたてることはできなかった。弘世は、なんとかしてこの姫をなぐさめようと思い、はるばるみやこからたくさんのむすめをまねいた。
 そして、むすめたちを姫のそばへつかえさせ、話しあいてをさせた。
 また、みやこや人びとのすがた形ににせた人形をたくさん取りよせては姫のへやにかざって、姫の気持ちを引きたてようとした。
 人形はどんどんふえていって、人形を集めてかざった姫のへやのあるやしきは、やがて人形御殿といわれるようになった。
 そのやしきは、大内御殿といわれた弘世のすばらしいやしきの中でも、とくに美しいことで有名になった。

 それから何年かたった。

 みやこでは、足利将軍のいきおいがおとろえて、多くの武将がたがいに相手の国をほろぼそうと争うようになった。
 この争いは、やがて応仁の乱(おうにんのらん)とよばれる、
 十一年にもおよぶ長いいくさに発展した。

 日本をふたつにわけたこのいくさで、京のみやこも、焼け野原になった。このため、みやこの身分の高い人びとや有名な画家や歌人などは、みやこをのがれ、大内氏の山口にうつり住んだという。
 そして、その人びとも、姫と同じようにみやこをなつかしむ気持ちから、大内の人形御殿の人形にいろいろくふうをくわえた人形を作っては、自分をなぐさめたという。

 のちに、この人形は、大内人形とよぶようになり、みやこ風の上品さのなかに山口の土地がらのよさが生かされ、かわいらしいことで有名になった。

 今でも、山口県の名産として、大内塗りとともに人びとに愛されている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
関連記事

Posted on 2019/05/29 Wed. 10:10 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

29