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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

つる豆腐 

つる豆腐(周南市)


昔々、八代の里に年老いた父親と親孝行な息子が住んでおりました。
家が貧乏で、息子が毎日山から薪を作っては町へ売りに行き、やっと暮らしをたてえいました。

あるひ、息子が町から帰ってくる時、峠で一人の猟師が山田で餌を食べている一羽の鶴を鉄砲でねらっているのを見つけました。
息子は急いで小石を拾うと、鶴の方に向かって投げました。
鶴が驚いて飛び立つと同時にズドンと鉄砲がなりました。危ないところを鶴は助かりました。
息子に気づいた猟師は、息子のじゃまを知ってひどい剣幕で怒りました。
息子は仕方なく、せっかく町で得た薪(まき)のお金を差し出してやっと許してもらいました。
家に帰って父親に話すと父親は「それはよいことをした。と息子をほめました。

夕方、表の戸をトントンとたたく音がしました。開けてみると、若い美しい女が立っていて、「雪に閉じこめられて困っております。どうか一晩泊めて下さいませ。」と頼むのです。
「こんな見苦しいところでもよければどうぞ。」と招き入れ、いろりに薪を入れあたらせまた。
翌朝親子が目を覚ますと昨夜から水に浸しておいた豆で女が豆腐をたくさん作っていましたのでビックリしました。
「私は旅の者ですが、しばらくここに置いて下さいませ。」と言って、それからは毎日豆腐作りに精をだしました。
できた豆腐を町で売ると評判がよく、どんどん売れていきました。
一年もたつうちに親子の家は大変豊になりました。父親は女に「どうか息子の嫁になって下さい。」と。
「ありがたい話ですが、実は私は峠で助けていただいた鶴でございます。
ご恩返しに今日まで働かせていただきましたが、お二人のくらしも豊かになったようですので、私はこれでお別れさせていただきます」そういうと女はあっと驚く二人をあとにして鶴となって天高く舞い上がり、どこへともなく姿を消してしまいました。

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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:09 [edit]

category: 山口むかし話

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下関観光検定003 

【問題】

豊臣秀吉が文禄の役の際に肥前名護屋から大阪に帰る途中、船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落とすところでした。
供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しましたが、この船の船頭は責任を感じ自決したといわれます。
乗り上げた暗礁には、この船頭の名をとって名づけられました。
なんという名の暗礁でしょうか。

【答え】

与次兵衛瀬

【解説】

豊臣秀吉が文禄の役に際して肥前名護屋に出陣した折、生母大政所の病篤しの急報が届き、早速帰ることになりました。
秀吉を乗せた船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落としすところでしたが、供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しました。
この船の船頭は明石与次兵衛といいましたが、事故の責任を感じ自決したといわれています。
乗り上げた暗礁はこの船頭の名をとって、与次兵衛瀬と名づけられました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:03 [edit]

category: 下関観光検定

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地蔵踊り 

地蔵踊り


 むかし、西楽法師は、十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねになった。

『伊予の国、勝山城再興をはかり、今は、ひたすら隠忍自重…』
 河野家の主人がこう言うと、その家来の、園田、片山、二見、柴崎、小川諸家の人びとも
『主家の為には、私たちも骨身を惜しまずこうして忍んで居ります』
 と力強く答えた。

『私たちは、平家再起のために…』
 キッと眼を見開いてこう言ったのは、植田家と岡野家であった。
『ちよろずの波に沈みたもおた幼帝のおいたわしさと、一門の無念を思えば…』
 百合野、冨田両家の人びとは、そう言ってハラハラと涙を流した。
『小松殿の守護佛を拝する度に、一日も早く、平家の世を取り返さねばと…』
 登根、和田家の人びとも、ヒザを進めて言った。

 それぞれの立場から、それぞれの胸のうちを聞かされ、法師の眼にも光るものがあった。ややあって、法師は、ゆっくりと、つぶやくように言われた。
『諸氏の胸のうちは、よう判る。しかし、河野家滅びて既に百二十年。先帝入水からももう九十年を経ている。諸氏も、この島に住み付かれた頃は僅か十二名であったものが、今では分家もかなり増え、島の東西南北を支配するまでになられた。四国勝山の城も興したいであろう。平氏一門のくやしさも、思うに忍びがたいものがある。しかし…』
 法師は、十二苗祖の人びとの意図が、今の世では、既に無駄なことであり、たとえ兵を起こしたとしても、それに呼応して来る一門は、ほんの一握りでしかないことを、時間をかけてゆっくりと説かれた。

 だから、そんな考えはこの際、一切捨て去り、明日からは、子孫繁栄と島の開拓を目指して、十二氏が力を会わせて欲しい、と法師は何度も言われた。

 昼が来て、夜になり、法師を囲む十二氏の人びとは、それでも議論をつづけた。やがて朝が来て、昼から夜へと、その日も激しい論戦であったが、結局、人びとは、法師の意見に従ってみようと誓い合うことにした。

『法師、あなたの御意見に添うことに致しましょう。今日からは、鉾を納め、刀を鍬に持ちかえて、島の為、十二家の為に私たちは力を会わせて働きましょう』
 居並ぶ人びとの言葉に、法師もゆっくりうなずいて、
『平家の守り本尊に、諸氏の身柄を預けて下さいますか。これからは再興のことなど考えず、子孫と島の隆盛を誓い、十二氏が手を取り合って生きてゆくということを…』
 と涙ながらに話された。
『すべて、おまかせいたしましょう』
 十二氏の人びとは、口を揃えて、そう答えた。
『ああ、良かった。本当に良かった。これで私も、もう安心です。それでは、明日から島の開拓に精を出して下さい』
 法師の笑顔にも、十二氏の人びとにも、一すじ、二すじ、涙が光っていた。


 この日のことを『十二苗祖の誓い』と言うが、その後、毎年九月に行われる地蔵祭りの踊りに、この日の会話が取り入れられることになった。
 地蔵踊りは永い年月の間に広がって、下関やその近郊の盆踊りとなり、最近では『平家踊り』と呼ばれて、全国でも有名な踊りの一つに数えられるまでになっている。

 その踊りのハヤシで『ヤトエー ソラエーノ ヤトエノエー』というのは、法師が『良かった、本当に良かった』と喜ばれた時の言葉で、『マカショイ マカショイ』とか『アーリャ アリャマカショーイ』というのは、十二家の人びとが『すべて、おまかせいたしましょう』と言ったことから来ている。
 また。『ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤッサ』というハヤシ言葉は、誓いの翌日から島の開拓に励みはじめた様子を現したものだと伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/21 Sun. 10:40 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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