彦島のけしき
山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…
つる豆腐
つる豆腐(周南市)
昔々、八代の里に年老いた父親と親孝行な息子が住んでおりました。
家が貧乏で、息子が毎日山から薪を作っては町へ売りに行き、やっと暮らしをたてえいました。
あるひ、息子が町から帰ってくる時、峠で一人の猟師が山田で餌を食べている一羽の鶴を鉄砲でねらっているのを見つけました。
息子は急いで小石を拾うと、鶴の方に向かって投げました。
鶴が驚いて飛び立つと同時にズドンと鉄砲がなりました。危ないところを鶴は助かりました。
息子に気づいた猟師は、息子のじゃまを知ってひどい剣幕で怒りました。
息子は仕方なく、せっかく町で得た薪(まき)のお金を差し出してやっと許してもらいました。
家に帰って父親に話すと父親は「それはよいことをした。と息子をほめました。
夕方、表の戸をトントンとたたく音がしました。開けてみると、若い美しい女が立っていて、「雪に閉じこめられて困っております。どうか一晩泊めて下さいませ。」と頼むのです。
「こんな見苦しいところでもよければどうぞ。」と招き入れ、いろりに薪を入れあたらせまた。
翌朝親子が目を覚ますと昨夜から水に浸しておいた豆で女が豆腐をたくさん作っていましたのでビックリしました。
「私は旅の者ですが、しばらくここに置いて下さいませ。」と言って、それからは毎日豆腐作りに精をだしました。
できた豆腐を町で売ると評判がよく、どんどん売れていきました。
一年もたつうちに親子の家は大変豊になりました。父親は女に「どうか息子の嫁になって下さい。」と。
「ありがたい話ですが、実は私は峠で助けていただいた鶴でございます。
ご恩返しに今日まで働かせていただきましたが、お二人のくらしも豊かになったようですので、私はこれでお別れさせていただきます」そういうと女はあっと驚く二人をあとにして鶴となって天高く舞い上がり、どこへともなく姿を消してしまいました。
昔々、八代の里に年老いた父親と親孝行な息子が住んでおりました。
家が貧乏で、息子が毎日山から薪を作っては町へ売りに行き、やっと暮らしをたてえいました。
あるひ、息子が町から帰ってくる時、峠で一人の猟師が山田で餌を食べている一羽の鶴を鉄砲でねらっているのを見つけました。
息子は急いで小石を拾うと、鶴の方に向かって投げました。
鶴が驚いて飛び立つと同時にズドンと鉄砲がなりました。危ないところを鶴は助かりました。
息子に気づいた猟師は、息子のじゃまを知ってひどい剣幕で怒りました。
息子は仕方なく、せっかく町で得た薪(まき)のお金を差し出してやっと許してもらいました。
家に帰って父親に話すと父親は「それはよいことをした。と息子をほめました。
夕方、表の戸をトントンとたたく音がしました。開けてみると、若い美しい女が立っていて、「雪に閉じこめられて困っております。どうか一晩泊めて下さいませ。」と頼むのです。
「こんな見苦しいところでもよければどうぞ。」と招き入れ、いろりに薪を入れあたらせまた。
翌朝親子が目を覚ますと昨夜から水に浸しておいた豆で女が豆腐をたくさん作っていましたのでビックリしました。
「私は旅の者ですが、しばらくここに置いて下さいませ。」と言って、それからは毎日豆腐作りに精をだしました。
できた豆腐を町で売ると評判がよく、どんどん売れていきました。
一年もたつうちに親子の家は大変豊になりました。父親は女に「どうか息子の嫁になって下さい。」と。
「ありがたい話ですが、実は私は峠で助けていただいた鶴でございます。
ご恩返しに今日まで働かせていただきましたが、お二人のくらしも豊かになったようですので、私はこれでお別れさせていただきます」そういうと女はあっと驚く二人をあとにして鶴となって天高く舞い上がり、どこへともなく姿を消してしまいました。
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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:09 [edit]
category: 山口むかし話
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下関観光検定003
【問題】
豊臣秀吉が文禄の役の際に肥前名護屋から大阪に帰る途中、船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落とすところでした。
供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しましたが、この船の船頭は責任を感じ自決したといわれます。
乗り上げた暗礁には、この船頭の名をとって名づけられました。
なんという名の暗礁でしょうか。
【答え】
与次兵衛瀬
【解説】
豊臣秀吉が文禄の役に際して肥前名護屋に出陣した折、生母大政所の病篤しの急報が届き、早速帰ることになりました。
秀吉を乗せた船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落としすところでしたが、供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しました。
この船の船頭は明石与次兵衛といいましたが、事故の責任を感じ自決したといわれています。
乗り上げた暗礁はこの船頭の名をとって、与次兵衛瀬と名づけられました。
関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
豊臣秀吉が文禄の役の際に肥前名護屋から大阪に帰る途中、船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落とすところでした。
供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しましたが、この船の船頭は責任を感じ自決したといわれます。
乗り上げた暗礁には、この船頭の名をとって名づけられました。
なんという名の暗礁でしょうか。
【答え】
与次兵衛瀬
【解説】
豊臣秀吉が文禄の役に際して肥前名護屋に出陣した折、生母大政所の病篤しの急報が届き、早速帰ることになりました。
秀吉を乗せた船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落としすところでしたが、供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しました。
この船の船頭は明石与次兵衛といいましたが、事故の責任を感じ自決したといわれています。
乗り上げた暗礁はこの船頭の名をとって、与次兵衛瀬と名づけられました。
関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:03 [edit]
category: 下関観光検定
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