03 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

葛粉薬 

葛粉薬


むかし、むかし、あるところに、たいへん仲の悪い姑(しゅうとめ)と嫁がおりました。

あんまり姑がいびるので、嫁はお寺の和尚(おしょう)さんのところへ行き
「和尚さま、姑さんはひどうて、わたしゃぁ、一緒にいるのがつらくてなりません。
できるもんなら、人に知られんように亡きものにしてもらうことはできないでしょうか」
と、おそるおそる言いました。

すると和尚さんは
「そいじゃぁ、ぼつぼつ弱ったあげくに、すぅっと死ねるような薬をあげようかの。七日間、ごはんに薬をまぜてたべさせるのじゃ。
その間は姑がどんなに無理を言うても、はいはい、ちゅうて言うとおりにするんじゃぞえ」
と、言って薬を嫁に渡しました。

嫁は寺から帰ると、三度のごはんのなかに薬をまぜて姑に食べさせました。そして何を言われても、はいはい、で通しました。

そのうち七日が過ぎましたが、なかなか姑は弱りそうにもありません。
それどころか、おかしいほどに優しくなってきました。
そこで嫁は「死ぬまえにゃ仏のようになるちゅう話じゃが、それになるのに違いない」と思って、また和尚さんにそのことを話しました。

そして「薬をもうすこしつかぁさりませ」と言ったら、和尚さんは
「そいじゃぁ、もう七日分あげようかの。そのかわりまた、姑を大切にするんじゃぞえ」
嫁はまた、和尚さんから言われたとおりにしました。

すると姑は
「おまえにこれをあげよう。このごろはわしにようしてくれるから、うれしゅうての」
と町で買ってきたよい着物を一反(いったん)、嫁に渡しました。

あわてた嫁はお寺に飛んでいき
「和尚さん、おおごとでござります。はよう姑さんを助けてくださりませぇ。
姑さんを亡きものにしようなんてとてつもないことを思うちょりました」
と大声で叫びました。

すると和尚さんが
「まぁまぁ。わかってよかった。
おまえが姑のいうことを聞かんけぇ、姑がぐちるのじゃ。おまえが、はいはい、といやぁ姑もかわいがってくれなさる。
人にしてもらうよりはさきに人にしてあげなくてはいけん」
と言って聞かせると
「和尚さま、ようわかりました。これからは姑さんと仲ようしますけえ死なんようになる薬をはようつかぁさりませえ」と嫁はおんおん泣き出しました。

和尚さんはそのようすを見て
「泣かいでもええ。あの薬は葛粉じゃけん滋養(じよう)になりこそすれ、死にやぁせん。今からは仲よう暮らしんさいや」
と言った、ということです。

(阿武郡)


山口銀行編纂 山口むかし話より転載
関連記事

Posted on 2019/04/20 Sat. 11:45 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

20

下関観光検定002 

【問題】

名前の知られた巌流島ですが、正式名称は実は違う名前です。
その名前はなんでしょうか。

【答え】

船島

【解説】

巌流島は、元々は船島と呼ばれていましたが、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で敗れた佐々木小次郎の号が巌流であったことから、巌流島と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代から読み物でも取り上げられ、昭和に入って吉川英治の「宮本武蔵」や村上元三の「佐々木小次郎」などの小説で全国に知られるようになりました。
昔は16.500平方メートル程度であったそうですが、明治43年と大正15年に埋め立てが行われ、現在は103.000平方メートルの広さになっています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
関連記事

Posted on 2019/04/20 Sat. 11:32 [edit]

category: 下関観光検定

TB: --    CM: 0

20

羽根石 

羽根石


 現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。

 弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。

 むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
 そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
 船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。

 それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
 そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/04/20 Sat. 11:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

20