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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

お亀銀杏 

お亀銀杏


いまの亀山八幡宮の土地はむかし、干潮のときには陸続きの島でした。
この島と陸地とを埋め立てて良い船場をつくるため、いまからおよそ四百六十年前に埋め立て工事をはじめることになりました。

しかし、この工事がはじまってからは、どうしたことか、はげしい急流と毎日続く時化のために、一岩埋めれば一岩流されるというありさまで少しも仕事が進ます、おまけにけが人はでるしまつに、仕事をなげだすものもでてきました。

役人たちは、いまさらこの埋め立て工事をやめるわけにもいかない。そのうち、工事がすすまないのは、神様のおいかりにふれたためだという噂が町の人びとの間にひろまりました。役人たちもこのままほうっておくわけにもいきません。
そこで人身御供として人柱をたてれば、かならずこの難工事もやりぬくことができるだろうと考え付き、さっそく街のかどかどに人柱募集の高札を立てました。

ところがなかなか自分から人柱になりましょうと申し出るものがありません。役人もほとほと困りきっていたある夜のことです。
頭巾をかぶった女性が思いつめたように番所の戸をあけ、役人にむかい、
「私でよければ人柱になりましよう」
と恥ずかしそうに名乗り出ました。

それは「おかめ」という名の女性でした。
おかめはもともと稲荷町の遊女で、生まれつきのみにくい顔立ち、そのうえ天然痘にかかって顔中がアバタ。そのため、お客からは嫌われ、主人からはいつも叱られてばかりいました。おまけに借金もかさみ、つくづく生きることにのぞみを失っていたときに、人柱募集の高札をみて、私でも街の人たちのお役にたつならばと決心しての申し出でした。

話を聞いて役人は大変感激し、
「そうか、とうとい心がけじゃ」
と、しっかりおかめの手をにぎるのでした。

やがて人柱をたてる当日がやってきました。それは月明かりの夜でした。
おかめは、急流がしばらくゆるやかになったころ白い着物をまとい、手を合わして、一歩一歩どす黒い海へ消えていきました。
その仏様を思わせる気高い後姿に並み居る人々は、いつまでも念仏をとなえていました。

おかめが海底に沈んだあくる日からは、ふしぎなことに時化もピタリとおさまり、人々は、おかめの尊い犠牲を無にするなと、急ピッチで工事を進めました。

こうして埋め立て工事は見る見るうちに完成したのです。
このことがあってから、のちの人はおかめの功績を称え、のちの世まで忘れることのないよう亀山八幡宮の境内に木を植えて、これをお亀銀杏と名づけました。

やがて銀杏の木から実がとれるようになりましたが、どうしたことか、この銀杏の実にはおかめの顔のように黒い斑点があって、いかにもアバタのようでした。
人々は、これはきっとおかめの霊が銀杏にのりうつったのだろうと噂をしました。

それいらい、明治にかけて下関に天然痘が流行した時は、必ずお宮に参り、病気のがれにその銀杏の実を持ち帰ったということです。


(注)
亀山八幡宮の五穀祭で柄杓をたたいて町を練り歩くなかに「八丁浜えらいやっちゃ」という囃し言葉があります。この八丁浜は、このとき埋め立てた浜の広さをいい「えらいやっちゃ」は、えらいやつの意味で、埋め立ての完成を祝い称えた言葉でしょう。
お亀銀杏は、亀山八幡宮の境内の西側にありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼けました。しかし、その焼け爛れた木から新芽を出し、いまでは高さ二十メートルぐらいになっています。
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Posted on 2019/04/16 Tue. 09:18 [edit]

category: 下関の民話

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鬼面ばなし 

鬼面ばなし


 明治の中頃まで、彦島の十二苗祖を名乗る家なら、どこもかしこも、鬼の面を鴨居に下げて居ったものじゃ。
 玄関、勝手口、納屋、長屋、それに土合い(母屋と長屋との間の通路)の入口に、小さい鬼面を下げ、他に人間の顔くらいの大きなやつを佛間に隠して居った。じゃから、少ない家でも必ず五つは持って居り、多い所じゃ、十も十五もあったらしい。

 どおして、そねぇに鬼面があったかと言うと、昔から彦島は何回も何回も海賊に襲われたもんじゃけぇ、もう、ええ加減に来て欲しゅうない、という祈りを込めたものじゃったと伝えられて居る。

 この近くじゃあ海賊のことを、大昔は、鬼と言うて居ったらしい。その証拠に、竹ノ子島やら西山には、今でも鬼にまつわる伝説や地名がようけ残されて居るじゃろう。

 まず、仲哀天皇の頃、朝鮮半島から海賊が押し寄せて来たというのが、今から千七百年以上も前の話。

 それから元久二年(1205年)、文暦元年(1234年)、貞和六年(1350年)とつづいて、応安五年(1372年)には、九州の菊池党に敗れた足利氏の一統が海賊になり、彦島を根城にして荒らし回った。
 その後、天文十七年(1548年)にも海賊に襲われ、島の人びとは下関の伊崎などに避難しはじめたそうじゃ。

 しかし、一番ひどかったのは寛永十五年(1638年)のことで、この時は、天草の乱で敗れた小西の残党どもが海賊に身をやつして、彦島をその本拠地にしてしもうた。そして、この近海を片っぱしらから荒らし回ったもんじゃけぇ、その悪らつぶりに耐えかねた島の者は、ほとんど下関の方へ逃げて行った。
 伊崎、細江、それに垢田、川中、勝谷、内日などに、それぞれ避難して三十年も四十年も隠れ住んだが、その後、次つぎに帰島しはじめても、とうとうそこを動かず、住み着いてしもうた者もかなり居ったという。

 そんな訳で、むかしから彦島の者は、海賊に対しては身の縮まるような恐怖感を抱いて生きて来た。爺から親へ、親から子、子から孫へと、何代も何代も、その不安と恐ろしさは受け継がれて来たんじゃ。
 そいで、彦島の者が、鬼の面を作って、末永い平和を祈ったという気持ちも、よう解るじゃろう。

 ところが、いつのまにか、子供のいたずらや、やんちゃを戒める風習に使われはじめてのぅ。
 例えば、子供が親の言い付けを守らん時やら、なかなか泣き止まん時にゃあ、親は佛間から大きい鬼面を出してかぶり、
『言うことをきかんけぇ、鬼が来たぞ!』
 と、おどかしたりするようになった。ほいやけえ(それだから)しまいには、無理に鬼面を出さんでも『鬼が来るぞ』『鬼ヶ島にやるぞ』と言うただけで子供は泣き止んだものじゃ。それほど鬼に対する印象は強烈で、根強いものがあった。


 ところで、彦島にゃあ、昔から『彦島謡』と呼ばれる独特な謡曲があった。結婚式、上棟式、年祝いなどの、いわゆる祝いごとの時にゃあ必ず謡われて、女やら子供までもが聞き覚えで二つや三つの謡曲は、大抵うたえたものじゃ。
 その彦島謡の謡い納めが十二月三十一日の晩にやる『年もらいの謡』で、この時にも、鬼面が使われることになって居った。

 どの部落にも『謡い所』というものがあって、そこにみんな集まり、夕方から『年送りの謡』をうたい、それが終わったら『年もらいの謡』に変わる。
 年もらいの謡は、除夜の鐘が鳴りはじめるまで次々に謡い次いでゆくのじゃが、その時の聞き手はすべて鬼の面をかぶり、女や子供は謡い所の背戸に出なけりゃあならんかった。
 それは、新しい年もまた、海賊騒ぎの無い平和な年であって欲しいという願いから始まったそうじゃが、今じゃあ、彦島謡も鬼面もみんなすたれてしもうて、ほんに寂しゅうなったのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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