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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

陶ヶ岳の観音様 

陶ヶ岳の観音様 ~山口市~


 山口市南部の陶、鋳銭司、名田島のさかいに、陶ヶ岳という山がある。
 この山には、切り立った岩場があって、今では山口県山岳会の岩登りの練習地として有名である。
 その大岩の東北がわに大きなほらあながあって、そこの観音様のお堂がある。

 むかしむかし、ある村人が、この山からふしぎな光が出ているのを見つけ、村中が大さわぎになった。
 そこで、こわいもの知らずの若者がその光の出場所をさがしに山に登った。
 あるほらあなに入ってみると、そこに一体の観音様があり、その両眼が金でできていて、それから光が出ていた。
 村人たちは、そこのお堂を建て、観音様をだいじにおまつりした。

 ある晩、ぬす人がほらあなに入り、観音様の片ほうの目をえぐり取ってにげようとした。
 すると、観音様が残った片目をしずかにあけて、
「そんなに貧乏してこまっているのなら、両眼をやるから取っていけ。」
 と言われた。
 さすがのぬす人も、おどろきあわてて、にげてしまったということである。

 このなさけ深い観音様の話がつたわると、「陶ヶ岳の観音様」といって、村人たちはいっそうだいじにしたという。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/04/02 Tue. 10:43 [edit]

category: 山口むかし話

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竜王が喜んだ 

竜王が喜んだ


江戸時代のはじめのころのお話です。

そのころは、徳川家が全国を支配しており、その下に毛利藩とか水戸藩とかがあって地方を治めていました。
そして各藩の力の大きさは、お米のとれる量、つまり石高であらわしていました。そのため各藩では、お米の増産を奨励したり、新しい田を造ったりする事業に一生懸命でした。

毛利藩でも、横見弥一左衛門という家臣に命じて、宇津井一体の干拓工事をすすめることになりました。
それは寛文五年の秋からはじめられました。
近くの土地からたくさんの人がかりあつめられました。土手を築く人、杭を打つ人、モッコで土を運ぶ人、俵に土を入れて潮止めにする人など、工事は計画通りすすみ、こうして最初の年の冬をこし、そして次の冬もこして、二年たった秋のある日、工事の進み具合を見回りにきた横見弥一左衛門は、
「よし、もうあとひといきで干拓工事は完成するぞ、みろ、あの広々とした新しい土地を、何という素晴らしいことだ、やがてあそこに、黄金色の稲穂が波打つのじゃ」
と、感動にうちふるえながら、ついてきた家来に話しかけました。

そしてそれから数日して、この地方に激しい風と大雨をともなった嵐がおそいました。
それは、今までにない大嵐で、横見弥一左衛門は、心配で心配でたまらず、何度も供の者をつれて、干拓地を見回りに行きました。
嵐は三日三晩続きました。そして、三日目の晩、見張りのものが息せききって、横見家の家に駆け込みました。弥一左衛門もちょうどその時見回りにいくしたくをしていたときでした。
「た、たいへんだぁ、横見の殿様、とうとう堤防が崩れました」
「なに」
と、いったまま、弥一左衛門は、蓑かさもつけずに外に飛び出しました。
やがて、嵐がおさまり、夜もあけました。海鳴りが嵐で浮き上がった小魚をあさっているのでしょう…。のどかな鳥のさえずりが聞こえてきます。
しかし、弥一左衛門は、小高い丘に座り、どす黒くよごれた干拓地と無残な傷口を見せている堤防に、うつろな目を向けたまま、まるで魂の抜けた人形のように、ぼんやりとうち沈んでいるだけでした。

工事はまたやりなおしです。
しかし一度決壊した堤防は、いくら補修しても、ちょっと雨が降り続いたり、海が荒れたりすると、すぐ崩れてしまうありさまです。いままで順調にすすんでいた工事は、まるでうそのように難工事に変り、いたずらに日数がたっていくだけでした。

弥一左衛門はしだいにあせりはじめ、頬がこけてしまいました。
村人たちの間からも、人柱をたててはという、話が持ち上がりましたが、もういちど“竜神”におたのみしようと、ふたたび大掛かりな仕事を始める前に、竜神堂を建ててまつり、祈願祭をおこないました。
そして九分どおり出来上がったころ、また嵐が襲ってきました。

横見弥一左衛門は、家来に、
「この嵐に持ちこたえれば、工事は必ず成功する。しかし、今度壊れれば、もう最後だ…。今は竜神におまかせするより仕方がない」
その嵐の二日目の晩、堤防の一箇所から海水が干拓地にドッと流れ込みはじめました。
知らせを受けた弥一左衛門は、
「やはり、だめだったか…」
と、大きなためいきをつきました。

そのときです。
稲光がしたかと思うと、その光が堤防の上に広がりはじめ、白い牙をむいて押し寄せる波を押し返しはじめたのです。

人々は、
「竜神さまだ、竜神さまが堤防を守ってくださる。ありがたいことだ」
と、涙を流して感謝の言葉を申しました。

こうして、竜神さまのお守りで、堤防は助かり、寛文八年の春、りっぱに完成しました。
ところが、この年の夏、大干ばつが起こり、宇津井松屋の人たちは、竜神堂の竜神さまに、雨をお祈りしたところ、たちまち願いがききとられ、実り豊かな秋を迎えることができました。

そこで、人々はこの土地の守護神として、新しい社殿を造り白崎大明神としたところ、竜神さまがたいへんお喜びになられたといいます。
ここから、現在の地名の“王喜”が生まれてきたと伝えられています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/04/02 Tue. 10:34 [edit]

category: 下関の民話

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ボロ吉奉公 

ボロ吉奉公


 むかし、福浦の船宿に、宗吉という一人息子がいた。宗吉は大変ノロマで、何をしても人の五倍も十倍も時間を費やしたので、人びとは宗吉と呼ばすノロ吉と呼んでいた。
 しかし、ノロ吉はとても気のやさしい男で、ある日のこと、金比羅様に参詣して、その境内で傷ついたフクロウを見つけ、連れて帰り手厚く介抱した。やがてフクロウの傷は元通りに良くなったが、山に放してやっても、すぐにノロ吉のそばに戻ってきて、そのうち、とうとう船宿に居ついてしまった。

 そんなある日、西国の海賊が彦島を襲い、福浦を根城にして近海を荒らしはじめた。船宿の人びとは慌てふためいて下関へ避難したが、ノロマのノロ吉は逃げおくれた為、海賊に殺され、海に捨てられてしまった。

 何年かたって、海賊は退治され、人びとも戻って来たが、空き家となっていたノロ吉の家からフクロウが飛び出て来た。毎日、ノロ吉を探しまわっていたことに気づいた人びとは、その姿があまりいじらしいので、
『おぅ、おう可哀そうに、お前はたった一人で留守番しちょったんかい。ノロ吉はのぅ、下関からそのまま都へ奉公に行ったんじゃ、当分は帰って来れんじゃろう』
 と、フクロウに告げた。
 フクロウは首をかしげて『ホウ、ホウ』と、その話を聞いていたが、その日からどこともなく飛び去ってしまった。
 その夜から、彦島のあちこちで啼くフクロウの声は、『ノロキチホウコウ』と聞こえたが、人びとはフクロウのことを『ボロ吉奉公』と呼ぶようになったという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/02 Tue. 10:18 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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