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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

水なし川 

水なし川(みずなしがわ)山口市


 山口市の湯田温泉の西を流れている川を「吉敷川(よしきがわ)」という。
 この川のことを「水なし川」ともよんでいる。

 今からおよそ千百年も前のことである。

 ある夏のあつい昼さがり、一本の杖をついた、みすぼらしいおぼうさんが、どこからともなくやってきて、この吉敷川の川辺に足を止めた。
「ああ、いい風がふいてくる。生き返ったようじゃ。」
 と、気もちよさそうにつぶやいて、そよふく風をこのうえなく楽しむように立っていた。

 ふと、お坊さんは、川岸で、せっせと洗濯をしているおばあさんを見つけて、その方へ歩いていった。
「おばあさん、まことにすみませんが、水をいっぱいもらえまいか。」
 と、声をかけた。

 おばあさんは、びっくりしたようにふりむいたが、お坊さんのみなりをみると、怒った顔をして、返事もせず、また、洗濯を続けた。
 お坊さんは、前よりももっとていねいに水をくれるようにたのんだ。
 するとおばあさんは、立ち上がって、お坊さんを見上げて、
「うるさいな。わしはいそがしいのだよ。お前みたいなこじき坊主の相手になっておれん。飲みたかったら、かってに飲んで、さっさと行っておしまい。」
 と、さも、憎らしげに言って、また、もとのように洗濯を続けた。

 旅のお坊さんは、
「おばあさん、おじゃましたね。」
 と、さびしそうに、水も飲まず、すたすたと立ち去っていってしまった。

 その年は、いつになっても雨が降らず、秋が近づくころには吉敷川の水はだんだん少なくなっていった。
 しかし、吉敷川の上流の方では水水がかなりあっても、ふしぎなことに、おばあさんが洗濯をしていたあたりまでくると、まるで水がなくなってしまうのである。
 そして、ここから八百メートルばかり下流になると、また、水がどこからともなくわき出て、流れはじめるのである。

 そのうち、だれ言うともなく、
「いっぱいの水ももらえなかった旅のお坊さんは、弘法大師(こぷぼうだいし)であったにちがいない。おばあさんの悪い心をこらしめるため、水の流れを止められたのだろう。」
 と、旅のお坊さんとおばあさんのことをうわさするようになったということである。

 それからは、吉敷の人は、吉敷に来るどんな人にも親切にしなくてはと、おたがいにいましめあったという。
 それからは、吉敷川を「水なし川」ともいうようになったという。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/04/22 Mon. 11:25 [edit]

category: 山口むかし話

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22

下関観光検定004 

【問題】

彦島東部の「弟子待」という地名は、ある人の弟子がその地で師匠を待ったことから、その名がついたという言い伝えがあります。
その人物とは誰でしょう。

【答え】

佐々木小次郎

【解説】

「弟子待」という地名は、巌流島の決闘の際、小倉から船に乗りこんだ佐々木小次郎を、三隻の船に乗り込んだ小次郎の弟子が追ったところ、小次郎に引き返すよう命じられ、仕方なく近くの岸に船を着けて決闘の結果を待っていたという言い伝えに由来するものと言われています。
しかし「類聚国史」の天長7年の項に記載のある「勅旨田」という地名が「テシマチ」とも読めることから、巌流島の決闘の800年前には既にこの呼び名があり、決闘をきっかけに「弟子待」という字が当てられるようになったという説もあります。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/22 Mon. 11:13 [edit]

category: 下関観光検定

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22

最後の庄屋 

最後の庄屋


 彦島の庄屋は、むかしから代々、河野家が継いでおったが、いつのころからか、どうしたいきさつがあったのか、それが和田家に変った。

 庄屋の屋敷は専立寺に隣接して、それはそれは広壮なものであった。

 明治・大正から昭和の初めにかけて、彦島の庄屋は和田耕作という男で、実際には庄屋という役職も既に無くなっておったが、人びとは『庄屋の耕作』と呼んだ。
 耕作は、生まれつきの大風呂敷で、なまけ者であった。
 若い頃から決まった職には就かず、いつもぶらぶら遊んでばかりで、親が残してくれた財産を次々に食いつぶしてゆく始末。
 田や畠、それに山林などもどんどん減っていったが、耕作はのほほんと遊び歩いた。そして好き放題にホラを吹きまくった。

 耕作が二十歳の頃のこと、村の若い衆を集めてこう言うた。
『ワシャあ、彦島と関の間を埋めて地続きにしようと思う。明日から東京にのぼって内務省の役人にワシの計画を話して許可を取ってくる。何千円かかっても、何万円かかっても、ワシはやるぞ』
 若い衆たちは、また耕作のホラがはじまった、と笑いながら帰っていったが、その翌年、内務省が『小瀬戸海峡埋め立て計画』を発表したもんで、誰も驚いた。

 またある時、
『彦島に大会社を誘致しようと思うて、今は忙しゅうてならん。昨日も、渋沢栄一と会うてその話をして来たばかりじゃが、どうやらまとまりそうな空気になったよ』
 と、ふれ歩いた。誰も信用しなかったが、半年もしないうちに、大阪硫曹と大日本人造肥料という二つの会社が、福浦湾を視察して工場設立の準備にかかったので、
『庄屋は私財を投げうって彦島の為につくしてくれよる。今まで、ノウタレと陰口を叩いてきたが、ほんに悪いことを言うたものじゃ』
 と、ささやきおうた。

 すると耕作は余計に調子に乗って、
『乃木将軍とワシは懇意でのぅ、この前も東京で会うた時にゃあ、肩を叩き合うて語り明かしたものじゃあ』
 と、口からでまかせにしゃべって歩いた。少しずつ耕作を信用しかけておった人びとも、これにはあきれて、誰も相手にしなくなってしもうた。すると耕作は、むきになって、
『嘘じゃない。そのうち将軍が関に来られたら、皆なの前で訓話して貰うように連絡をとっちょくよ。その時になって、あっと驚くな』

 それから何年かたって、明治四十年一月元旦、乃木将軍が長府に里帰りされた。すると耕作は、その前、約一ヶ月、どこへともなく姿を消しておったが、ひょっこり戻ってきて、
『将軍の件じゃが、ワシャあ、一生懸命頼んだんじゃが、将軍もなかなかお忙しそうで、どうにも時間がとれん。そこで小学生だけを集めて長府で話をしようということになった。志磨小学校(現・本村小学校)からも代表が行けるけえ、それで堪忍してくれえや』と人びとに了解を求めて回った。
 将軍の訓話は一月五日、長府の豊浦小学校校庭で行われ、耕作の言う通り、彦島からも代表が出かけて聞くことができた。

 それからというもの、耕作は有頂天にかって、ホラの吹き通しであったが、明治大帝がお亡くなりになり、乃木将軍の殉死が伝えられると、その日から、また姿を消してしもうた。

 二年か三年、耕作は家をあけたまま、どこへ行ったのか、その消息さえもわからなかったが、ある日、ひょっこり戻ってきてそのまま寝込んだ。
 病気の様子でもなく、毎日ごろごろ寝転んでばかりじゃったが、人びとが訪ねて行ってもあまりしゃべろうとせず、まるで人が変ったようであったという。

 大正八年、長府に乃木神社が出来ると、耕作は五日ごとに長府まで歩いて行ってその拝殿にぬかずいた。
 相変わらず、決まった仕事にはつかず、色町などで遊び呆けておったが、以前とは違うて、何故か耕作はホラを吹かなくなった。

 また、何年かが過ぎていった。

 ある日、村の人が下関から戻って来て、
『庄屋は大したもんじゃのう。乃木さんに大鳥居を寄進したちゅうじゃないか』
 と、ふれまわった。
『そんな馬鹿な。もしそれが本当なら、庄屋は何年も前から鳥居の話を大げさにしゃべり歩いちょる筈じゃ』
 人びとは殆ど信用せんやったが、下関あたりでは、その噂でもちきりちゅうことを聞いて、何人かで長府まで確かめに行くことにした。

 行ってみると、まことまこと、乃木神社の正面参宮道路の入り口に花崗岩の大鳥居が建っておって、『和田耕作』と奉納者名が彫られてあり、その上、献歌まで刻まれてあった。
『立派な石鳥居を寄進なすって、あれは、相当、お金をかけたものでしょうな』
 人びとは島に帰って耕作に訊ねたが、耕作は何も答えず、ただ笑ろうておるばかりであった。

 大風呂敷が、風呂敷を広げなくなると、人びとは却って寂しゅうなり、時には気味悪がって、庄屋屋敷へは、あまり立ち寄らなくなってしもうた。

 その後、耕作は売る田地が無くなり、家財まで売り払い、昭和のある日、保険金目当てに、庄屋屋敷に火を放ってしもうた。
 耕作夫婦は捕らえられ、子どもがおらんやったことから、さしもの大庄屋も、その日を最後として、完全に没落消滅する破目になった。

 何百年と続いた彦島の庄屋は、その広大な田地森林、屋敷、財産すべて、最後の庄屋、和田耕作一代で食いつぶされ、使い果たされ、そして子孫まで失のうて、見事に絶えてしもうたんじゃとい。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/22 Mon. 10:38 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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22

つる豆腐 

つる豆腐(周南市)


昔々、八代の里に年老いた父親と親孝行な息子が住んでおりました。
家が貧乏で、息子が毎日山から薪を作っては町へ売りに行き、やっと暮らしをたてえいました。

あるひ、息子が町から帰ってくる時、峠で一人の猟師が山田で餌を食べている一羽の鶴を鉄砲でねらっているのを見つけました。
息子は急いで小石を拾うと、鶴の方に向かって投げました。
鶴が驚いて飛び立つと同時にズドンと鉄砲がなりました。危ないところを鶴は助かりました。
息子に気づいた猟師は、息子のじゃまを知ってひどい剣幕で怒りました。
息子は仕方なく、せっかく町で得た薪(まき)のお金を差し出してやっと許してもらいました。
家に帰って父親に話すと父親は「それはよいことをした。と息子をほめました。

夕方、表の戸をトントンとたたく音がしました。開けてみると、若い美しい女が立っていて、「雪に閉じこめられて困っております。どうか一晩泊めて下さいませ。」と頼むのです。
「こんな見苦しいところでもよければどうぞ。」と招き入れ、いろりに薪を入れあたらせまた。
翌朝親子が目を覚ますと昨夜から水に浸しておいた豆で女が豆腐をたくさん作っていましたのでビックリしました。
「私は旅の者ですが、しばらくここに置いて下さいませ。」と言って、それからは毎日豆腐作りに精をだしました。
できた豆腐を町で売ると評判がよく、どんどん売れていきました。
一年もたつうちに親子の家は大変豊になりました。父親は女に「どうか息子の嫁になって下さい。」と。
「ありがたい話ですが、実は私は峠で助けていただいた鶴でございます。
ご恩返しに今日まで働かせていただきましたが、お二人のくらしも豊かになったようですので、私はこれでお別れさせていただきます」そういうと女はあっと驚く二人をあとにして鶴となって天高く舞い上がり、どこへともなく姿を消してしまいました。

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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:09 [edit]

category: 山口むかし話

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21

下関観光検定003 

【問題】

豊臣秀吉が文禄の役の際に肥前名護屋から大阪に帰る途中、船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落とすところでした。
供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しましたが、この船の船頭は責任を感じ自決したといわれます。
乗り上げた暗礁には、この船頭の名をとって名づけられました。
なんという名の暗礁でしょうか。

【答え】

与次兵衛瀬

【解説】

豊臣秀吉が文禄の役に際して肥前名護屋に出陣した折、生母大政所の病篤しの急報が届き、早速帰ることになりました。
秀吉を乗せた船が彦島近くにさしかかったとき、大きな暗礁に乗り上げてしまい、秀吉は危うく命を落としすところでしたが、供奉していた毛利秀元の沈着な行動で秀吉を救出しました。
この船の船頭は明石与次兵衛といいましたが、事故の責任を感じ自決したといわれています。
乗り上げた暗礁はこの船頭の名をとって、与次兵衛瀬と名づけられました。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/21 Sun. 11:03 [edit]

category: 下関観光検定

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21

地蔵踊り 

地蔵踊り


 むかし、西楽法師は、十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねになった。

『伊予の国、勝山城再興をはかり、今は、ひたすら隠忍自重…』
 河野家の主人がこう言うと、その家来の、園田、片山、二見、柴崎、小川諸家の人びとも
『主家の為には、私たちも骨身を惜しまずこうして忍んで居ります』
 と力強く答えた。

『私たちは、平家再起のために…』
 キッと眼を見開いてこう言ったのは、植田家と岡野家であった。
『ちよろずの波に沈みたもおた幼帝のおいたわしさと、一門の無念を思えば…』
 百合野、冨田両家の人びとは、そう言ってハラハラと涙を流した。
『小松殿の守護佛を拝する度に、一日も早く、平家の世を取り返さねばと…』
 登根、和田家の人びとも、ヒザを進めて言った。

 それぞれの立場から、それぞれの胸のうちを聞かされ、法師の眼にも光るものがあった。ややあって、法師は、ゆっくりと、つぶやくように言われた。
『諸氏の胸のうちは、よう判る。しかし、河野家滅びて既に百二十年。先帝入水からももう九十年を経ている。諸氏も、この島に住み付かれた頃は僅か十二名であったものが、今では分家もかなり増え、島の東西南北を支配するまでになられた。四国勝山の城も興したいであろう。平氏一門のくやしさも、思うに忍びがたいものがある。しかし…』
 法師は、十二苗祖の人びとの意図が、今の世では、既に無駄なことであり、たとえ兵を起こしたとしても、それに呼応して来る一門は、ほんの一握りでしかないことを、時間をかけてゆっくりと説かれた。

 だから、そんな考えはこの際、一切捨て去り、明日からは、子孫繁栄と島の開拓を目指して、十二氏が力を会わせて欲しい、と法師は何度も言われた。

 昼が来て、夜になり、法師を囲む十二氏の人びとは、それでも議論をつづけた。やがて朝が来て、昼から夜へと、その日も激しい論戦であったが、結局、人びとは、法師の意見に従ってみようと誓い合うことにした。

『法師、あなたの御意見に添うことに致しましょう。今日からは、鉾を納め、刀を鍬に持ちかえて、島の為、十二家の為に私たちは力を会わせて働きましょう』
 居並ぶ人びとの言葉に、法師もゆっくりうなずいて、
『平家の守り本尊に、諸氏の身柄を預けて下さいますか。これからは再興のことなど考えず、子孫と島の隆盛を誓い、十二氏が手を取り合って生きてゆくということを…』
 と涙ながらに話された。
『すべて、おまかせいたしましょう』
 十二氏の人びとは、口を揃えて、そう答えた。
『ああ、良かった。本当に良かった。これで私も、もう安心です。それでは、明日から島の開拓に精を出して下さい』
 法師の笑顔にも、十二氏の人びとにも、一すじ、二すじ、涙が光っていた。


 この日のことを『十二苗祖の誓い』と言うが、その後、毎年九月に行われる地蔵祭りの踊りに、この日の会話が取り入れられることになった。
 地蔵踊りは永い年月の間に広がって、下関やその近郊の盆踊りとなり、最近では『平家踊り』と呼ばれて、全国でも有名な踊りの一つに数えられるまでになっている。

 その踊りのハヤシで『ヤトエー ソラエーノ ヤトエノエー』というのは、法師が『良かった、本当に良かった』と喜ばれた時の言葉で、『マカショイ マカショイ』とか『アーリャ アリャマカショーイ』というのは、十二家の人びとが『すべて、おまかせいたしましょう』と言ったことから来ている。
 また。『ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤッサ』というハヤシ言葉は、誓いの翌日から島の開拓に励みはじめた様子を現したものだと伝えられている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/21 Sun. 10:40 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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21

葛粉薬 

葛粉薬


むかし、むかし、あるところに、たいへん仲の悪い姑(しゅうとめ)と嫁がおりました。

あんまり姑がいびるので、嫁はお寺の和尚(おしょう)さんのところへ行き
「和尚さま、姑さんはひどうて、わたしゃぁ、一緒にいるのがつらくてなりません。
できるもんなら、人に知られんように亡きものにしてもらうことはできないでしょうか」
と、おそるおそる言いました。

すると和尚さんは
「そいじゃぁ、ぼつぼつ弱ったあげくに、すぅっと死ねるような薬をあげようかの。七日間、ごはんに薬をまぜてたべさせるのじゃ。
その間は姑がどんなに無理を言うても、はいはい、ちゅうて言うとおりにするんじゃぞえ」
と、言って薬を嫁に渡しました。

嫁は寺から帰ると、三度のごはんのなかに薬をまぜて姑に食べさせました。そして何を言われても、はいはい、で通しました。

そのうち七日が過ぎましたが、なかなか姑は弱りそうにもありません。
それどころか、おかしいほどに優しくなってきました。
そこで嫁は「死ぬまえにゃ仏のようになるちゅう話じゃが、それになるのに違いない」と思って、また和尚さんにそのことを話しました。

そして「薬をもうすこしつかぁさりませ」と言ったら、和尚さんは
「そいじゃぁ、もう七日分あげようかの。そのかわりまた、姑を大切にするんじゃぞえ」
嫁はまた、和尚さんから言われたとおりにしました。

すると姑は
「おまえにこれをあげよう。このごろはわしにようしてくれるから、うれしゅうての」
と町で買ってきたよい着物を一反(いったん)、嫁に渡しました。

あわてた嫁はお寺に飛んでいき
「和尚さん、おおごとでござります。はよう姑さんを助けてくださりませぇ。
姑さんを亡きものにしようなんてとてつもないことを思うちょりました」
と大声で叫びました。

すると和尚さんが
「まぁまぁ。わかってよかった。
おまえが姑のいうことを聞かんけぇ、姑がぐちるのじゃ。おまえが、はいはい、といやぁ姑もかわいがってくれなさる。
人にしてもらうよりはさきに人にしてあげなくてはいけん」
と言って聞かせると
「和尚さま、ようわかりました。これからは姑さんと仲ようしますけえ死なんようになる薬をはようつかぁさりませえ」と嫁はおんおん泣き出しました。

和尚さんはそのようすを見て
「泣かいでもええ。あの薬は葛粉じゃけん滋養(じよう)になりこそすれ、死にやぁせん。今からは仲よう暮らしんさいや」
と言った、ということです。

(阿武郡)


山口銀行編纂 山口むかし話より転載
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Posted on 2019/04/20 Sat. 11:45 [edit]

category: 山口むかし話

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20

下関観光検定002 

【問題】

名前の知られた巌流島ですが、正式名称は実は違う名前です。
その名前はなんでしょうか。

【答え】

船島

【解説】

巌流島は、元々は船島と呼ばれていましたが、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で敗れた佐々木小次郎の号が巌流であったことから、巌流島と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代から読み物でも取り上げられ、昭和に入って吉川英治の「宮本武蔵」や村上元三の「佐々木小次郎」などの小説で全国に知られるようになりました。
昔は16.500平方メートル程度であったそうですが、明治43年と大正15年に埋め立てが行われ、現在は103.000平方メートルの広さになっています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/20 Sat. 11:32 [edit]

category: 下関観光検定

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20

羽根石 

羽根石


 現在の大和町と東大和町一帯、つまり下関駅から西側、漁港も商港も、すべて海であったころの話。

 弟子待沖からこの辺りは、海峡の急流に洗われた大小岩礁の連続で、瀬戸の難所と言われていました。その中ほどに『沖の洲』と呼ぶ大きな平洲があり、東側には大岩の瀬が波間に頭を見え隠れさせていました。

 むかし、太閤秀吉は大阪城築城の際、全国の諸大名に命じて石を集めさせました。その時、九州からも多くの石船がこの海峡をのぼって行きましたが、その中の一隻は、沖の洲の瀬に座礁して動かなくなってしまいました。
 そこで、積み石の幾つかを海に投げ捨てて船を浮上させようとしましたが、どうしても瀬から離れることが出来ません。
 船頭たちは思いあまって、岩礁の中の一番大きな岩の頭を刎ねてみました。すると、石船はようやく浮き上がって大阪へ向かうことが出来ました。

 それでも、沖の洲の東側の大岩は、干潮の時にはその頭が見えましたが、これを人びとは『刎ね石』と呼ぶようになりました。
 そして、いつのまにか『羽根石』にかわってしまったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/20 Sat. 11:16 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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姫島婿島物語 

姫島婿島物語

防府の昔話と民話(1)  
防府市立佐波中学校発行・編集「防府」より


かつては鞠生(まりふ)の松原の沖に浮かぶ向島(むこうしま)は、豊後国の国東半島の沖合いに浮かぶ姫島に対して婿島と呼ばれていた。

そのいわれは、とおいとおい昔の神代のこてであった。

周防国の佐波志那都命(さばしなつのみこと)の子に牟礼香来比古(むれかくひこ)という者がいた。
身の丈六尺(1.8m)あまりで筋骨たくましく眉目はうるわしいばかりか、大変な働き者であった。
佐波川の荒野を切り開いて美田とし、財貨をたくわえて豊にくらしていた。
周防国きっての評判の若者であった。

海を隔てた豊後国の国東の里には、加奈古志比売(かなこしひめ)という、これまたたぐいない美貌にかがやき、諸芸にひいでる評判の姫君がいた。
父の佐伯速阿岐命(さえきのはやあきのみこと)のもとに、国中の多くの若者が婿になりたいと、言い寄ってきたが、利発にとんだ、かわいい姫君にふさわしい若者はいなかった。

日夜、あれこれと姫君の縁談に気をもんでいた父のもとへ、塩土老翁(しおつちのおじ)がやってきた。
塩土老翁はイザナギ・イザナミのおん子で、「海幸山幸」の話にでてくる神で、海路の神として、また塩づくりの神としてあがめられ、諸国を巡って海上航路や塩作りの技術を教えていた。

佐伯速阿岐命の話を聞いた塩土老翁は、しばらく加奈古志比売にふさわしい若者をあれこれ思い浮かべたが、はたとひざを打ち、佐伯速阿岐命に周防国の牟礼香来比古のことを話した。
佐伯速阿岐命は、塩土老翁のお目にかなう若者なら、姫君にとって不足は

なかろうと思い、塩土老翁に仲介を頼んだ。こうして牟礼香来比古と加奈古志比売はめでたく結ばれることになった。

ところが、当時の婚姻(こんいん)は妻問い婚(つまどいこん)という方式であった。結婚しても、夫婦は一緒に暮らさず、夫も妻も以前と同じように、それぞれが実家で暮らすのが普通であった。
夫は妻の家に夜ごと通うので妻問いといい、夜だけ妻子と団欒をともにした。豊後国の加奈古志比売と周防国の牟礼香来比古の場合も例外ではなかった。

牟礼香来比古は昼ひなかは懸命に働き、日が暮れてから船ではるばる国東の里の加奈古志比売のもとに通い、夜明けにまた佐波の浦へ帰ってくるという生活を続けた。

牟礼香来比古は働き者でたくましいだけでなはなく、愛情のこまやかな若者であったので、夫婦の愛情はいっそう深まった。
嵐の夜など夫を待ちわびる加奈古志比売は、夫の安否を気づかい、気も来るわんばかりであった。

日がたつうちに、さすがの牟礼香来比古も疲れを覚え、次第に働く気力をなくしてしまった。
佐波川の美田もいつの間にか草が生い茂ってしまった。
そんな息子を気遣った佐波志那都命は家人に命じて、妻のもとへの通いをやめさせるようにした。
だが、妻を恋い慕う牟礼香来比古は、たくみに家人の目をかすめて国東へ通い続けた。

がまんのならなくなった父の命は、とうとう舟に鎖(くさり)をかけて、舟を動かせないようにした。
いつものように、家人の目をようやくのがれた牟礼香来比古は、浦の船にのり、櫓(ろ)をこいだところ、櫓はきしむばかりで舟は少しも動かなかった。
あせった牟礼香来比古は、力いっぱい櫓をこいだが、闇夜(やみよ)に櫓のきしむ音だけ悲しげに響いた。

「加奈古志比売、加奈古志比売・・・・・・」

妻を恋い慕って夜の海に向かって絶叫するばかり――。

妻を慕う身は、ついに夜が明けると舟ともども島に姿を変えてしまった。
その島を婿島(むこしま)という。

一方、夫を待ちわびた加奈古志比売は、ついにこらえきれず、

国東の沖まで舟を出して夫を迎えたが、とうとう夫が来ないまま夜が明けた。これまた、あわれにも加奈古志比売も舟ともども島になってしまったという。
これが姫島(ひめしま)という。

こうして、恋い慕う夫と妻との仲が引き裂かれて島となり、海を隔てて向かい合って、今も互いに恋い慕っているのが、姫島と婿島(向島)といわれている。

おわり

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Posted on 2019/04/19 Fri. 14:32 [edit]

category: 山口むかし話

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19

下関観光検定001 

【問題】

下関でいちばん面積の広いのはなんという島でしょうか。

【答え】

彦島

【解説】

下関の島の面積をみると彦島がいちばん広く10.60平方キロで、人口は31.085人、続いて角島が3.96平方キロで901人、蓋井島2.35平方キロで87人、六連島が0.7平方キロで112人、厚島0.4平方キロで人は住んでいません。
彦島と下関本土との間は短く、関彦橋と彦島大橋で結ばれ、人口も多く島という感じがしません。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/19 Fri. 14:19 [edit]

category: 下関観光検定

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19

お夏だこ 

お夏だこ


彦島の西山に、お夏という十八歳になる娘がいました。
娘の家は漁師をしていましたが、家が貧しく、そのうえ両親が病気がちで寝込むことが多く、その分だけ、お夏は人の倍も働き家計を助けていました。
海が荒れている日は、仕事も出来ず、そのためお天気になりそうな日は、まだ暗いうちから起き、支度をし人より早く海に出て仕事をしはじめました。

そのうち父親の病気が悪くなり、もう命もあとわずかというとき、父親は、やせ細った手で娘をまねき、
「娘や、わしはもう一度あのおいしいタコが食べたい。すまないが、タコを捕ってきておくれ」
「でもお父さん、そんなに弱った体に、タコは無理ですよ」
と娘は心配そうにいいましたが、父親は、どうしてもタコが食べたい、死ぬまでにもう一度食べておきたいと、何度も娘に頼みました。

そこで娘は、あくる日、銛を持って海岸に出ました。
箱眼鏡をのぞいてタコを探しますが、なかなか見つかりません。
父親があれほど食べたがっているタコです。
どうしても一匹でも捕って帰らねばと、とうとうお日様が水平線に消えかかる頃まで探しまわりました。

しかし、見つけることができません。
娘はガッカリして帰り支度をしていて、ふと四、五メートル先の岩場を見ると、その向こう側にタコの足らしいものがのぞいています。
しめたと思って娘は静かに岩の反対側に回ってみて驚きました。

そのタコは、タコには違いありませんが、なんと人間より大きいタコでした。
娘はとっさにこう考えました。
「たこは眠っているようだから、足を一本だけ切り取っていこう。そうすれば、また父親が食べたいといったときに捕りにこられる」

娘は用意していた刃物で、用心しながら足を切り取り、持ち帰りました。
あまりに大きかったので、近所の漁師にも分けましたが、一番に、父親は
「あー、これはうまいタコじゃ」といって喜んで食べてくれました。

それから二、三日たつとまた父親は、タコが食べたいといいだしました。
娘はいつかの大ダコのいた場所に行き、また足を一本切り取って帰りました。

こうしたことが何回かあって、あの大ダコの足は、たった一本になってしまいました。
はじめのタコの足を捕ってから、二十日ばかり過ぎていました。

娘はまた父親の願いで、タコのいる場所へでかけました。
娘は、いつもタコが逃げもしないで、眠っているようすなので、今日も安心してタコに近づき、最後の一本を切り取ろうとしました。

しかし、その時、タコは残りの一本を娘の胴に巻きつけ、そのまま海底深く引きずっていきました。

お夏の帰りが、あまり遅いので、母親をはじめ近所の漁師たちが海に出て一日中探しましたが、ついにお夏の姿を見つけることはできませんでした。

それからは、この海岸にあがってくるタコを「お夏だこ」といって、漁師たちは祟りを恐れ、タコを捕らなくなったといいます。


(注)
伝説として語り伝えられているお話の中には、心の優しい孝行な娘の話がいろいろありますが、この「お夏だこ」の話や、「幽霊祭」「福笹」などの話も、そうしたものの一つです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/04/19 Fri. 14:01 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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龍宮島物語 

龍宮島物語


いまから二千年前の大昔のこと、安岡の北福江というところの沖合いに、龍宮島という島国があり、玄海王という王様が支配していました。

玄海王は大変わがままな王様で、なんでも自分の思い通りにならないと、すぐ家来たちの首をはねてしまいます。
今度もまた、自分が月見をするために、大きな望楼を作ることを家来たちに命じました。
家来たちは王様の御機嫌をそんじては大変なことになるので、さっそく島に住むすべての若い男を人夫としてかり集め、雪解けはじまる春先から工事を進めることにしました。

この人夫の中に、結婚して間もない弥次郎がいました。
弥次郎が働き者なら、その妻の久留見もなかなかの働き者で、その上島でも指折りの美人でした。
幸せの二人もいよいよ別れるときがきました。妻の久留見は、涙ながらに愛する夫を峠まで送っていきました。

家にただ一人残された久留見は毎日心細い日を送っていましたが、出発のさい、夫の弥次郎が庭の一本の楡の木を指差して、
「この木の梢に青葉が繁る頃にはかならず帰ってくるから…」
と、いった言葉を、せめてもの頼りとして待ちわびておりました。

望楼は、毎日、毎日少しずつ高くなっていきます。
弥次郎が出発して二ヶ月たち、三ヶ月たち、そして心の支えだった楡の梢に若葉が繁っても、いとしい夫からはなんの便りもありません。

そのうち望楼は完成し、玄海王は盛大な月見の会を開きました。
やがて黄色く色づいた楡の葉が、はだ寒い秋風にハラハラと散る頃なって、夫の帰りを待つ久留見は、毎日気が気ではありませんでした。

こがらしの吹く頃となりました。
たまりかねた久留見は夜を徹して夫の冬着を作り上げ、それを背負い、夫を探しに出発しました。

険しい山坂を越え、やっと目的地に着きました。
久留見は城壁の周りを夫の名を呼びながら探しましたが、ついにめぐりあうことはできません。
疲れがどっとでて道端の石に寄りかかっていると、一人の老人が心配して声をかけました。
一部始終を老人に打ち明けました。
老人は聞き終わると悲しそうな目をしながら、
「お前さまには、大変気の毒なことだが…、その弥次郎という男はの…、望楼を作るさい人柱にされたのじゃ…」
と、老人も最後には、目に涙をいっぱいためにがら久留見に話してやりました。

久留見はもう怒りと失望のあまりドッと地面に泣き伏しました。
涙があとからあとから流れ出て、三日三晩泣き続けました。
その涙は滝のごとく大川のごとく、ものすごい音を立てて城壁の下を洗い、ついに城壁の一部が激しい音とともに崩れ落ちました。

その物音にふと我に返った久留見は、自分の前に恐ろしいものを見たのです。
それは、人柱にされた夫の亡骸でした。
久留見の嘆きは以前にも増し、ただ気も心もつきはてて夫のそばに泣き崩れるだけでした。

このとき、久留見のようすを望楼の上で見ていた男がいました。
それは、望楼の築造を玄海王から命ぜられた位の高い家来で、久留見の美しさが人並みすぐれているので、王様の奥方にしようと密かに考えていたのです。

そこで、悲しみに泣き崩れている久留見を無理やりにお城に運び込み、玄海王にその事情を話しました。
王様は久留見のあまりの美しさに心をうばわれ、自分の后になるように申し出ましたが、久留見はもちろん断りました。
しかし断れば殺してしまうと脅かされ、それならばと一計を考え次のように申し出ました。
「故郷を眺めることのできる高い山に、手厚く夫を葬ってくだされば、あなたの后となりましょう」
王は、なんだ、そんなことはみやすいことだと、喜んで引き受けました。

やがてひとつの高い山の峰で、手厚い葬式が営まれました。
久留見は涙ながらに、この葬式に列席しましたが、式が終わるのを待って、だれにも見つからないようにこっそりと後の岩山に逃げていきました。

王は、これで久留見は自分の后になってくれるだろうと、久留見を呼びましたが、どこにも見当たらない、さては逃げられたかと、家来たちを叱り飛ばし、八方に捜索隊を出して探させました。

久留見は必死になって逃げるだけ逃げましたが、かよわい女の悲しさ、ついに岩山の頂上で王の部下たちに追いつかれてしまいました。
王の部下たちは、ヒシヒシと迫ってきます。
前は絶壁、真下には白い波が牙をむいて岩にぶつかっています。
絶体絶命、久留見は、もはやこれまでと、
「弥次郎、いまにあなたのそばにまいります…」
と、一声残し、海に向かって真っ逆さまに身を投げました。

王は何百という舟を漕ぎ出して久留見の行方を捜しましたが、ついにその姿を見つけることはできませんでした。

それからというもの、一日一日と、あの大きな龍宮島は海に没しはじめ、ついに大変栄えた玄海王国も滅び去ってしまいました。

そして今は、ただ小さな瀬を残すだけとなり、気のせいか、夫弥次郎を慕う妻久留見の悲しみが瀬の音とともに聞こえてくるようです。

そして後の人は、この背を久留見瀬と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/04/18 Thu. 11:21 [edit]

category: 下関の民話

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帰られなかった佛様 

帰られなかった佛様


 むかし、十二苗祖をはじめ。彦島の人びとは西楽寺の門信徒であった。しかし、今ではそのほとんどが、下関の光明寺、了円寺、教法寺と、彦島の専立寺を、それぞれの旦那寺としている。

 今から約三百年もむかしの話。

 寛永十五年(1638年)九州天草の乱で敗れた小西の残党は、海賊に身をやつして玄海を荒らしまわっていたが、ある時、彦島までも襲って来た。
 彦島は、古くから何度も海賊の根拠地されてはいたが、この時ほど大量に、そして残虐な仕打ちを受けたことはなかった。そのため、島の人びとは、相次いで下関に避難することにした。
 折悪しく、その年の春、西楽寺の十九代住職が亡くなったので、本尊である阿弥陀尊、観音様、薬師様も避難して貰おうと、下関の福昌寺(今の専念寺)に預けた。

 島の人びとが疎開して二年後、つまり寛永十七年(1640年)幕府はキリシタンを禁圧する目的から『旦那寺請制度』を設けた。それは、士農工商、すべて、どこかの寺院にその門徒であることを届け出なければならない、という制度で『宗門改め』とも言う。

 彦島から避難していた人びとは、『西楽寺の門徒』であることを誇りにしていたが、廃寺同然となっている西楽寺の名を届け出るわけにもゆかず、仕方なく、光明寺、了円寺、教法寺に、それぞれ一時的な門信徒として申し出ることにした。彦島に残っていた僅かな人びとは、無住の西楽寺に届けることも出来ず、専立寺の門信徒となった。因みに西楽寺は時宗だが、四つの寺院はいずれも浄土真宗である。

 小西党の海賊どもが長府毛利のお殿様に征伐されて、疎開先の人びとが島に戻りはじめたのは、三十五年後の延宝元年(1673年)のことであった。

 ようやく懐かしい古巣へ帰ることの出来た人びとは、早速、西楽寺の門徒に立ち戻りたいと役人に届け出た。しかし、役人は『宗門改め制度は、永代である』と言って、その願いをしりぞけてしまった。
 西楽寺を旦那寺として仰ぐことの出来なくなった十二苗祖をはじめ島の人びとは、せめて福昌寺に預かって貰っている三像だけでも帰島させて欲しいと申し出た。
 早速、阿弥陀様だけが島に帰って来られたが、残る二尊像は、福昌寺が渋って、なかなか返してくれない。おさまらないのは島の人びとだ。人びとはたびたび下関へ渡って、平家の守り本尊だから、是が非でも阿弥陀様と一緒に安置すべきだ、と接渉しつづけた。

 三十年という月日が、またたくまに過ぎた。その間、島の人びとは、かわるがわる福昌寺に出かけて二像返戻を迫った。その熱意に動かされたのか、廃寺同然の西楽寺に新しい住職を迎えるという条件を確かめて、観音様だけが彦島に帰されることになった。それが宝永元年(1704年)のことであったという。

 しかし、残る薬師如来様だけは、どうしても返してくれず、そのうちどうしたのか、福昌寺からも行方知らずとなってしまわれた。

 島の人びとは、ひどく哀しんだが『阿弥陀様は平家一門の冥福と島の平和を祈り、観音様は、光明、了円、教法三山の隆盛を見守って下さる為に帰島され、薬師様は全国各地に隠棲している一門の落人を慰めるために諸国を廻って居られる』と、末永く言い伝えることにしたという。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/18 Thu. 10:27 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの) 

果報者(かほうもの)と阿呆者(あほうもの)


 むかしむかし、長門の国(ながとのくに→山口県)の北浦のある里に、とても貧しい夫婦が住んでいました。
 二人はわずかな田んぼをたがやし、山から拾ってきた薪(たきぎ)を売って、ようやくその日の暮らしをたてていました。

 ある日の事、だんなが女房にこんな事を言いました。
「毎日毎日、汗水流して働いているのに、わしらの暮らしは少しも良くならんな。わしは、もう働くのにあきてしもうた」
 すると女房が、こう言いました。
「確かに、そうですね。
 そう言えばこの間、大寧寺(だいねいじ)の和尚さんが説教で『果報は寝て待て』と言っていましたよ。
 あわてずに寝て待っていれば、良い事は向こうからやって来るんだそうです。
 あなたもひとつ、果報を寝て待ってはどうですか?」
「なるほど、寝て待てばいいのか。そいつは楽だ」
 そこでだんなは、その次の日から寝てばかりいました。
 しかし果報は、いつまでたってもやって来ません。

 そんなある満月の夜、寝ながら果報を待っていただんなが大声で叫びました。
「おい、こっちへ来てみろ。ほれほれ、この天井窓から、お月さんのウサギが餅をついとるのがよく見えるぞ」
「あら、ほんとうね」
 確かに、天井窓からお月さんのウサギがはっきりと見えました。

 さて、この話がたちまち村中に広がり、月夜の晩には大勢の村人たちが夫婦の家へ集まって来て、天井窓から月をのぞくようになりました。
 それがやがて、
「あの家の天井窓からウサギの餅つきを拝んだ者には、果報が来るそうだ」
と、言ううわさなって、だんだん遠くからも人が集まって来るようになりました。
 そしてお月さんを見に来た人々がお礼のお金やお供物を置いて行くので、夫婦はたちまち大金持ちになったのです。
 ついに、果報がやってきたのです。

 喜んだ二人は、ぼろ家をこわして立派な家を建てると、もっとお金がもうかるようにと、十も二十も天井窓を取付けました。
 しかしどうしたわけか、新しい天井窓からはいくらお月さんをのぞいても、ちっともウサギの餅つきが見えないのです。
 やがて夫婦の家には、誰も来なくなりました。
 それどころか雨が降ると天井窓から雨もりがして、雨水で家が腐り始めたのです。
 困った二人は、大寧寺の和尚さんのところへ相談に行きました。
 すると和尚さんは、大声で笑いながら、
「あはははははは。人間は欲を起こすと、果報者も阿呆者になるという事じゃ」
と、言ったそうです。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
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Posted on 2019/04/17 Wed. 11:10 [edit]

category: 山口むかし話

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