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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

姫ノ水 

姫ノ水


 壇ノ浦の合戦で、悲しくも平家は敗れました。その時、四人の官女が一門から離れて彦島にかくれましたが、数日もしないうちに欠乏の生活に耐えられなくなってしまいました。彼女たちは、このまま島にかくれていても貧するばかりと、思いあまって大瀬戸の流れに身を投げました。

 しかし、そのうちの一人は死ぬことも出来ず、砂浜に押し上げられてしまいました。
 里人に助けられたその女は、三人の官女や一門の人びとの幸せを羨み、平家全盛のころの華やかな毎日を思い出しては、日夜泣き通しました。そして、日に日にやせおとろえていきましたが、ある朝、こつぜんと姿を消してしまいました。

 里人たちが手分けをして探しまわりましたところ、浜辺からかなり奥まった山中に、のどをかききった官女のなきがらがありました。
 人びとは、彼女の死をひどくいたんで、その地に手厚く葬り、一本の杉を植えました。そして、どこにでもあるような山石を運んできて、官女の墓を建てました。

 ところが、不思議なことにいつの頃からか、墓石の下から冷たい水が湧きはじめたのです。そればかりか、杉の木はぐんぐん伸びて何年もたたないうちに見上げるような大樹に成長しました。

 人びとは、この水のことを『姫ノ水』と呼び、杉の木の付近を開拓して『杉田』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/28 Sun. 10:37 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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下関観光検定083 

【質問】

赤間神宮には平家一門の肖像画があります。
五名の男性は黒色の衣裳を着ていますが、一名だけ異なる色の衣裳を着ています。
その一名の名前と衣裳の色は、なんですか。

【答え】

平資盛・山鳩色

【解説】

平家一門の肖像画は、もとは安徳天皇の御影堂の内部にありました。
室町時代末の作といわれます。
堂の中心に安置された安徳天皇の木彫像を守護するように配されていました。
いずれも安徳天皇を最後まで供奉していた人たちで、廓御方(清盛娘)、大納言典侍(重衛妻)、師典侍(時忠妻)、治部卿局(知盛妻)の女房と、知盛、教盛、経盛、資盛、教経、信基の武将です。
男性像五名は、いずれも黒色の強装束の束帯姿、女性像は十二単です。
平資盛は当時の役職が蔵人頭で、天皇陛下の常服を下賜される名誉な立場なので、山鳩色の束帯姿で描かれています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/27 Sat. 10:20 [edit]

category: 下関観光検定

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27

長者の森 

長者の森


 むかしむかし、ある山のふもとに二軒の家がありました。
 二軒の家は、どちらも貧しい炭焼きの家でした。
 ある日の事、一軒の家には男の子が、もう一軒の家には女の子が生まれました。
 そして二人の父親は、子供たちが大きくなったら結婚させる約束をしました。

 ところがこの女の子には、山の福の神がついていました。
 女の子が山へ行くと、ただの木の葉や石ころまで、みんなお金にかわってしまうのです。
 そんなわけで、女の子の家はお金持ちになっていきました。
 しかし男の子の家の方は、あいかわらず貧乏なままでした。
 やがて二人の子供が年頃になったころ、男の子の父親はむかしの約束を思い出して、息子を婿にしてくれと女の子の家に申し出ました。
 女の子の父親は約束を守り、二人は夫婦になりました。
 福の神のおかげで家はますます豊かになっていき、長者屋敷といわれる屋敷には、蔵がいくつもいくつも建ち並びました。

 さてそうなると、主人にはおごりが出てきました。
 遊びに出て夜遅く戻っては、冷めてしまった料理を見て、
「こんな冷たいものを、食べられるか!」
と、妻をどなりつけるのです。
 そこで妻は考えて、ある夜、熱いそばがきを出しました。
 しかし、ぜいたくに慣れた主人は、
「なんだ、こんなまずい物!」
と、言うと、足で蹴り飛ばしたのです。
 すると、ザワザワという音と共に、蔵からたくさんの穀象虫(こくぞうむし)と白い蛾(が)が出てきました。
 それは主人のふるまいに怒った福の神が、米を全部虫や蛾にしてしまい、自分も立ち去って行く姿だったのです。

 それからは主人は何をしても失敗ばかりで、やがて広い屋敷もなくなり、一家は行方知れずになってしまいました。
 それから月日が流れて、かつての長者屋敷は森になりました。
 人々はそれを「長者の森」と呼び、ぜいたくやおごった心を持たぬようにとの、戒めにしたということです。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
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Posted on 2019/04/27 Sat. 09:29 [edit]

category: 山口むかし話

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27

下関観光検定009 

【質問】

下関には、フク専門の南風泊市場があります。
元々は唐戸市場でセリをしていましたが、手狭になったのとフクを獲った漁船が入港するのに不便になったことから、彦島にフク専門の卸売市場を造ったものです。
さて、このフク専門の南風泊市場の南風泊はなんと読むでしょうか。

【答え】

はえどまり

【解説】

フクは、もともと他の魚と一緒に唐戸市場で水揚げしていました。
フクの漁獲高も増え、船も多くなり大型化して、唐戸漁港には接岸しにくくなりました。
そこで彦島の南風泊へフク専門の市場を造ったのです。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/27 Sat. 09:27 [edit]

category: 下関観光検定

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27

六人武者 

六人武者


 壇ノ浦の合戦で平家が滅び、そして何年かたったころの話です。

 彦島の対岸、小門の王城山に中島四郎太夫正則という悪者が住んでいました。
 もともと平家一門であった四郎太夫は、一門再興を願っていましたが、いつのまにか、その望みもなくなり、とうとう海賊に身をやつしてしまったのです。

 ある寒い冬のことです。

 四郎太夫は、息子とその家来四人をつれて竹ノ子島を襲い、略奪のかぎりをつくしました。その上陸地は今でも『六人武者の江良』と呼ばれ、竹ノ子島は古く『鬼ヶ島』と呼ばれたものでした。
 六人武者は彦島へも足を伸ばし、あちこちで悪事を働きました。西山の『波高』という地名は、住民の殆どが裸にされてしまったからで、『渡瀬』は『有り金ぜんぶ渡せ』とおどされた所からきているといいます。
 また、迫の『荒田』は、住民をここに集めて財産の有無をあらためた所で、その隣の『絞』は、何もかも絞り取られた人びとの集落となった地名だということです。


 やがて、四郎太夫ら六人の海賊は、彦島だけでは飽きたらず、九州にまで勢力を伸ばしはじめました。そこで豊前の人びとが海賊征伐に立ち上がり、兵百五十人と船六十三隻が福浦の海に集結しました。

 福浦には今でも『六十三隻江良』という磯が残っており、対岸の塩浜には『海賊島』や『海賊泊り』も現存しています。
 その時、豊前の兵は、南風泊の漁師たちに海賊の様子を訊ね歩きましたが、どの漁師も後難を恐れて『聞かぬ』『聞かぬ』と首を振るばかりでした。南風泊の沖には、今でも『きかんが藻』という岩礁があります。

 いよいよ海賊征伐の火ぶたは切られましたが、四郎太夫たちは、さまざまな奇襲戦法を用いて、それに抵抗しました。
 しかし、百五十人対六人では殆ど戦にならず、四郎太夫と息子は一目散に伊崎の山へ逃げてしまいました。

 それでも、あとに残された四人の家来、つまり、鶴五郎、仁蔵、雁次、市太郎らは、最期まで勇敢に闘って死にました。
 今、彦島に残っている『仁蔵の江良』『鶴の江良』『雁谷迫堤』『太郎ヶ鼻の瀬』などの地名は、彼らが討ち死にした場所だということです。


 戦いすんで日は暮れて、豊前の兵は意気揚々と引きあげて行きましたが、島びとたちは斬り殺された四人の海賊の首を一箇所に集めて田の中に埋め、手あつく供養しました。その地を今でも『田の首』と呼んでいます。

 島の人びとにとっては、それはそれは憎い海賊たちではありましたが、四郎太夫父子の逃走後も、なお、勇敢に闘って死んだ四人への哀れみから、六人武者にまつわる地名があちこちに付けられたのだといわれています。
 そして人びとは四人の武者が最期にたてこもっていた場所を『武者田(むしゃだ)』と名付けました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/04/27 Sat. 09:03 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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雪舟駒つなぎの絵馬 

雪舟駒つなぎの絵馬 ~山口市~


 山口市の湯田温泉から西へおよそ4キロメートルばかりはいった吉敷の滝河内(たきごうち)というところに、龍蔵寺(りゅうぞうじ)という古いお寺がある。
 龍蔵寺は、今からおよそ千二百年も前に建てられたと伝えられる寺である。
 そのむかし、行基(ぎょうき)という僧が自分でつくた千手観音を安置し、龍蔵寺と名づけたという。

 この寺に雪舟という名高い絵かきがかいたと伝えられる古びた絵馬がある。

 これは、この絵馬にまつわる話である。

 雪舟が山口に住んでいたころというから、今から五百年も前のことである。
「じつにみごとな絵じゃのう。まるで生きちょるみたいじゃのう。」
「さすが、日本一の雪舟さまがかいただけのことはあるのう。りっぱなものじゃのう。」
 龍蔵寺の観音堂にかかげられた絵馬をみて、百姓たちは口ぐちにほめそやした。

 ところが、それからしばらくしてからのことであった。
 ある日のこと、たいへんなことがもちあがった。
 その日、吉敷の里の人びとは、秋のとり入れのこととて、野良でいそがしく働いていた。そこへ、ひとりの百姓が血相をかえてかけてきた。
「た、た、たいへんじゃ。わ、わ、わしの家のたんぼが、何ものかにあらされちょる。」
 ところが、たんぼがあらされているのは、その男のところだけではなかった。あっちの田んぼも、こっちの田んぼも、イネの穂は食いあらされ、ふみたおされていた。
「いったい、だれのしわざじゃ。」
「ほんとに、どこのどいつじゃ。」
「おや? こ、こりゃ、馬の足あとがある。どこかの馬がゆうべのうちにあらしたにちがいないぞっ。」
 ひとりがさけんだ。
「そねえいうても、夜中に馬をはなすものはおらんじゃろう。」
 百姓たちは、あれこれ話し合ったすえ、今夜からみんなで見張りをして、正体をつかもうということになった。

 真夜中のことを丑三つ時(うしみつどき)というが、その時刻になると草木もねむり、軒端(にきば)も三寸(約10cm)しずむという。とにかくさびっしい時刻で、化けものもこの時刻に出るといわれている。
 その丑三つ時とも思われるころ、月明かりの中をどこからともなく一頭の黒いはだか馬(くらをつけていない馬)があらわれたかとおもうと、ねずの番をしている百姓の前をつっぱしった。
 百姓たちは、あっというまのできごとに息をのんだ。それもそのはず、ついぞこの近くで見かけたことのない馬であった。
 百姓たちは、われにかえると
「おいかけえ!」
「あっちだあっちだ!いけいけえ!」
 黒い馬は、田んぼをふみ、畑をあらし、深い森をかけぬけて西へむかって走っていった。
「どこへいったあっ。」
「見失ってしもうたかーー。おしいことをしたのう。」

 百姓たちは、馬のゆくえをみきわめようと、その足あとをたどって走った。どれほど走ったか。百姓たちは、森をぬけ、坂をのぼった。あせが背をぬらした。息はきれ、足のつめからは血がにじんできた。
 つかれはて、百姓たちはうっそうとした木立のあたりですわりこんだ。みな、ぜいぜいとせわしい息づかいだ。

 と、
「こりゃ、どうしたちゅうことかい。」
 ひとりがとんきょうな声をあげた。
 意外にもそこは龍蔵寺の山門の中だったのだ。
「おかしいのう。龍蔵寺様には、馬をこうちゃおられん(かってはいない)はずでよ。」
 百姓たちは、そういいあいながら、寺のあちこちをくまなくさがしてみたが、馬などみつかるはずもなかった。

 あまりのふしぎさに、もう一度よくよくしらべてみようと、百姓たちは、また、馬の足あとをつけた。足あとは観音堂の前までつづき、観音堂の絵馬の前でふっと消えている。

 絵馬の馬が?

 みんなは絵馬をみあげて首をひねった。
 そんなばかなことはない。
 だが、この足あとはーー。

 雪舟のかいた絵馬があまりにもみごとなので、この馬がぬけだしてきたのにちがいない、そうだそれにちがいないと、百姓たちはそう思わないわけにはいかなかった。

 そこで、馬が絵馬からぬけ出さないようにと、雪舟におねがいして、はだか馬に手綱(たづな)をつけてもらった。
 それからというものは、吉敷の里には、田をあらす馬はいなくなった。
 村人たちは安心して秋のとり入れにせいをだしたという。

 龍蔵寺の山門のそばに大きな岩がある。その表面に、ちょうど馬のひづめの形ににたくぼみがある。
 それは、馬が絵馬からぬけ出したときにふみつけた足あとだと、言い伝えられている。

 龍蔵寺の絵馬は、今も龍蔵寺にあって、吉敷の人びとに大切にされている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/04/26 Fri. 10:30 [edit]

category: 山口むかし話

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26

下関観光検定008 

【質問】

彦島には、豪華フェリーや特殊船などを建造する大きな造船所があります。
なんという造船所でしょうか。

【答え】

三菱重工業下関造船所

【解説】

古くから交通の要衝として知られる下関。
三菱重工業㈱下関造船所はその立地条件を生かして、大正3年船舶修繕を主要業務として操業を開始しました。
江の浦工場では、豪華フェリー、ロールオンロールオフ貨物船をはじめ、ケーブル施設船、海洋研究船などの特殊船や軽合金製高速船を建造。
「海」を舞台に幅広い分野で活躍しています。
大和町工場では、昭和39年以来、甲板機械をはじめ、試験装置、油圧機器、航空機用FRP部品など多彩な製品を製作。
人々の生活を支え、産業活動の基盤となる様々な製品を提供しています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/26 Fri. 10:24 [edit]

category: 下関観光検定

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26

サイ上り 

サイ上り


 それは、平治元年(1159年)十月十五日のこと。
 里から西南にあたる海上に、紫色の雲がたなびき、その海中が黄金色に輝いているのをイナ魚取りの漁師たちが見つけた。
 その話は、またたくうちに里中にひろがり、河野通次をはじめ、多くの人びとが浜辺に集まってきた。

 彼らは、不思議な光を遠くから眺めながらワイワイガヤガヤ、勝手なことをしゃべり合っていたが、その中の一人が、通次の命を受けて、それを調べることにした。男は恐る恐る海に入って、鉾で海中を突いた。すると、そこから明鏡があがって来た。明鏡の裏面には八幡尊像が彫られており、鉾はその左眼を突きさしていた。
 しかし、通次は、これこそ我が守り本尊だ、と大喜びで、近くの小島にお堂を作り、明鏡をまつって『光格殿』と名付けた。

 翌年、即ち永暦元年(1160年)十月十五日、通次は、明鏡引き揚げ一周年を祝い、光格殿の前で奉納舞いを舞った。
 その時、通次は甲冑で身をかため、明鏡引き揚げの様子を再現したが、興奮のあまり、
『さあ、揚がらせ給もうたぁ』
 と、大声で叫んだ。その日から、光格殿の小島を、『舞子島』と呼ぶようになった。

 その後、毎年十月十五日には、明鏡引き揚げの舞いを奉納するのがならわしとなったが、正和二年(1313年)五代目河野通貞は、光格殿を西ノ原に移して、八幡祭礼式を定めると共に、奉納舞いを『サヤガリ神事』と呼ぶことにした。
 その神事というのは、まず、境内の中央に三角形の砂土を盛りあげ、榊を一本立てる。そのまわりを、かみしもをつけた三人の子供が、三角状に横飛びに跳ね、手にした榊を伏し拝む。それが三周したところで、甲冑を着て立ちをはいた武者が登場し、盛土を弓で突き、『さあ、あがった』『さあ、あがった』と叫びながら踊る。
 弓は鉾をあらわし、子供たちは、イナ魚の飛ぶさまであるという。
 やがて武者は、御神体が引き揚げられたことを意味して、喜びの声と共に、『さあ、あがらせ給うたぁ』と、大声に叫び、この儀式は終わる。

 つまり、『サヤガリ』とは、『さあ、あがった。さあ、あがった』という武者の叫びがなまったもので、それがいつのまにか、『サイ上り』に転じたのだろうと。古くから伝えられている。今では、彦島八幡宮秋季大祭の圧巻として広く知られている。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/04/26 Fri. 09:58 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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雨乞い禅師 

雨乞い禅師 (あまごいぜんじ)~美祢市~


 いまからおよそ600年前のことである。

 美祢地方は田植えの季節が近づいたというのに、いっこうに雨のふる気配がなかった。田や畑の作物はつぎつぎと枯れ、飲み水にもことかくありさまであった。
 このころ、人々は、長く続くいくさのため、身も心もすっかり疲れはてていた。そのうえ、この日照り続きである。百姓たちは、空を見上げては、「どうして雨は降らんのじゃろうかのう。」と、なげいていた。

 滝穴(たきあな:秋芳)から十町(約1km)ほどはなれたところに、自住寺(じじゅうじ)というお寺があった。
 このお寺に寿円(じゅえん)というおしょうがいた。ひごろから、苦しいことも楽しいことも村人たちと分かちあっているおしょうは、なんとかして村人たちのなんぎをすくいたいと思っていた。
 寿円おしょうが滝穴にこもったのは、その年の5月1日の夜明けのことであった。
 暗い滝穴にこもると、断食(だんじき)をして、昼も夜も念仏をとなえ続ける行(ぎょう)にはいった。
 3日たち、10日たち、やがて満願(まんがん)の21日めがきた。夜がしらじらと明けた。
 と、みるまに真っ黒な雲が空をおおいはじめ、雷がなりひびき、大粒の雨が大地をたたきはじめた。
 待ちに待った雨だ。
 村人たちは、家を走り出て、天をあおいで雨にうたれていた。
 願いがかなったことを見とどけた寿円おしょうは、しずかに手をあわせると、おりからの大雨でうなりをあげて流れ落ちる竜が淵(りゅうがぶち)の濁流(だくりゅう)の中へ、身を投げた。

 それから数日後、寿円おしょうのなきがらは、滝穴の下流の淵で見つかった。
 村人たちは、悲しみのうちに寿円おしょうをとむらった。
 そして、おしょうの徳を長く人々に伝えるために、火葬したおしょうの骨と灰をねって、寿円おしょうの座像をつくった。
 村人たちは、その座像を自住寺にまつり、いつまでも寿円おしょうの徳をしのんだということだ。
 その後、自住寺は雨乞い寺、寿円おしょうは雨乞い禅師とよばれるようになったという。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより


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Posted on 2019/04/25 Thu. 09:56 [edit]

category: 山口むかし話

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下関観光検定007 

【質問】

下関市彦島にある南風泊市場はフク専門の卸売市場です。
ここでのセリは独特の方法で行います。
さて、なんと呼ばれているセリでしょうか。

【答え】

袋セリ

【解説】

南風泊市場でのセリは全国でも例をみない珍しい「袋セリ」がおこなわれています。
セリ袋の中でセリ人が手を開き、仲卸人が指を握って金額を示すものです。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/25 Thu. 09:15 [edit]

category: 下関観光検定

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