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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

下関観光検定011 

【質問】

彦島と本土を結ぶ二本目の橋として造られた彦島大橋は、昭和50年9月に完成しました。
美しいフォルムを見せるこの橋の工法はディビダーグ工法といわれめものでしたが、別名なんと呼ばれるものでしたでしょうか。

【答え】

やじろべえ工法

【解説】

彦島大橋は、山口県が施工、昭和50年9月に完成しました。
彦島と本土を結ぶ二本目の橋として建設されたものです。
中央径間は236mで当時世界最長のもので、建設費は17億円、工法はディビダーグ工法(別名やじろべえ工法)といわれるものです。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/29 Mon. 09:49 [edit]

category: 下関観光検定

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身代わり名号 

身代わり名号(みょうごう)~宇部市~


 いまから五百年ぐらいむかしの話である。
 長門の国(山口県)須恵の黒石(すえのくろいし:宇部市厚南区黒石)に蓮光(れんこう)というおぼうさんがいた。
 このおぼうさんは、もとは武将で、名前を伊東順光(いとうとしみつ)といった。
 順光は室町幕府の六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の家来で、武芸にすぐれ、将軍にもしんらいされていた。

 ある年、順光に、悲しいできごとがつぎつぎと起こった。
 妻と子があいついで病死したかと思うと、こんどは将軍義教が家来に殺されるという大事件が起きたのだ。
 妻と子をなくした悲しみも大きかったが、主君が殺されたというおどろきもたいへんなものであった。すぐさま味方の武将と力を合わせてうら切り者をうちはたし、主君のかたきをとった。
 さきにいとしい妻と子をなくし、今また主君と別れてしまった順光は、生きていくはりあいをうしなって、とうとう仏の道にはいるけっしんをした。

 順光から話をきいた本願寺の蓮如上人(れんにょじょうにん)は、順光の心にふかくうたれ、弟子にむかえた。順光は、上人のもとでむちゅうになって仏の道を学んだ。
 何年もの修行をつんだあと、上人に、
「蓮光坊、おまえは西国(さいこく:今の九州地方)へ行って、仏教を広めてきなさい。」
 と、言われた。

 そこで蓮光は、上人からいただいた六字の名号(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字を書いたもの)と木仏をもって、ひとり九州へ旅立った。
 蓮光は、周防山口の湯田をへて、小郡から船にのった。船には、黒石の番所の富岡七兵衛(とみおかしちべえ)という役人がのっていた。蓮光と七兵衛は、半紙をしているうちにうちとけ、はじめから兄弟のように親しくなった。七兵衛は、黒石に住むようにねっしんに蓮光をくどいた。蓮光は、九州行きに心をのこしながらも、黒石に住むことにした。

 黒石の村に住むようになってから、田や畑であせを流している百姓(ひゃくしょう)や道で会う人たちに、蓮光はわけへだてなく声をかけ、元気づけた。人々の元気なすがたを見ては喜び、やまいに苦しむ人を見ては同情をしはげます毎日をおくった。

 そのうち、黒石の人々は、
「法師さま(ほうしさま:ぼうさん)の顔は、わたしたちとはどこかちがうようじゃ。」
「法師さまのおことばは、ほんとうにありがたいのう。生きかえるようじゃ。」
 と、蓮光を心からうやまうようになっていた。
 蓮光もまた、人々のかざりけのないあたたかさに心をひかれ、この村に住むことがほんとうに楽しくなっていった。

 その頃の須恵の黒石は、厚東川流域(りゅういき)のよい港だったので人の出入りも多く、蓮光のうわさは口から口へと広がっていった。蓮光をしたう人々はふえるばかりであった。
 そんな蓮光をおもしろく思っていない者がいた。土地の僧たちだ。僧たちは、黒石をおさめる大内の役人に、
「蓮光は、もともとは伊東順光という武将で、ひそかに大内のようすをさぐっているけしからん者です。」
「蓮光の教えはまちがっています。」
 と、ありもしないことをならべたてた。

 そのため蓮光は大内氏の役人にとらえられた。
 役人は、いつも罪人をさばくときのように、ろくにしらべもしなかった。

 蓮光は、
「わたしが仏の道を歩んでまいりましたのは、実は・・・・・。」
 と、心のうちをあかそうとしても、役人はそんなことは聞きたくもないというふうに、
「民びとの個々をばどわかしたお前の罪は、たいへん重い。」
 と、打ち首の刑を言いわたした。

 横州の浜で首をきられることになった蓮光は、その日から、牢の中でひとりしずかに念仏をとなえるようになった。

 いよいよその日がやってきた。

 刑場にむかうとちゅう、蓮光は、上人からいただいた名号を、役人の目をぬすんで中野(厚南区)の土地にうめた。
 刑場についた蓮光は、これから刑をうける人とも思えないほどおちつきはらっていた。目をとじ、手をひざの上にのせて、刑をまっていた。

 やがて刑の時こくになった。

 役人は、しずかに刀をとって、蓮光のうしろにまわった。
「えいっ。」
 役人は刀をふりおろした。
 刑場をぐるりとかこんで見守っていた村人たちは、顔をおおい、手をあわせた。

 念仏をとなえる村人たちの声がしずかにおこった。
 が、それはすぐにおどろきのどよめきに変わった。

 蓮光が、さっきと同じままの姿ですわってていたのだ。
 もちろん首はそのままに。

 首切役人は、青い顔をして、
「これはいったいどうしたというのだ。」
 と、ふるえる手に力を入れ、また刀をふるかぶった。

 が、その時だった。
「待てえっ、待てえっ。」
 大声でさけびながら、早馬が刑場にかけこんできた。城からの急ぎの使いだ。
「その刑は待たれい。法師さまには罪のないことがわかった。この土地での布教はゆるされたぞ。」
 使いの声は、山やまにこだました。
 役人はあわてて刀をおさめた。

 ゆるされた蓮光は、走るようにして中野にむかった。うめておいた名号をほりだすためだ。
 蓮光は、うめたあたりにつくと、急いで手でほりかえした。
「あっ。」
 蓮光は息をのんだ。手にとった名号はモ南無モの二字のところでふたつに切れ、真っ赤に染まっていた。

 話をつたえ聞いた村人たちは、
「なんでも、法師さまは、刀さえよせつけないりっぱな方だそうな。」
「いや、もっとふしぎなことは、名号のほうじゃ。あの名号こそ、法師さまのみがわりになられた、たっとい(尊い)ものだそうな。」
 うわさは国じゅうにひろがった。それからというもの、あちらこちらから蓮光をしたってやってくる人がたえなかったという。

 そののち、名号を埋めたあたりにお寺を建て、蓮光法師をむかえいれた。それが今の蓮光寺である。
 名号を埋めたといわれるところは名号塚といわれている。
 身代わりの名号は、今も寺の宝として、たいせつにしまわれている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/04/28 Sun. 10:55 [edit]

category: 山口むかし話

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28

下関観光検定010 

【質問】

ウニの加工品の主力となっているアルコール漬けの瓶詰を考案したのは、下関が最初でした。
そのいわれは明治初期に六連島のあるお寺にかかわるものです。
さて、このお寺は、何というお寺でしょうか。

【答え】

西教寺

【解説】

ウニの加工品の主力となっているアルコール漬けの瓶詰を考案したのは、下関が最初でした。
そのいわれは、明治初期六連島に灯台を設置したのにともない、外国船の出入りが増加し、外国人パイロットがしばしば六連島の西教寺を訪ね歓談に興じるようになり、その席で小鉢の生ウニに誤ってお酒をこぼし、それを食べた和尚が大変おいしかったので、島のウニ加工業者に試作をさせて完成したというものです。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/28 Sun. 10:39 [edit]

category: 下関観光検定

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下関観光検定083 

【質問】

赤間神宮には平家一門の肖像画があります。
五名の男性は黒色の衣裳を着ていますが、一名だけ異なる色の衣裳を着ています。
その一名の名前と衣裳の色は、なんですか。

【答え】

平資盛・山鳩色

【解説】

平家一門の肖像画は、もとは安徳天皇の御影堂の内部にありました。
室町時代末の作といわれます。
堂の中心に安置された安徳天皇の木彫像を守護するように配されていました。
いずれも安徳天皇を最後まで供奉していた人たちで、廓御方(清盛娘)、大納言典侍(重衛妻)、師典侍(時忠妻)、治部卿局(知盛妻)の女房と、知盛、教盛、経盛、資盛、教経、信基の武将です。
男性像五名は、いずれも黒色の強装束の束帯姿、女性像は十二単です。
平資盛は当時の役職が蔵人頭で、天皇陛下の常服を下賜される名誉な立場なので、山鳩色の束帯姿で描かれています。


関門海峡歴史文化検定問題集より 下関商工会議所発行
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Posted on 2019/04/27 Sat. 10:20 [edit]

category: 下関観光検定

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長者の森 

長者の森


 むかしむかし、ある山のふもとに二軒の家がありました。
 二軒の家は、どちらも貧しい炭焼きの家でした。
 ある日の事、一軒の家には男の子が、もう一軒の家には女の子が生まれました。
 そして二人の父親は、子供たちが大きくなったら結婚させる約束をしました。

 ところがこの女の子には、山の福の神がついていました。
 女の子が山へ行くと、ただの木の葉や石ころまで、みんなお金にかわってしまうのです。
 そんなわけで、女の子の家はお金持ちになっていきました。
 しかし男の子の家の方は、あいかわらず貧乏なままでした。
 やがて二人の子供が年頃になったころ、男の子の父親はむかしの約束を思い出して、息子を婿にしてくれと女の子の家に申し出ました。
 女の子の父親は約束を守り、二人は夫婦になりました。
 福の神のおかげで家はますます豊かになっていき、長者屋敷といわれる屋敷には、蔵がいくつもいくつも建ち並びました。

 さてそうなると、主人にはおごりが出てきました。
 遊びに出て夜遅く戻っては、冷めてしまった料理を見て、
「こんな冷たいものを、食べられるか!」
と、妻をどなりつけるのです。
 そこで妻は考えて、ある夜、熱いそばがきを出しました。
 しかし、ぜいたくに慣れた主人は、
「なんだ、こんなまずい物!」
と、言うと、足で蹴り飛ばしたのです。
 すると、ザワザワという音と共に、蔵からたくさんの穀象虫(こくぞうむし)と白い蛾(が)が出てきました。
 それは主人のふるまいに怒った福の神が、米を全部虫や蛾にしてしまい、自分も立ち去って行く姿だったのです。

 それからは主人は何をしても失敗ばかりで、やがて広い屋敷もなくなり、一家は行方知れずになってしまいました。
 それから月日が流れて、かつての長者屋敷は森になりました。
 人々はそれを「長者の森」と呼び、ぜいたくやおごった心を持たぬようにとの、戒めにしたということです。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
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Posted on 2019/04/27 Sat. 09:29 [edit]

category: 山口むかし話

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