02 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島の年表18 

彦島の年表18

昭和五十五年 1980年

巌流島に憩いの広場を開設。


昭和五十六年 1981年

西山木材港の建設起工。


昭和五十七年 1982年

彦島ー大和町間の水門橋が全面改修。

向井小学校、向井町に開校。


昭和六十一年 1986年

ヒヨドリ彦島に大挙襲来農作物に被害。

福浦の日東合板が事業閉鎖。


昭和六十三年 1988年

林兼造船、事業不振のため廃業。

関彦橋、全面架け替え工事完了。

西山埠頭完成。


平成二年 1990年

彦島図書館、江の浦町に開設。


平成八年 1996年

巌流島が自然や歴史的環境に配慮した海岸整備をする「エココースト事業」地区として国から指定される。


平成十一年 1999年

下関第一高校、中等教育学校に内定、平成16年4月開校予定。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 10:40 [edit]

category: 彦島の年表

TB: --    CM: 0

29

伏拝の峰 

伏拝の峰(ふくはいのみね) 下関市豊田、菊川


 下関市の豊田、菊川にまたがっている山がある。
 華山(げざん:高さ750m)とよばれる美しいかたちをした山である。
 ずっと昔は、山伏たちが、修行をしたところだともいわれている。

 この山の頂上は、ふたつに分かれていて、東の方を岩屋の峰(いわやのみね)といい、西の方を西の嶽(にしのだけ)、または伏拝の峰(ふくはいのみね)ともいっている。
 その西の嶽には、嶽の宮(だけのみや)という小さなほこらがある。
 このほこらは、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の墓のあとだともいわれている。

 仲哀天皇は、クマソ(九州のごうぞく)との戦いにやぶれ貴場(きば)までにげてきて、そこで里の人たちのもてなしを受けたのち、歌野(うたの:宇多野とも書く)というところまで来られた。
 その時、先頭を歩いていた武内宿禰(たけうちのすくね)が古びた一軒屋の軒下に、若い女が立っているのを見つけ、
「お前は、この土地の者か。」とたずねた。

 女は、戦の姿に身をかためた宿禰におどろいたのか、何も答えなかった。
 しかし、宿禰が、
「あとから来る者たちへ、われわれのことを言うではないぞ。口がさけても言うではないぞ。よいか。」
 と言うと、女は、
「うん。」
 とだけ言って、うなずいた。

 それから天皇の一行は、華山の方へと急いだ。

 それから小半時(こはんとき:約1時間)もたったころ、みるからに荒々しい男たちが馬に乗ってやってきた。クマソの軍勢であった。
 その先頭の男が、さきほどの若い女を見つけて馬をとめ、
「女、このあたりに武者(むしゃ)は来なかったか。」
 とたずねた。
 しかし、女はさっきの約束を守ってだまっていた。二度、三度と聞かれたが、それでも女は返事をしなかった。
 すると、クマソの大将は、この女は何かを知っていると思ったのか、馬から飛び降りると、刀をすらりと抜いて、ぴたりと女の顔に押し当てた。
「言わぬか。どこへ行った。言わぬとお前の首をはねるぞ。」
 大将は、刀で女のほおをたたいた。

 女はすっかりこわくなって、とうとう小さなあごを左へ2、3回ふってみせた。
 口さえきかなければ、先ほどの約束をやぶったことにはならないと思ったのだ。
「あっちじゃと言っとるぞ。それッ、追え!」
 大将は、若い女を突き飛ばすと、馬に飛び乗り、左の方角に追いかけていった。

 そして、クマソの軍勢は仲哀天皇の軍に追いつき、いっせいに矢をはなち、刀をふるってせめかかった。
 天皇の一行も勇敢に戦ったが、とうとう力つき、天皇は矢にあたってなくなってしまった。

 天皇の死を知ったお妃(おきさき)の神宮皇后(じんぐうこうごう)は、天皇が亡くなったことをみんなにかくして、こっそりと豊浦の北三里の山中に埋葬させ、天地(あまつち)の神々をまつり、戦いに勝てるよう祈った。
 
 そして、クマソを討たれた。

 神宮皇后が、天皇の冥福(めいふく)とクマソ討伐の成功を祈ったことから、西の嶽を伏拝の峰とよぶようになったとつたえられている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 09:41 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

29

辰岩伝説 

~辰岩伝説~


 老の山公園や第一高校へ上る途中の右手に真新しい市営住宅が建っていますが(林兼造船従業員アパート跡)、この東端の一段高いところに「辰岩」と呼ばれる岩があります。

 辰岩のあるこの森には800年以上も前、平家の落人が隠れ住んでいました。この男は平家再興の望みもむなしく、辰の年の3月24日に割腹自殺してしまったということです。それ以降毎月24日には、落人の隠れ住んでいた森から大きな竜が出てきて海峡に向かって大きな声でほえるので、この村の人たちは24日が来ることを非常におそれていました。

 ある年、偉いお坊さんがその話を聞いて竜を鎮めるために彦島にやってきました。そして森に入り、三日三晩お経を唱えて落人の魂を鎮めたところ、竜は現れなくなりました。村人は、平家落人の魂を弔うために供養塔を森の中に立てることにして、森に入ってみると、落人のすまいがあった場所にはどこから運んできたのか大きな岩がたてられていました。村人は不思議に思いましたが、きっとこれは落人の墓であろうと考え、その後、酒や花を供えて平家落人の供養を続けました。この頃から、この岩のことを「辰岩」と呼ぶようになったそうです。

 その後、いつの間にか、辰岩の下には平家の財宝が埋まっており、ここに住んでいた落人はそれを守っていたのだ、という噂が広まりました。その噂を聞きつけて、多くの欲深い男が夜中に辰岩にやってきてそれを掘り出そうとしました。しかし、財宝を掘ろうとした物は皆、気が狂って「竜が来た」「竜が来た」と叫ぶばかりでした。そう言うことが続いて、落人の命日に花を供える以外、誰も辰岩に近づかなくなりました。

 ある時、小倉の商人、嶋屋与八という人物が財宝の真偽を確かめようとやって来ました。与八は、これまでの盗掘者が、夜中に一人でやって来てこっそりと掘り出そうとしたから、竜の幻を見て気が狂ってしまったのだと考え、村人を辰岩のまわりに集め、大勢が見ている前で財宝を掘り出すことにしました。

 与八が大勢の村人の前で鍬を振り下ろした途端、鍬を持った両手を高々と振り上げ、大声を上げながら気が狂ったように辰岩のまわりを走り回り始めました。やがて、持っていた鍬が自分の頭に落ちて与八は死んでしまいました。村人は、与八の墓を建て、やがて、誰も辰岩のことを口にしなくなり、忘れ去られていきました。

 郷土史家富田義弘氏の「ひこしま昔ばなし」によると、戦前は辰岩の森には多くの五輪塔や地蔵尊が立っていたそうですが、現在は山の所々に、辰岩と同じ岩質の石が転がっている程度で特に何も見つけることが出来ません。また、同書には「与八と書かれた墓石などもあったが、戦後ほとんどなくなってしまった」と記載されていますが、与八の墓石は、現在辰岩のすぐ脇に立っています。


WEBサイト「日子の島」より転載

関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 09:39 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

29