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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島の年表17 

彦島の年表17

昭和三十六年 1961年

老の山公園開設。


昭和三十七年 1962年

老の山に第一高校が開校。


昭和四十一年 1966年

福浦湾に木材港・貯木場完工。


昭和四十六年 1971年

彦島し尿処理場が操業開始。

彦島支所・公民館完成。


昭和四十九年 1974年

玄洋中学校吹奏楽部、全国優勝。

地方卸売市場、南風泊市場開設。


昭和五十年 1975年

彦島有料道路・彦島大橋完成。


昭和五十二年 1977年

彦島運動場が完成。


昭和五十五年 1980年

玄洋中学校、本村町に新築移転。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/28 Thu. 10:52 [edit]

category: 彦島の年表

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立石稲荷の大石 

立石稲荷の大石


壇の浦立石稲荷神社の下、国道をへだてた海の中に大きな石があります。

形が帽子ににているため烏帽子岩ともいい、この石は立石稲荷のご神体ともいわれており、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。


ところが、いまから六十五年前、この大石がはげしい潮の流れのため海中に倒れたことがあります。
地元の人たちは、もとにもどそうと思いましたが、あまり大きな石だったのでどうすることもできず、そのままにしておきました。

ある日、町内の老漁夫が、倒れている大石に目をやると、何か小さなものが岩にのぼっています。近寄ってよく見るとそれは狐でした。狐がまさか泳ぎにきたわけでもあるまいに、と老漁夫は別に気にもかけずにおりました。
すると、あくる日もまた狐がのぼっているのです。そしてまたその次の日も…

「うむ、これはおかしいわい。狐が何かものいいたげそうにしているが…」
と思いましたが、“さわらぬかみにたたりなし”ということもある、知らぬふりをしておこうと、狐のことは誰にも話さずにいました。

ところが、大石が海中に倒れてから十日くらいたって、壇の浦の町内にいろいろ悪いことが起こりました。
町内にたびたび火災が起こったり、風が続いて漁船が転覆するのです。それがあまりにもたびたび重なるので、しだいに町民たちも不安になって、毎日集まっては相談しましたが、なかなか名案が浮かびません。

きょうも海は荒れていました。老漁夫はしかたなしに網の手入れをしていましたが、そのうちに眠くなりついウトウトしていますと、夢枕にあのいつかの狐が現われ
「みんなして早くあの大石をおこせ、さもないと悪いことはいつまでも続くであろう」
というこわいおつげがありました。

老漁夫は、さっそく皆を集め相談した結果、すぐさま作業にとりかかることにしました。
十何人かの人夫がやとわれ、あの大石はやっとのことでおきました。
しかし、せっかくおこした大石もあくる朝には、また海中に倒れている、そんなことが何度も続いたので町内の若者たちは、
「あのおつげはうそだったんだ」
「いっそ石を粉々に打ち砕いてしまえ」
「うそつきじじいめ」
というやけっぱちな言葉をはきはじめました。

町内の人たちも老漁夫をうたがいの目でみるようになりました。
作業は中止されました。また火事は起こり、船は遭難し、けが人も出ました。

老漁夫は毎日ゆうつでしかたありません。みんなからのけものにされ、一人でしょんぼりと漁具の手入れをして暮らしました。
「あのおつげはうそだったんだろうか。狐も本当に見たし、夢もみたのだが…。いやまてよ、あのおつげは…」
老人は、ゆっくりあのおつげを思い出しました。
「みんなして早く… みんなして…」
「あっ、そうか、みんなして、町民全部が作業にくわわらなくてはいけないのだ、よそから人夫をやとったので、それで神様がおいかりになったのだ」
と、老漁夫は、町内の一軒一軒をまわり、真剣に説得して歩きました。

町民たちも、またこのじじいかと思いましたが、あまり悪いことが続いているので、
「よし、じいさん、こんど失敗したら、この町から追い出すよ」
と、約束させ、それから町内のとしよりも若いものも、女こどもまでが総がかりで石おこしの作業にとりかかりました。

大石はたちました。しかしあくる日はどうなっているのでしょう。
老漁夫は一晩中、心配でねむれませんでした。

やがて、めかり神社のうしから真赤な太陽が顔をだすころ、そろーと戸のすきまからのぞいて見ると、石はちゃんと立っているではありませんか。
「石が立ってるぞー、石がー」
と老漁夫は喜びのあまり、大声をだして町内中に知らせて走り回りました。
やがて町内のもの全員が、大石のまわりに集まり
「やっぱし、わしらの手でおこしたのがよかったんじゃ」
と口々に喜び合い、大石にしめなわを飾ったり、お酒を供えたりしてお祭りをしました。

それからというもの、火事はなくなり、あらしもおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。
老漁夫はもちろん長生きをして、町内のものからたいせつにされたということです。


(注)
大石にしめなわをはる「しめなわ祭」の行事は昭和26年からはじめられ、毎年12月の上旬に行われています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/28 Thu. 10:50 [edit]

category: 下関の民話

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眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/03/28 Thu. 10:15 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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