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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島の年表5 

彦島の年表5

天正九年 1581年

六連島に西教寺建立される。


文禄元年 1592年

豊臣秀吉御座船日本丸、関門海峡の瀬で遭難。
彦島より小舟十二隻をもって援助。
秀吉報奨として金十貫を下賜する。


慶長元年 1596年

豊前国小倉城主、細川忠興家老有吉主膳ら二十名、検地のため来島。


慶長七年 1603年

毛利秀元長府入府。
毛利勘解由ほか九名来島。


慶長十七年 1612

宮本武蔵、佐々木小次郎、舟島において試合。
小次郎敗れる。


元和六年 1620年

長府藩主毛利秀元、小倉藩主細川忠利と議して長府領の文字ケ関と小倉領の彦島とを交換し、彦島の名を引島と改める。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/16 Sat. 12:59 [edit]

category: 彦島の年表

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霊馬神 

霊馬神


豊浦郡豊浦町川棚に「クスの森」とも「霊馬神」とも呼ばれる一本のクスの木がある。
周囲9.5メートル、高さ21メートル、18本の枝を四方に伸ばし、その最も長いものは27メートルに達する。
国の天然記念物指定を受けている巨木。
一本だが遠目にはまるで森のように見えることから「クスの森」と呼ばれた。
そして「霊馬神」の名を生んだのが一頭の名馬の悲しい物語である。


いまから四百数十年前の天文年間のころ、川棚近くの室津岬に雲雀毛の子馬が生まれた。
しかし、母馬はまもなく死に、子馬は毎日母を求め続けていたころのこと。
ある日岬の先端でいなないた子馬の耳に、沖合い約5キロの蓋井島から、かすかに母馬に似たいななきが返ってきた。
「あっ、お母さんだ」
喜んだ子馬は思わず海に飛び込み、何度も浮き沈みしながら母恋しさの一念に支えられて必死で泳いだ。
しかし、ようやくたどりついた島には母馬の姿はなかった。
悲しみの声をあげる子馬の耳に、再び岬の方から母馬に似た声が響いた。

今度こそとこだまを追って幾度となく海を渡り続けるうち、子馬はいつしかたくましい若駒に育ち、雲雀毛の名馬として知られるようになった。
名馬は青山城主黒井判官(一説には大内氏)の乗馬となるが、戦いに傷つき倒れる。
それを葬ったのが、川棚のクスの根元という。

クスの根に埋められた名馬は、その後霊馬となって夜な夜な現れたとも伝わる。
川棚の下小野地区には、霊馬を鎮めるために始まった「クスの木祭り」がいまも続けられている。
祭日は3月28日。
毎年、人々は名馬にあやかる気持ちも込め、それぞれの馬や牛を連れて集まり、木の根元で厄払い祈願をした。
しかし、かつては耕作や運搬の主役として活躍した馬たちの姿も、時代の流れの中で見られなくなった。
いま、祭りは人間たちだけで祝われている。
そして、伝説の名馬を育てた豊浦町に、現在飼われている馬はわずか三頭。
車が入れない山から木材を運び出す荷馬車に余命をつないでいる。
町から完全に姿を消す日も近いと聞いた。


防長紀行第三巻 民話の里 マツノ書店刊より
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Posted on 2019/03/16 Sat. 12:45 [edit]

category: 下関の民話

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与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

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Posted on 2019/03/16 Sat. 12:34 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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