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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

勝谷の河童 

勝谷の河童


むかし、勝山には川、沼、池などがいたるところにあり、そこに河童がすんでいました。

ある夏のこと、勝谷の吾作という百姓が砂子多川で、牛に行水をさせていました。
ところが、牛はなにか落ち着かない様子で、さかんに尻尾を振っているので、吾作が牛に近づいてみますと、牛の“シリ”に河童がくっついていました。
噂に聞いたいたずら河童め、よし、こらしめてやれと吾作は、むんずと河童の首筋をつかみ、片手で頭の皿に入っている水をかきだしました。
最初は随分暴れていた河童も、さすがにぐったりとなったところで手足を縛り納屋へ閉じ込めました。

あまりの苦しさに河童は、
「水をくれ、水を、苦しくて死にそうだ。もう二度と悪いことをしないから、助けてください…」
吾作は、もうぼつぼつ助けてやってもいいなと思い、
「よし、許してやろう。そのかわり、田んぼの草をきれいにとること」
と、河童に命じました。

吾作は頭の皿に水を入れてやり、首に縄を結んで畦の上でじっと見張りました。
河童はすばらしい速さで、草をとり始めました。河童が草を取ったあとは、不思議なことに二度と草ははえなかったといいます。

やがて許しを得た河童は、どこからか大石を運んできて、吾作に、
「いままで人間さまに迷惑をかけてきましたが、この石が土になるまで、河童一族は、この土地から姿を消し、一切いたずらはしません」
といって姿を消しました。

その後、河童は勝山から姿を消し、今日まで人間の前に姿を現していません。


(注)
河童は想像上の動物で、本当はいません。
しかし、なんとなくいたずらはするが親しみのある動物です。
よく子どものころ、川や池で遊ぶとき、ナス、キュウリ、トマトなど水に浮いているものには手を出してはいけない。河童が化けているので“シリ”から手を差し込んで、人間の“キモ”をとるからと、よく言われたものです。
そしてこれを防ぐためには、香の煙で体をきよめるか、仏前に供えたご飯を食べていくとよいとも聞かされました。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/14 Thu. 14:19 [edit]

category: 下関の民話

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彦島の年表3 

彦島の年表3

文治二年 1186年

植田治部之進、岡野将監、百合野民部らが平家の守り本尊阿弥陀・観音・薬師三尊像を奉じて入島する。


建久二年 1191年

植田・岡野・百合野が持ち来る三尊像を里の近くに祀り、観音堂と号する。


建保二年 1214年

和田義信入島。


建保三年 1215年

平重衛の郎党富田刑部之輔、登根金吾が入島する。


健治二年 1276年

京都知恩寺学僧、平重衛子孫西楽法師来島、後山に西楽庵を建て島の本寺とする。
これより宗旨を天台宗より浄土宗に改宗する。


弘安元年 1278年

貴布祢神社(中の宮)が老の脇ノ谷に建立される。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/14 Thu. 14:17 [edit]

category: 彦島の年表

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租借(そしゃく) 

租借(そしゃく)


 むかし、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、四つの連合艦隊が、馬関海峡を襲うたことがある。
 その前の年、長州さまが、攘夷じゃ、攘夷じゃ、と外国船を砲撃したもんじゃけ、その報復で、やって来たんじゃ。
 元治元年(1864年)八月五日のことで艦隊は軍艦十六隻と、商船一隻、それが二手に分かれ壇ノ浦、前田と長府のお城山を目がけて砲撃した。
 そして、半日もせんうちに前田に上陸を果たして、長州さまは、さんざんな目に遭われてしもうた。
 その上、七日には、彦島を襲撃して弟子待と山床の二砲台を占領したけえ、もう攘夷も何もあつたもんじゃない。とうとう、「講和を結ぼう」ちゅうことになった。

 この時の正使が高杉さまで、家老、宍戸刑馬と変名して、いかにも藩の重臣ちゅうような格好で艦隊に乗り込んで行かれた。副使の渡辺内蔵太には小具足をつけさせ、高杉さまは陣羽織に立烏帽子という芝居がかったいでたちじゃったちゅうから面白い。
 日本人にとっちゃあ、有史以来はじめての敗け戦じゃったが、そんなことはおくびにも出さず、堂々と胸を張って和議に臨んだ高杉さまちゅうお人は、やっぱり天下の傑物と言えるじゃろう。

 さて、休戦の和議は、八日、十日、そして十四日と三回にわたり持たれたが、高杉さまは八日と十四日の二回に出席された。
 そして、四カ国の戦勝者に少しも臆せず、堂々とわたり合って五項目の条約に調印はしたが、賠償金三百万ドルを幕府に支払わせてしまう、ちゅうように、長州さまには一文も損失の無いよう話を進められたから、さすがじゃ。

 この時、イギリス提督クーパーが、さりげない口調で、こう切り出した。

「馬関海峡の西に浮かぶ彦島を租借したい」

 ところが、高杉さまをはじめ、伊藤公、井上公も、「租借」ちゅうのが、何のことやら解らん。そこで、いろいろ質問してみると、彦島を占領する意図のようでもあり、また、無償で貸してほしいちゅうようでもあるので、高杉さまが、真っ赤になって怒った。

「なにっ、租借だと。怪しからん。実に怪しからん。日本の国を何と心得て居る」

 艦内に鳴り響く高杉さまの大音声にクーパー提督は青い目をクリクリ動かしたが、そんな表情には見むきもせんで、つづけて、

「彦島は毛利藩領とはなっているが、大名の領土というものは、天子の土地をお預かりしているだけで、勝手に処置することなど出来よう筈がない。それを、貸せとか、分譲せよとか実に怪しからん」

 と怒鳴り散らし、揚げ句の果てには日本の生い立ちについて、とうとうと述べたちゅうことじゃ。

「そもそも我が日本の国は高天原朝廷七代にまします国常立命にはじまり…」

 タカマガハラ、クニトコタチノミコト、イザナギ、イザナミの二柱、アメノウキハシ、アメノサカホコ…、こんなむつかしい神々の名前が次から次へと出て来るもんじゃけえ通訳の伊藤公とアーネスト・サトウが面食ろうてしまわれた。
 そこでイギリスのクーパー提督も苦笑いして、租借の件は取り下げたんじゃが、もしあの時、高杉さまが正使でなかったら、彦島は香港の対岸にある九竜市のように、イギリスの植民地にされてしもうたことじゃろう。

 何しろ高杉さまは、その前に上海に渡ってイギリス人の横暴振りを見ており、アヘンを売り込んで戦費を作り、香港、広東、上海、南京と侵略して行った常套手段も心得ちょったので、租借、と聞いただけで、怒り心頭に発したことじゃったろう。

 考えても見い。

 この海峡のど真ん中に、九十九年間もの永い間、イギリスの植民地が生まれちょったら、今の日本は有り得んじゃろう。
 高杉さまの大勇断は、彦島だけじゃあのうて、日本にとっても大恩人ちゅうことが出来るいゃのう。

 ほんに、えんにょうごっぽう有りがたいお人じゃ、高杉さまは。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
(注)
 高杉さまというのは、高杉晋作。井上公は井上馨、伊藤公は伊藤博文。
 この租借の話については、一般には高杉晋作が、断固これを蹴った、と言われてるが、地元では、その他に「伊藤さんが、高杉さんに進言して彦島占領を頑強に拒んだ」という説と、「井上公が進言して…」という説などがある。

 もともとこの話は、講和条約から四十数年を経て、伊藤博文が関門を通過する船の上で、彦島を眺めながら懐かしそうに語ったことから知られはじめたことになっている。
 その為「彦島租借」について疑いを持っている人びとも少なくない。
 例えば、高杉晋作伝の集大成「東行高杉晋作」でさえ、「あえて伊藤の言を取り上げて事実とするならば」と書いている。
 しかし、伊藤発言の前年に発行された「硯海の楽土」という本にも、この租借については「割譲」という言葉で書かれてあり、また中原邦平という人は「東行先生略伝」に「フランス人の書いた日本海岸の役という本に」租借の件が出ていると記している。
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Posted on 2019/03/14 Thu. 13:47 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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