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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島の年表2 

彦島の年表2

養老四年 720年

日本書紀が成立。
仲哀天皇の条に「筑紫の伊都県主の祖五十迹手、穴戸の引島で奉迎する」とあり。
引島(彦島)没利島(六連島)の地が初めて現れる。


天長七年 830年

長門国引島を勅旨島とする。
現在の弟子待に勅旨田を置く。


保元二年 1157年

保元の乱に敗れた伊予勝山の城主河野道国の嫡子通次、園田一学、二見左京、小山甚六、片山藤蔵、柴崎甚平ら彦島に落ちてくる。


平治元年 1159年

河野通次、光格殿(のちの彦島八幡宮)を創建する。


寿永元年 1182年

安楽寺(慶安二年専立寺と改称)が創建される。


寿永三年 1184年

新中納言平知盛が引島に築城、本営とする。
能登守教経十七騎を率いて入島する。


寿永四年 1185年

平宗盛、敗走し彦島本営に合流する。


源氏平氏の両軍、壇之浦に戦い平氏敗滅する。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/13 Wed. 14:13 [edit]

category: 彦島の年表

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五年神 

五年神


むかし、内日の赤田代に、顔の醜い山の神が住んでいました。

山の神は、あまり自分の顔が醜いのでひっそりと祠に閉じこもり、ふさぎこんでいました。
大体山の神は、秋の収穫が終わると、近くの山にいて山を守り、春になると里に出て田の神となるのですが、赤田代の山の神は恥ずかしがって、いっこうに姿をあらわしませんでした。

そのため、村の田んぼは荒れ、山の木も少しも大きくならず、村人達はたいへん困ってしまいました。
どうかして、山の神様に里におりてもらい、山や田んぼを守ってもらわねば、この村は今に全滅すると、村人達はたびたび話し合いました。
「山の神様は、きっとお腹がすいているのだ、おいしいものを供えてみよう」
「みんなで歌ったり踊ったりしておなぐさめしよう」
ということになり、さっそく川で魚をとり、おいしいだんごを作ったりして、山の神のひそむ祠に供えました。
山の神様は、女性がきらいです。そこで若い男たちが着飾って賑やかに踊っているとき、急に地鳴りがしたかと思うと、山全体が揺れ動き、大木が次々に折れて、村人たちの頭に落ちてきました。

びっくりした村人たちは、一目散で里に逃げ帰り、
「山の神が怒った、山の神が怒った、みんな早く逃げろ」
と、みんなは、あわてふためいてめぼしい家財道具を担ぎ、隣の村へ避難しました。

その村には、村で一番の物知りの老婆がいました。みんなは、その老婆のところへいき、
「おばあ、どうしたもんだろうのう、お前さまに早くたずねりゃよかったんじゃが…、いい智恵はましもんかのう」
と、相談しました。ところが老婆は、とたんにクックッと笑い出し、
「それは、きっときれいな魚を供えたり、女の着物を着て踊ったんで、気を悪くされたんじゃ、気の弱い神様じゃな…。そしたら、山の神よりもっときりょうの悪いドロバエを供えてみなさい、きっとおよろこびになるから…」

村人達は、物知りばあさんの言うことを信じて、また山の神の住む森に入りました。
そして、恐る恐るドロバエを供えて…
しばらく待っていましたが、今度は前のように山が揺れるようなことはありません。
村人達はほっとして、では、おまつりをこれから何年ごとに行なったらいいでしょうと、伺ったところ、耳の遠い山の神は、
「なに、五年ごとだと…」
と聞き返され、逆らっては恐ろしいので、村人達は、
「ハイ、それでは五年ごとにおまつりします」
といって、大急ぎで山を降りました。

それからは、五年目ごとの十一月初申の日に、山の神のおまつりをするようになったといいます。


(注)
五年目ごとにおまつりをする家が決まっていて、それは、上田勇、上田隆士、稗田勉、福田一男さんら四戸の祖先が代々受け継いでいます。
神の森は、村のすぐ裏にあり、清い場所としてあがめられています。
森の中央にあるトリモチの巨木がご神体で、木の根元には一個の壷が置かれており、石の蓋がしてあります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/13 Wed. 13:24 [edit]

category: 下関の民話

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台場ヶ鼻 

台場ヶ鼻


 夷狄が来た。
 一カ国だけじゃ適わんと見たか、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと、四つの国が誘い合うてやって来た。

 こうなりゃあ、長州さまだけにおすがりしちょく訳にゃあいかん。
 百姓も漁師も、みんな率先してお手伝いすることにしたけぇ、彦島の農兵隊は、みるみるうちに大人数になった。
 多い時にゃ、五百人は居ったそうじゃが、弟子待の萩野隊を助けて、よう活躍したちゅうことが、昔から伝えられちょる。

 夷狄が来たなぁ元治元年(1864年)の八月のことやが、亀山、壇ノ浦、前田、城山の、あちこちの砲台が外艦めがけて、どんどんばりばり撃ちはじめた。
 彦島も負けちゃあ居れん。
 山床鼻、弟子待、石ヶ原なんかの砲台も、関に呼応して、やんくも撃って撃ちまくった。おとなしかったのは、西山やら竹ノ子島の連中で、何せ、外艦が見えん所に居るけえ、どねえもこねえもならん。
 遠くで鳴る大砲の音を聞きながら、腕を鳴らして、やきもきしちょったらしい。

 それは長いような短いような何とも知れん一日で、ようようお天道さまが西の海に沈みかけたころ、竹ノ子島六ノ台の遠見が、どひょうしもない大声をあげた。
『オーイ、獅子ノ瀬に人が流されよるぞー』
 その声に藩兵やら農兵やらが台場にあがってみると、まこと、獅子ヶ口から獅子ノ瀬へ急流に押されて人間らしいものが流されちょる。
『誰か助けに行けえ』
『よし、わしが…』
 元気な若者が六人、台場をかけおりて、ドブン、ドブンと海に飛び込うだ。泳ぎにかけちゃあ、達者な者ばかりじゃ。見る間に六人で、その人間を浜に引きあげたが、
『オーイ、こりゃあ佛様じゃあ』
『もう土左衛門になっちょるわい』
『どうも、毛唐らしいぞ』
『佛は紅毛じゃーい』
 六人は口々に、台場に向かって大声に叫んだけえ、みんな浜に降りてみると、まこと、佛は日本人じゃあない。
 何とも奇妙な着物を着て、髪は赤いし、鼻は天狗のように高いし、河豚のシラコのようにブヨブヨと白い。
『長州さまの大砲に当たったんじゅろうか』
 ちゅうて、いろいろ調べたが、どこにも傷らしいものは無い。
 結局、このまま放っちょくわけにもいかんので、台場の脇にねんごろに埋めてユズの苗木を植えたちゅうことじゃ。

 ところが、戦争が終わって講和談判の時、オランダの水兵が行方不明になったちゅう話が出て、ごっぽうこじれたらしいと、そんな噂が流れた。
 竹ノ子島の藩兵やら農兵やらは、早速、話し合うて、
『今後、如何なることがあろうとも、獅子ノ瀬の佛については、一切口外しない』
 と誓い、一書をしたためて血判までしたちゅう話。

 竹ノ子島の六ノ台とはのう、今じゃ、台場ヶ鼻ちゅうて、燈台みたいな潮流信号所が建っちょるあそこのことじゃ。
 信号所の井戸のねき(そば)に大きなユズの木があったが、さて、今でもあるかのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
攘夷戦でオランダの水夫が行方不明になった話は事実であるが、それが、この外人の漂流死体と同じであるかどうかわからない。
ところで、竹ノ子島の燈台は、何十年前から電光表示板に変わっているが、旧燈台の初点火は明治四十二年八月のことで、砲台址に建てられた為、正しくは『台場ヶ鼻通航潮流信号所』と命名されている。この『台場ヶ鼻』という地名は地元よりも、むしろ釣り天狗たちの間では、かなり広く知られているようである。
信号所の井戸、それは現在でも残っていて、手押しポンプが取り付けられている。小さな屋根を頂いた手押しポンプは、信号所敷地のほぼど真ん中にあり、灯台も官舎も、それを囲む形で建てられていたが、近年、かなり様子が変わってしまった。
しかし、百年も経つようなユズの大木は、どこにも見られない。
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Posted on 2019/03/13 Wed. 13:22 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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