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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

彦島の年表1 

彦島の年表1

縄文時代 BC5000年

宮の原遺跡
彦島八幡宮境内の砂丘にあり、縄文前期と縄文中期の上下二層の遺物堆積層が認められる。


縄文時代 BC2500年

六連島遺跡
溶岩台地からなる南西端の海浜にあり、縄文時代の後期から弥生時代・古墳時代にかけての遺構が発見された。
遺物はたくさんの土器のほか犬の歯で作った垂飾、鹿の角の道具、釣り針など珍しい骨器が出土している。
弥生時代の遺構には、円形や隅丸方形の浅い竪穴と薄い割石を敷き詰めた住居跡があり前期末や中期の土器が出土した。


仲哀八年 199年

筑紫の伊都県主の祖五十迹手、仲哀天皇を引島に奉迎する。(日本書記)


古墳時代 200年

六連島遺跡
古墳時代の後期から律令時代にかけて、内壁に布目のある日用とみられる粗製土器が出土し、六連式土器と命名された。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より



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Posted on 2019/03/12 Tue. 11:01 [edit]

category: 彦島の年表

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おんなめろ 

おんなめろ


 時は幕末、馬関戦争のころの話じゃ。

 夷狄襲来にそなえ、彦島にもあちこちに台場が築かれた。石ケ原、山床鼻、西山、竹ノ子島などがその要塞の地になったが、一番大きゅうて最も活躍したのが弟子待砲台じゃった。
 その砲台築造の人夫たちの中に、四十歳前後と思われる女丈夫が居った。
 びっくりするほどの大力の女で、人夫仲間で喧嘩が始まりゃあ、必ず割り込んで、騒ぎを大きゅうしたり、腰巻一枚で沖ノ洲まで泳いだりして、その奇行ぶりから『流れの女だてら』とか、『おんなめろ』と呼ばれたもんじゃ。

 こんな話がある。

 ある日、惣十ちゅう者の藻刈り舟が、鎌崎の沖を漕いじょると、おんなめろが、岸から
『オーイ、その舟待てえ。ワシャあ、舟島に行かんにゃあいけんけぇ、ちょっと乗してくれんかぁ』
 惣十は、あんなワヤク(無法)な女に掴まっては大変じゃあ、と思うて、
『わしゃあ、若松まで行くけぇ、島に寄りよったらおそうなる。ほかの舟に頼みなんせえ』
 と断った。
 そしたら、おんなめろは、パッと着物を脱いで腰巻一つになり、海に飛び込んだ。そいで、藻刈り舟を追いはじめた。
 青うなった惣十は、そいでも一生懸命に櫓を漕いで逃げた。ようよう弟子待の沖まで舟を走らせた時、遠くから、
『オーイ』
 という女の声が聞こえてきた。
 振り返ってみると、舟島に泳ぎ着いたおんなめろは、だらりとさがった乳房をぶらんぶらんゆすりながら、
『わりゃあ、おぼいちょれよーっ』
 と、怒鳴りちらしちょったちゅうことじゃ。

 また、こんな話もある。

 弟子待の台場に、新しい大筒(大砲)が運ばれて来た日のことじゃ。
『今日だけは、女が居っては穢れるけえ、大筒据え付けまで、どこかに姿を隠しておけ』
 と申し渡されたところ、おんなめろは、不思議なことに、黙ったまま、どこかへ行ってしもうた。
 ところが、しばらくして戻って来た姿を見て、みんなたまげた。
『これなら、男じゃろうが』
 と、威張りくさって突っ立ったおんなめろは、褌一本の素っ裸で、胸一杯もありそうな乳房をぶらぶらゆさぶっておったのじゃ。そして、
『これみい、金玉もあるけぇ、わしゃあ、立派な男じゃ。この大筒より大けい(大きい)金玉を見い』と、六尺褌をまくって見せた。
 褌の中には、何やら丸いものが入れてあって、たくましゅうにふくれあがっちょったので、武士も人夫もゲラゲラ笑うて、おんなめろを仲間に入れた。

 じゃけど、その後、攘夷戦で四カ国に長州藩がもろくも敗れてしまうと、おんなめろは気違いのように泣きわめいた。
『大筒の据え付けに、ワシが加担したけぇ、長州さまが負けた』
 おんなめろは、日夜、そんなことを口走って泣き明かしちょったが、そのうち、どこへ行ったのか、再び台場にその姿は見られんようになってしもうたとい。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/03/12 Tue. 10:44 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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かけじく幽霊 

かけじく幽霊 ~下関~

 今から約二百七十年まえ、永福寺(えいふくじ 下関市観音崎)の門前に代々続いている一軒の海産問屋(かいさんどんや 海でとれたものをあつかう店)があった。 

そこの夫婦は、どうしたことか、たいへん仲(なか)がわるく、いつもけんかばかりしていた。そのため商売もうまくいかず、ますます仲がわるくなるばかりであった。

 この夫婦に、としごろの美しいひとりむすめがいた。たいへん親孝行(おやこうこう)で、両親がけんかをするたびに、
「お父さん、お母さん、仲よくしてください。お願いです。」
と、たのむのだが、父親も母親も、
「よけいな心配をしなくていい。」
というばかりで、むすめの言うことを聞くどころか、朝晩けんかのたえまがなかった。

  むすめは、そのたびに悲しくなって、店の前の海辺に出ては、ひとりでないていた。
そんなことが、何日も続くうちに、むすめはとうとう病気にかかってしまった。
それでも、まだ両親のけんかはやまなかった。
むすめの病気はわるくなるばかりで、おきあがることもできないほど弱っていった。

  むすめは、そんなからだでありながら、両親のことが心配で、
「お父さん、お母さん、お願いだから仲よくくらして。」
と、なみだをはらはら流しながらたのむのだが、
「おまえは、心配しなくてよい。」
そう言うだけで、少しもけんかをやめようとはしなかった。 

「わたしの命もわずかのようだ。生きてる間に一度でいいから、お父さん、お母さんの楽しそうな声が聞きたかった。」
むすめのやつれたほおに、なみだがあとからあとから流れおちた。
 
 それからなん日かたったある日、とうとう両親の笑顔を見ることもなく、むすめは息をひきとった。

むすめのそう式があった夜のことである。
永福寺の玉雲(ぎょくうん)おしょうは、一日のおつとめもおわり、
「やれやれ、今晩もむし暑くてねぐるしいわい。」
と、かやの中でうちわをばたばたさせていた。

ようやくとろとろとしかけたころ、ひやっとした風がふきこんで、まくらもとに何者かが立った。
おしょうは、はね起きて、
「これは海産問屋のむすめご、いったいどうしたことじゃ。」
おしょうはおどろいてたずねた。
むすめは、消え入りそうな声で、
「おしょうさま、わたしは、今からあの世へまいります。
それにつけても気がかりなのは、両親の仲です。
あのように仲がわるくては、死んでも死にきれません。
おしょうさま、どうか両親の仲がよくなるようによろしくたのみます。」
と言いながら、かたをふるわせて泣いた。

おしょうは、しばらくむすめの姿を見ていたが、
「よしよし、両親にはよき言ってきかせるから、安心しなさい。でも、ちょっと待ちなさい。」
そう言うと、つと立ちあがってすずり箱をとりよせ、かすかなろうそくの光をたよりに、
すらすらとむすめの姿をかきうつした。
筆をおくと、むすめの姿は、ふっと消えた。

 おしょうは、あくる日、その絵をもって海産問屋をおとずれて、昨夜のできごとを話した。
それを聞いた両親は、
「おまえがそんなに苦しんでいたともしらず、わしたちがわるかった。どうかゆるしてくれ。」
と、声をあげて泣きくずれた。

 あくる日、むすめのお墓のまえで、両親は二度とけんかをすまいとちかった。
なん日かたつうちに、両親の顔に笑顔がよみがえった。
それからは、商売も日ましにさかえていったという。

  むすめの死んだ日は、十七夜の観音様のご縁日にあたる。

この後、永福寺では、むすめの孝心(こうしん 親を思う心)をたたえ、七月十七日の観音大祭には、玉雲おしょうのかいた幽霊のかけじくをお参りの人たちに見せるようになったという。

 この観音様の縁日の日には、遠くから幽霊のかけじくを見るために、お参りにくる人が、今もたえないという。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/03/12 Tue. 10:24 [edit]

category: 下関の民話

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