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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

漁業者の団体組織と漁業発達の影響5 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響5


次に彦島の水産業についてでございますが、詳しく申し述べますと相当時間を要します。
今日は限られた時間でありますので、漁業団体の一部について申し上げます。

下関漁港の修築以前は小瀬戸の潮流が激しかったので、おおくの漁船は潮流に逆らって艪や櫂を操ることが容易ではありませんでした。
それがために海士郷の漁師は、沖から漁獲したものを積んで港に帰ります際には、その逆流を押し切るためにネタイユの鼻まで出かけまして、山の麓から引網を海に投げ、船に結びつけて岩礁を伝って船を曳きつつ帰ったのであります。

今日ではこのような難所は全く除かれ、そのうえ発動式漁船に改造して漁場との往復時間を縮小するほか、操業時間も多くなり災害防止にも努めておりますので、漁撈能率も非常に上がりまして漁獲物も倍加してきたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/11 Mon. 15:42 [edit]

category: ひこしま発展誌

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鬼の岩 

鬼の岩 ~下関市豊北町~


 下関市豊北町の島戸に、高坪山(たかつぼやま 長羽山(ながはやま)ともいう)という小高い山がある。
 頂上にのぼると、海士ヶ瀬(あまがせ)の海をへだてて、角島(つのしま)が見わたせるながめのいい山である。

 この高坪山に、むかし、たくさんの鬼が住んでいて、里に下りてきては、物をぬすんだり、漁師の家をあらしたりした。それで、村の人たちはたいへんこまっていた。

 あるとき、このことを聞いた住吉の神様は、なんとかして村の人たちをたすけてやりたいと思った。よい知恵はないものかと考えたすえ、鬼と「かけ」をすることを思いついた。

 ある日、神様はつぼに酒をたくさんつくって、鬼のかしらをよんだ。神様は鬼のかしらに酒をあたえて言った。
「おまえたちと、ひとつ「かけ」をしよう。よいか、ひと晩のうちに、この島戸と角島のあいだの海をうめて、歩いてわたれる瀬をつくるのじゃ。みごとつくれたら、おまえたちののぞみのものをなんでもかなえてやろう。どうじゃ。」

 鬼のかしらは、そのくらいのことならぞうさないと思ったので、よろこんで言った。

「よし、やろう。この「かけ」に勝ったら、浦じゅうのいけすをもらっていくぞ。」

 鬼のかしらは、すぐけらいの鬼どもを呼び集めてわけを話し、神様からもらった酒で酒もりをはじめた。酒もりが終わると、さっそく鬼たちは仕事をはじめることにした。
 鬼のかしらはふしぎな力を出して、大きな石を何万と集めた。けらいの鬼たちは、その石をつぎつぎと海に投げ込んだ。石はみるみるうちに一すじの瀬となってつながっていった。もうひと息で角島までとどきそうになった。

 このようすを見た住吉の神様は、
「これはたいへんだ。このままでは鬼にまけてしまうぞ。」
 とおどろいて、なんとか鬼に勝つくふうはあるまいかと考えた。
「おおそうじゃ。」
 神様はひざをポンとうつと、みのとかさをもってきて木にのぼり、バタバタと、ニワトリの羽おとをたてながら、
「コケコッコー。」
 と、大きな鳴き声を出した。鬼どもは、
「しまった、夜が明けてしまった。これは俺たちの負けだ。」
 といって、みんな逃げてしまった。

 それからは、村に鬼は出なくなった。

 村の人たちは、住吉の神様をありがたく思って、山の上に小さなやしろをたてて、神様をまつったという。
 島戸と角島の間にある鳩島は、鬼が瀬をつくるために投げ込んだ大岩が島になったものだといわれている。
 また、海士ヶ瀬は、小さい石を投げ込んでできたものといわれている。角島の海岸には、このとき鬼がつけたといわれる鬼の手形がついた岩がいまも残っている。
 高坪山は、鬼が酒のつぼを埋めたということから名づけられ、その山中に鬼のかしらの足あとがあったというが、今はもうない。
 いまでも、高坪山から酒もりをしたときの土器が出るといわれている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
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Posted on 2019/03/11 Mon. 15:40 [edit]

category: 下関の民話

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船台場 

船台場


 幕末の長州さまは、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国を相手に戦争するだけでは納まらず、幕府にも四方八方を囲まれて戦わにゃあならんかった。
 幕府による第二次長州征伐を、ワシら長州人は『四境戦争』と呼ぶが、これは、芸州口、石州口、大島口、小倉口などの敵を相手にしなけれゃあならん大変な戦じゃった。
 その中で、小倉口ちゅうのは、九州勢を向こうに回し、約七ヶ月もの間、激戦をつづけた小倉戦争のことじゃ。

 この戦の前に、小倉藩では、
『長州は、下関沿岸の守護に重きを置いてはいるが、対岸の彦島は全く無防備に等しい。従って、この際、こちらから奇襲を以って彦島の西海岸を攻めては如何』
 と、提案した人も居ったが、幕府の老中に軽くいなされてしもうた。あの時、その献策通りに九州勢が彦島を攻略していたら、恐らく長州さまの勝ち目は無うて、明治維新もまた違うたものになったじゃろう。


 さて、本題に入ろう。

 慶応二年(1866年)六月二十九日、幕府の軍艦富士山丸が小倉の長州沖にイカリをおろした。この軍艦は二本マストで、黒塗りの全長八十メートルもある新鋭の鋼鉄船ということで、どひょうしもない大きい。それに百四十ポンドの巨砲を据えて居ったから、長州さまの軍艦なんか、まるでオモチャのようなものだ。

『あの小舟は、目障りでならん。あれをやっつけろ』
 高杉さまの一声で、富士山丸攻撃の準備が始まった。さしもの大精鋭艦も、高杉さまの眼から見りゃあ、小舟にしか映らんかったらしい。

 さて、七月二日の夜、長府の御舟手組から六人の決死隊員が選ばれた。
 浜崎林槌、梅本幹志、平賀銀槌、大庭伝九郎、磯部新三、大隅伊兵衛という面々で、この六人が、二人ずつ三隻の上荷船に分乗することになった。一人は舵を取り、一人は二貫筒の砲を受け持ち、富士山丸を至近距離から撃とうという計画で、下手をすりゃあ自分たちの命も吹っ飛んでしまう。

 小筒ながら、一応、砲を積んだ船という意味で、これを『船台場』と呼んだが、三隻はその夜のうちに西山南風泊ちかくの瀬戸の浜に集結した。いわゆる潮待ちじゃ。
 そして三日午前一時過ぎ、三隻の船台場は瀬戸の浜を出て幕艦にそうっと近づいた。

 富士山丸は標識ランプを一つだけ吊るして、そのまわりには、同じ幕府の軍艦、順道丸、回天丸、長崎丸なども停泊している。
『おーい、その船、とまれえ。この夜更けにどこへ行くのかあ』
『ワシらぁ、彦島の者じゃが、これから若松まで、石炭を積みに行きますだあ』
 と答えると、相手は安心したのか、それ以上、とがめようとはせんじゃった。

 船台場は一列に並び、そのまますーっと幕艦群に近づいて、総指揮をとっていた浜崎林槌が二貫筒を富士山丸の機関めがけてぶっ放した。
 つづく二番手、三番手も、それぞれ機関を目標に撃ち込み、次々に海に飛び込んだ。そして、前日から言いつけてその付近で漁をさせていた伝馬船に泳ぎ着き、彦島に戻ってきた。
 その時、砲一門を載せた船は沈んでしもうたが、あとの二隻は引き潮に流されておったのを、彦島の漁師が見つけて引っ張って帰ったという。

 この船台場の轟音を合図に、対岸の田ノ首山床砲台が富士山丸を砲撃しはじめた。すると、それに呼応して弟子待砲台も、どんどんばりばり撃ち始めたもんじゃから、傷ついた幕艦は慌てて小倉寄りに退いた。
 田ノ首と弟子待にゃあ、二十インチの臼砲や十五インチ長身惣砲などが仰山あり、この勇ましい音をきっかけに、長州さまの大里攻めが始まった。


 こうして、七ヶ月にわたる小倉戦争の火ぶたが切られた訳じゃが、その死を覚悟した勇敢な船台場の奇襲は、幕府や九州を震撼させるに、大いに役立ったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
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Posted on 2019/03/11 Mon. 12:50 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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