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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

漁業者の団体組織と漁業発達の影響4 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響4

そして港湾施設の建設が進むにつれまして、今度は幡生駅を起点とする関門鉄道トンネルが、埋立地を経て門司に通じることに相成ったのであります。
このため、駅舎及び付随する各種の施設、おおくの官庁・会社・工場または商店等がこの埋立地に蝟集いたしまして、現在のような立錐の余地もない繁華な地になったのであります。

こうした偉観を遂げた大和町の施設は、大正・昭和の両年代にまたがりまして完成しましたので大正の「大」と昭和の「和」を採りまして「大和町」と名付けたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/10 Sun. 10:13 [edit]

category: ひこしま発展誌

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ひばり毛の名馬 

ひばり毛の名馬


戦国時代にはいろうとする頃ですから、1466年ごろ、長門の国室津岬の牧場で、ひばり毛の仔馬が生まれました。
しかし、母馬は間もなく死に、母を慕う仔馬の悲しいいななきが毎日牧場いっぱいにこだまし、飼主の涙をさそいました。

ある日のこと、仔馬はいつものように、牧場の片隅で一声高く母恋しさにいななきました。
するとそこから一里ほど離れた沖合いの蓋井島で、これに答えるかのように母馬らしい声が聞こえました。
仔馬は驚いて、また一声高くいななくと、しばらくしてまたそれに答える母馬の声がしました。
すっかり喜んだ仔馬は、牧場の柵を飛び越え身の危険も忘れてザブンと海の中へ飛び込みました。
幾度か波にのまれながら、それでも母親に会いたい一心から一生懸命泳ぎました。
ようやく泳ぎついた仔馬は、島の隅から隅まで探し回りましたが、母馬の姿を見つけることができません。

がっかりした仔馬は、浜辺に立って絶望の一声をあげました。
するとどうでしょう。今度は牧場の方からかすかに答える母馬のいななきを聞きました。
仔馬はふたたび海を渡って牧場へ帰りましたが、母馬の姿はもちろんありません。
失望と激しい疲労のため、仔馬はいつの間にかぐっすりと眠ってしまいました。

あくる朝、仔馬はガバと跳ね起きました。
懐かしい母馬と島で楽しく遊んだ夢をみたのでした。
たまらなくなった仔馬は、また海を渡りました。
こうして仔馬は、いくどか海を渡るうちに逞しい若駒に成長していきました。
そのうち水泳は上達し、ひばり毛の毛並みも、ひときわ美しくなっていきました。

こうして“ひばり毛の名馬”は、母を慕う優しい心とともに、その名は近隣にまで高くなっていきました。

当時、周防の領主でした大内義隆は、この噂を伝え聞き、
「その馬こそ、探しもとめていた馬だ。末永く愛馬として飼いたい」
と、牧場からひばり毛の名馬を引き取りました。

しかし、天文二十年八月、義隆は家臣の陶晴賢に背かれて城を追われ、愛馬とともに、川棚ヶ原に逃げ、ここで最後の一戦をこころみましたが、この時惜しくも、ひばり毛の名馬は、敵の刀によって深手を受けて、かわいそうに死んでしまいました。
義隆は、戦いに敗れたことよりも、この哀れな名馬の姿がいたわしく、そばにあった楠の木の根元に亡骸を埋め、楠の木に名馬の霊がこもるようにと、この若木を霊馬神と名づけ、義隆もやがて、四、五日して、さびしく大寧寺で命を絶ちました。


それからながいながい月日が経ち、年が経って、楠の木はは見るからに立派な木に成長しました。


(注)
現在、豊浦町川棚に樹齢八百年と推定される楠の木があります。
高さ約11メートル、巾15メートルと、まるで楠の森のようです。
日本三大楠の木として名高く、大正11年10月12日天然記念物に指定されました。

このひばり毛の名馬は、また“するすみ”の名前で伝説があります。
寿永三年正月、宇治川をはさんで源平がにらみあっていました。
このとき、源氏側では、梶原景季の乗った名馬“するすみ”と佐々木高綱の乗馬、池月とが先陣あらそいをしました。
ともに源頼朝の持っている天下の名馬でしたが、この“するすみ”の生まれたのが、楠の木付近であったといわれています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/10 Sun. 09:32 [edit]

category: 下関の民話

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最後の庄屋 

最後の庄屋


 彦島の庄屋は、むかしから代々、河野家が継いでおったが、いつのころからか、どうしたいきさつがあったのか、それが和田家に変った。

 庄屋の屋敷は専立寺に隣接して、それはそれは広壮なものであった。

 明治・大正から昭和の初めにかけて、彦島の庄屋は和田耕作という男で、実際には庄屋という役職も既に無くなっておったが、人びとは『庄屋の耕作』と呼んだ。
 耕作は、生まれつきの大風呂敷で、なまけ者であった。
 若い頃から決まった職には就かず、いつもぶらぶら遊んでばかりで、親が残してくれた財産を次々に食いつぶしてゆく始末。
 田や畠、それに山林などもどんどん減っていったが、耕作はのほほんと遊び歩いた。そして好き放題にホラを吹きまくった。

 耕作が二十歳の頃のこと、村の若い衆を集めてこう言うた。
『ワシャあ、彦島と関の間を埋めて地続きにしようと思う。明日から東京にのぼって内務省の役人にワシの計画を話して許可を取ってくる。何千円かかっても、何万円かかっても、ワシはやるぞ』
 若い衆たちは、また耕作のホラがはじまった、と笑いながら帰っていったが、その翌年、内務省が『小瀬戸海峡埋め立て計画』を発表したもんで、誰も驚いた。

 またある時、
『彦島に大会社を誘致しようと思うて、今は忙しゅうてならん。昨日も、渋沢栄一と会うてその話をして来たばかりじゃが、どうやらまとまりそうな空気になったよ』
 と、ふれ歩いた。誰も信用しなかったが、半年もしないうちに、大阪硫曹と大日本人造肥料という二つの会社が、福浦湾を視察して工場設立の準備にかかったので、
『庄屋は私財を投げうって彦島の為につくしてくれよる。今まで、ノウタレと陰口を叩いてきたが、ほんに悪いことを言うたものじゃ』
 と、ささやきおうた。

 すると耕作は余計に調子に乗って、
『乃木将軍とワシは懇意でのぅ、この前も東京で会うた時にゃあ、肩を叩き合うて語り明かしたものじゃあ』
 と、口からでまかせにしゃべって歩いた。少しずつ耕作を信用しかけておった人びとも、これにはあきれて、誰も相手にしなくなってしもうた。すると耕作は、むきになって、
『嘘じゃない。そのうち将軍が関に来られたら、皆なの前で訓話して貰うように連絡をとっちょくよ。その時になって、あっと驚くな』

 それから何年かたって、明治四十年一月元旦、乃木将軍が長府に里帰りされた。すると耕作は、その前、約一ヶ月、どこへともなく姿を消しておったが、ひょっこり戻ってきて、
『将軍の件じゃが、ワシャあ、一生懸命頼んだんじゃが、将軍もなかなかお忙しそうで、どうにも時間がとれん。そこで小学生だけを集めて長府で話をしようということになった。志磨小学校(現・本村小学校)からも代表が行けるけえ、それで堪忍してくれえや』と人びとに了解を求めて回った。
 将軍の訓話は一月五日、長府の豊浦小学校校庭で行われ、耕作の言う通り、彦島からも代表が出かけて聞くことができた。

 それからというもの、耕作は有頂天にかって、ホラの吹き通しであったが、明治大帝がお亡くなりになり、乃木将軍の殉死が伝えられると、その日から、また姿を消してしもうた。

 二年か三年、耕作は家をあけたまま、どこへ行ったのか、その消息さえもわからなかったが、ある日、ひょっこり戻ってきてそのまま寝込んだ。
 病気の様子でもなく、毎日ごろごろ寝転んでばかりじゃったが、人びとが訪ねて行ってもあまりしゃべろうとせず、まるで人が変ったようであったという。

 大正八年、長府に乃木神社が出来ると、耕作は五日ごとに長府まで歩いて行ってその拝殿にぬかずいた。
 相変わらず、決まった仕事にはつかず、色町などで遊び呆けておったが、以前とは違うて、何故か耕作はホラを吹かなくなった。

 また、何年かが過ぎていった。

 ある日、村の人が下関から戻って来て、
『庄屋は大したもんじゃのう。乃木さんに大鳥居を寄進したちゅうじゃないか』
 と、ふれまわった。
『そんな馬鹿な。もしそれが本当なら、庄屋は何年も前から鳥居の話を大げさにしゃべり歩いちょる筈じゃ』
 人びとは殆ど信用せんやったが、下関あたりでは、その噂でもちきりちゅうことを聞いて、何人かで長府まで確かめに行くことにした。

 行ってみると、まことまこと、乃木神社の正面参宮道路の入り口に花崗岩の大鳥居が建っておって、『和田耕作』と奉納者名が彫られてあり、その上、献歌まで刻まれてあった。
『立派な石鳥居を寄進なすって、あれは、相当、お金をかけたものでしょうな』
 人びとは島に帰って耕作に訊ねたが、耕作は何も答えず、ただ笑ろうておるばかりであった。

 大風呂敷が、風呂敷を広げなくなると、人びとは却って寂しゅうなり、時には気味悪がって、庄屋屋敷へは、あまり立ち寄らなくなってしもうた。

 その後、耕作は売る田地が無くなり、家財まで売り払い、昭和のある日、保険金目当てに、庄屋屋敷に火を放ってしもうた。
 耕作夫婦は捕らえられ、子どもがおらんやったことから、さしもの大庄屋も、その日を最後として、完全に没落消滅する破目になった。

 何百年と続いた彦島の庄屋は、その広大な田地森林、屋敷、財産すべて、最後の庄屋、和田耕作一代で食いつぶされ、使い果たされ、そして子孫まで失のうて、見事に絶えてしもうたんじゃとい。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
和田耕作の逸話は実に多い。
しかし、それを明かすのは、まだ時間的に早すぎるようである。
内務省埋め立て工事、福浦湾の工場誘致などは、和田耕作の功績でも何でもない。
ニュースにうとい離島の人びとを、持ち前の早耳を利用して面白がっていたにすぎない。
乃木将軍訓話の際にも、小学生を集めるという噂を聞いて慌てて戻って来て自分の手柄のように話したのであろう。
だからこそ、将軍殉死の後は、前非を悔いて、人が変ったようになってしまったに違いないのだ。
縁もゆかりもない和田耕作が、乃木神社に石鳥居を寄進したのは、その刻字によれば、大正十二年九月十二日となっていて、鳥居に刻まれた歌は次の一首。

枝も木も みきも残らず朽ちぬれど
 かをりは高し 乃木の一木

  和田耕作
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Posted on 2019/03/10 Sun. 09:13 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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