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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

漁業者の団体組織と漁業発達の影響3 

漁業者の団体組織と漁業発達の影響3


明治大帝が往時下関市に御逗留の節には、下関の漁師安井作治郎という人が活きた魚を献上しようと、ボラ漁の指揮者となって魚群を囲み、吹雪の中を素裸のまま海中に飛び込み大きなボラを掴んで船に上がったのであります。
上陸するや否や、ご宿泊先の春帆楼へ一目散に走って献上したことが侍従から陛下のお耳に入り、彼に「海坊主」という雅号を賜ったのであります。
彼は欣喜雀躍これを拝して、晩年に至るまで「海坊主・安井爵位翁」と自ら名乗っておったといいます。

この広い漁場も時代の流れには抗し切れず、内務省の主管で関門海峡の浚渫工事が行われまして、その土砂の捨て場として、この沖の洲の十六万坪が埋め立てられて港湾に姿を変えたのであります。

その後、水産都市として発展著しい下関は、狭隘となった漁港修築の議が起こりまして、国と県と市が総工費六百三十万円の予算で、昭和7年から四年計画で内港・外港・水路・陸上の施設建設に着手されたのであります。
と同時に竹崎地先の急流も締め切られ、陸続きとなり、一方船舶の航行に便ずるため、彦島側に水門を設けられたのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/03/09 Sat. 12:41 [edit]

category: ひこしま発展誌

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蓋井島 

蓋井島


蓋井島にも、神功皇后さまに関係のある名がたくさんついています。
“蓋井島”の名前がついたのは、この島に“みずしまの池”というとてもきれいな水をたたえる池があって、むかし勝山住吉神社のおまつりには、この池からご神水としてくみ、わざわざ運んでいったといいます。
そして、くみおわったあとは、かたく蓋をして、だれも池の水をとることができないようにしていたことから“蓋井島(ふたおいじま)”という名がついたといわれます。


見付の瀬

皇后さまが宗像の三女神に戦勝を祈られたあと、黒崎の浜から船出されたとき、波間にこの島をみつけられたところからつけられました。


鞠の庭・乞月山

三韓征伐から凱旋され、蹴鞠のお遊びをされたところが“鞠の庭”
そのとき、日が暮れて真っ暗になったので、山に登られ、月を乞われたところ、たちまち満月になったというところから“乞月山”というようになりました。
このほか、“威勢の松”“酒の瀬”“鎧の瀬”など関係の深い名がたくさんあります。


山の神

三韓の国の一つ、新羅の鬼四つがこの島に渡り、日本を攻め入るために様子をうかがっていました。
これを知った皇后さまは、鬼のひそむ洞窟に家来を忍び込ませ、毒を酒がめの中に入れさせました。
なにも知らない鬼は、好物の酒をガブ飲みし、毒酒に酔って三つは、森の脇に倒れ、残る一つは、高野の田ノ頭というところで死んでしまいました。
けれども、その死んだ鬼の霊が仕返しに、島に病気をはやらせたり、あるいは次々に火災を起こさせるので、島の人たちは恐ろしくなり、霊をまつって“山の神”としました。
もちろん、病気や火災はおさまりましたが、それから七年に一度“山の神”のおまつりをするようになったということです。


(注)
山の神のおまつりは、七年に一度、十二月中(現在は海のおだやかな十一月に行う)の辰と戌の日を選んで四日間催されます。
山の神は、一ノ山・二ノ山・三ノ山・四ノ山とあって、島中の各家は、そのどれかの山に属しています。
各山へは、おまつりの期間だけ立ち入ることが許可され、森から枯木をたくさんとってきて、それを1メートルから2メートル半くらいの長さに切り、それを円錐形に立て、中に75本の幣を入れ、75尋の縄で回りを結びます。
その前に古壺が埋められていますが、これが、山の神の霊といわれています。
神迎え、神送りの行事がありますが、この山の神のおまつりは、祖先を敬うことと、山の幸、海の幸のめぐみに感謝し、次の七年までの豊作、豊漁をお祈りすることにあります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/03/09 Sat. 12:39 [edit]

category: 下関の民話

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眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、現在でも少数ながら信じて疑わない古老が居る。
ここで面白いことは、他の話がすべて、下関から舟で渡ったのが武蔵となっているのに対し、眼龍が長門の住人であったことから、その立場を逆にしていることである。
世間では殆ど知られていない眼龍の話が、毛利家文書の『旧山陽道行程記』にも書かれてあるという。
この話などは『平家びいき』『小次郎びいき』で知られるこの地方の人びとの心情がよく出ているように思われる。
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Posted on 2019/03/09 Sat. 12:19 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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