02 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程10 

農業者の団体組織と生産進歩の過程10


彦島農業組合が今日の隆盛をみているというのも、左様な農民の結集の成果であります。

この度創立十周年を迎えるにあたりまして、彦島農民の寄り場として計画された組合事務所は、昭和32年7月に着工し、33年2月15日に完成をみたのであります。
その間7ヶ月を要しましたが、できた建物は鉄筋コンクリート3階、延べ坪103余坪であります。
場所は彦島の玄関の、しかも関彦橋の入り口に堂々と建っております。

彦島にかくの如き立派な農業のセンターが設置できましたことは、農民の力強い支持があればこそで、私は感慨無量であります。
今度はこれを維持管理すると同時に、農民だけでなく一般社会の人々にも利用していただきたいと私どもは考えているのであります。

これをもちまして私の彦島の農業に関する話を終わりたいと存じます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
関連記事

Posted on 2019/03/05 Tue. 11:04 [edit]

category: ひこしま発展誌

TB: --    CM: 0

05

伏拝の峰 

伏拝の峰(ふくはいのみね) 下関市豊田、菊川


 下関市の豊田、菊川にまたがっている山がある。
 華山(げざん:高さ750m)とよばれる美しいかたちをした山である。
 ずっと昔は、山伏たちが、修行をしたところだともいわれている。

 この山の頂上は、ふたつに分かれていて、東の方を岩屋の峰(いわやのみね)といい、西の方を西の嶽(にしのだけ)、または伏拝の峰(ふくはいのみね)ともいっている。
 その西の嶽には、嶽の宮(だけのみや)という小さなほこらがある。
 このほこらは、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の墓のあとだともいわれている。

 仲哀天皇は、クマソ(九州のごうぞく)との戦いにやぶれ貴場(きば)までにげてきて、そこで里の人たちのもてなしを受けたのち、歌野(うたの:宇多野とも書く)というところまで来られた。
 その時、先頭を歩いていた武内宿禰(たけうちのすくね)が古びた一軒屋の軒下に、若い女が立っているのを見つけ、
「お前は、この土地の者か。」とたずねた。

 女は、戦の姿に身をかためた宿禰におどろいたのか、何も答えなかった。
 しかし、宿禰が、
「あとから来る者たちへ、われわれのことを言うではないぞ。口がさけても言うではないぞ。よいか。」
 と言うと、女は、
「うん。」
 とだけ言って、うなずいた。

 それから天皇の一行は、華山の方へと急いだ。

 それから小半時(こはんとき:約1時間)もたったころ、みるからに荒々しい男たちが馬に乗ってやってきた。クマソの軍勢であった。
 その先頭の男が、さきほどの若い女を見つけて馬をとめ、
「女、このあたりに武者(むしゃ)は来なかったか。」
 とたずねた。
 しかし、女はさっきの約束を守ってだまっていた。二度、三度と聞かれたが、それでも女は返事をしなかった。
 すると、クマソの大将は、この女は何かを知っていると思ったのか、馬から飛び降りると、刀をすらりと抜いて、ぴたりと女の顔に押し当てた。
「言わぬか。どこへ行った。言わぬとお前の首をはねるぞ。」
 大将は、刀で女のほおをたたいた。

 女はすっかりこわくなって、とうとう小さなあごを左へ2、3回ふってみせた。
 口さえきかなければ、先ほどの約束をやぶったことにはならないと思ったのだ。
「あっちじゃと言っとるぞ。それッ、追え!」
 大将は、若い女を突き飛ばすと、馬に飛び乗り、左の方角に追いかけていった。

 そして、クマソの軍勢は仲哀天皇の軍に追いつき、いっせいに矢をはなち、刀をふるってせめかかった。
 天皇の一行も勇敢に戦ったが、とうとう力つき、天皇は矢にあたってなくなってしまった。

 天皇の死を知ったお妃(おきさき)の神宮皇后(じんぐうこうごう)は、天皇が亡くなったことをみんなにかくして、こっそりと豊浦の北三里の山中に埋葬させ、天地(あまつち)の神々をまつり、戦いに勝てるよう祈った。
 
 そして、クマソを討たれた。

 神宮皇后が、天皇の冥福(めいふく)とクマソ討伐の成功を祈ったことから、西の嶽を伏拝の峰とよぶようになったとつたえられている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
関連記事

Posted on 2019/03/05 Tue. 10:48 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

05

舟島怪談 

舟島怪談


 舟島というのは、江ノ浦と弟子待の沖合に浮かぶ巌流島のことです。
 慶長十七年(1612年)春、佐々木小次郎と宮本武蔵がこの島で雌雄を決して、巌流島と名付けられました。

 むかしから、平家びいきと言われるこの地方の人びとのことですから、敗れた小次郎の死をいたみ、哀しんで付けたものでしょう。
 そののち、この島には、小次郎の墓も建てられたと言いますが、いつのまにかなくなり、幕末の頃、吉田松陰が立ち寄った嘉永年間には、また建てられてあったそうです。
 現在、この島には、小次郎の墓と呼ばれる碑が建っていますが、これは明治年間における巌流島拡張工事の際のものです。

 舟島には、小次郎の怨霊を思わせるような怪談が、たくさん残されています。
 それは、俗に『舟島怪談』と呼ばれる一連の話ですが、不気味な中にも、小次郎の死をいたむ人びとの、憐れみや思いやりのようなものが感じられます。
 それらの話の幾つかは、昔、弁天座や稲荷座のお盆興行で、前座に使われたこともある程、かなりたくさん伝えられていたそうですが、今では殆ど、すたれてしまいました。



舟島怪談 青い火


 毎年、お盆の八月十六日、月が西に沈むと、舟島から青い火がすーっと空に舞いあがります。そして小倉のほうへ、ほわりほわりと流れて行くのです。
 すると、それを待ちかねていたかのように、小倉の空からも同じように青い火がすーっと飛び立って、こちらへやって来ます。
 二つの青い火は、大瀬戸の海の上で、もつれ合うように、あがったり下がったりしますが、やがて、ぐるぐる回りはじめます。そして、ぶっつかっては消え、またぶっつかって、それが小半刻もつづくのです。

 だから彦島の海べりの人びとは、その夜だけは早くから戸を閉めて寝込むのが習慣になりました。しかし、中にはこわいもの見たさで、とざした戸のすき間から、恐る恐る青い火を見ようとする人も居ましたが、そんな人は必ず病気になったと伝えられています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より
関連記事

Posted on 2019/03/05 Tue. 10:31 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

05