02 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

白い福ネズミ 

白い福ネズミ


 むかしむかし、ある村に、働き者のおじいさんが住んでいました。
 毎日毎日、一生懸命働いているのですが、暮らしはちっとも良くなりません。
 そんなある年の一月二日、おじいさんは不思議な初夢をみたのです。
 まぶしいお日さまの光の中から、杖をついたおじいさんが現れて、
「わしは神さまの使いじゃ。お前さんは実によく働いておる。だが、このままでは駄目じゃ。というのも、お前は食べ残しの野菜の切れはしなどを、台所の流しへ捨てたままにしておる。それがつまって、実に汚い。ドブをきれいに掃除してみよ。さすれば、良い事がおこるであろう」
 神さまのお使いはそう言って、消えてしまいました。
 目を覚ましたおじいさんは、さっそく台所の流しやドブをきれいにしはじめました。
 すると、一匹のネズミが出てきました。
 よく太った、まっ黒なネズミです。
 ネズミは家の中に入り込むと、奥の部屋の神棚へと飛びあがりました。
 そして供えてあるお餅の裏に逃げこむと、しばらくしてお餅と同じようなまっ白い姿になって、顔を出しました。
 その日から畑へ行くと、白ネズミはあとからついてきて、小さな手で畑の土を掘り返したりして手伝ってくれます。
 おかげでおじいさんの仕事がはかどり、少しずつですが、お金もたまるようになって、暮らしも豊かになっていきました。
 さて、それをうらやましく見ていたのが、となりのおじいさんです。
 となりのおじいさんは白ネズミを借りてくると、お餅をまき散らしたとなりの部屋に入れました。
 そして夜になるとふとんに入り、ふすまのすきまから様子を見ていました。
 カリカリお餅をかじっていた白ネズミは、夜になるとたくさんの糞をしましたが、気のせいか、その糞が白くかがやいているように見えました。
「そうか。あのネズミは餅を食って、銀の糞をするんだ。これでおらも大金持ちじゃ」
 次の日の朝、目を覚ましてとなりの部屋をのぞくと、足の踏み場もないほど、たくさんの白ネズミがはいずりまわっていました。
「おう、たくさんの仲間をつれてきたな。ありがとうよ。もっともっと、銀の糞をしてくれよ」
 欲深じいさんはニコニコしながら、一匹の白ネズミの頭をなでました。
 するとネズミは「チュー」と鳴いて、たちまち、まっ黒なドブネズミになってしまったのです。
「ややっ、これはどうしたことじゃ!」
 ほかのネズミを捕まえると、みんな同じように「チュー」と鳴いて、ドブネズミに変わってしまいました。
 そして光っていた銀の糞も、まっ黒な本物の糞になって、欲深じいさんの家の中は糞だらけになってしまったと言う事です。


山口県の民話 福娘童話集より
http://hukumusume.com/douwa/index.html
関連記事

Posted on 2019/03/31 Sun. 12:09 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

31

あかずの扉 

あかずの扉


明治になるちょっと前のこと、天然痘が大流行した年がありました。

長府逢坂の坂口、むかって右手の角屋敷に松田という三百石取りの侍が住んでいましたが、松田の家でも、たった一人の男の子と、その家の中間の子どもとが同時に天然痘にかかりました。
松田家の子どもは、手厚い看護の効き目も無く“痛いよ…痛いよ…”と苦しみながら死んでしまいました。
それにくらべて中間の子どもの方は幸いなことに全快しました。

松田の両親の悲しみは大変なものでした。
「ご主人様の坊様とかわっていればいいのに」
と、主人おもいの中間夫婦は心からそう思っていたし、口にも出して主人をなぐさめました。
そのうち初七日も過ぎましたが、しかし松田の耳には、痛いよ痛いよと苦しんで死んでいった我が子の声が残ってどうすることもできませんでした。

「おお、せがれか、苦しいだろうががまんせい」
真夜中に布団を跳ね返して、こう口走ることもありました。
松田は日に日に痩せ衰え、ほほ骨はとがり、目だけが異様にギラギラと光をおびてきました。

それから数日たったある日のこと、主人の松田が縁側へ出てぼんやりと冬の淡い日差しをあびているとき、全快した中間の子どもがくぐり戸から庭へ入ってきました。
松田には一瞬我が子が入ってきたのかと思いましたが、その子が中間の子とわかってよけいにカッとなり、
「お前がわしの子を殺したのじゃ」
と、庭へ飛び降り、子どもの襟首をつかんで、ずるずると井戸端近く引きずっていきました。
「苦しいよ、はなしてよ」
と、子どもは悲鳴をあげて泣き叫びました。
この声をききつけて、あわててかけつけた中間夫婦は、
「ご主人様、せがれが何かそそうをしましたか、それならどうぞお許しください」
と、主人にとりすがって必死に頼みました。

けれど、その時すでに気が狂っていた主人は、
「うぬ、このガキがわしの子どもに病気をうつしたのじゃ、せがれのかたきだ」
こうののしったかと思うと、やにわに刀を抜いて、子どもを斬り捨てました。
子どもの首は、ころころと転がってくぐり戸前まで飛びました。そしてピューっと血を吹きだしたかと思うと見るまにくぐり戸を真っ赤に染めてしまいました。
それきり、主人の松田は気が変になってとうとう死んでしまいました。

その後、血のついたくぐり戸は、開いても開いてもすぐ閉まるようになり、誰いうとなく「あかずの扉」と呼ぶようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編
関連記事

Posted on 2019/03/31 Sun. 11:59 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

31

七本足のタコ 

七本足のタコ


 西山と竹ノ子島の間に、獅子ヶ口ちゅう大きい怪岩が、口をあけて不気味なかっこうでそそり立っちょる。

 むかし、この磯辺に、お夏ていう気丈な女が住んじょった。どだい力も強うて、大食いじゃったが、ある日、磯でワカメを刈りよると、人間ほどもある大ダコが、岩の上で生意気に昼寝をしちょるのが見えた。
『こいつは、うまそうや』
 と、大食漢のお夏はそろっと近づいて、その足を一本、鎌で切り取り、持ち帰った。そして夕食の膳にそえて、たらふく食うた。

 四、五日たって、また同じ岩で昼寝をしちょる大ダコを見つけたお夏は、ごっぽう喜んでその足の一本を切ろうとした。ところが、大ダコは待ち構えちょったように、七本の足をお夏に巻きつけて、ズルズルと海へ引きずり込んでしもうた。

 その後も、七本足の大ダコは、時々出て来ては、岩の上で昼寝をしちょったが、浦の漁師らは、誰も恐れて近寄ろうとはせんじゃったといや。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/03/31 Sun. 11:44 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

31

鶴柿 鶴の恩返し 

鶴柿 鶴の恩返し


むかし、むかし、ある日のこと、鶴の親子が八代(やしろ)の里を空高く飛んでおりました。
八代の里は柿の木がおおいところ。
たわわに実ったおいしそうな柿の実をみて、子鶴は、たべたいとほしがりました。

けれども鶴は木の枝にとまることができません。
どうやって、もいだらいいだろうと、親鶴は柿の木をぐるりぐるりと飛んでおりました。

そこへ一羽のからすが飛んできて、うれた柿をおいしそうにたべはじめました。

これをみて親鶴は柿の木の下へ降りて行き
「からすさん、わたしたちにも一つうれた柿をもいでおくれでないかね」
と、たのみました。からすは
「もいでやってもええがの、お前さんはきりょうよしじゃ、よううれた柿じゃ着物がよごれるじゃろうから、まぁこれがよかろうて」
といって、まだかたい柿の実を鶴になげました。

「からすさん、子供がほしがりますので、もっとよくうれたのをおねがいします」とまた、ていねいにたのみました。
「それなりゃ、ちょっとまっちょけいや」
といったきり、からすは鶴にとってやろうともせず、自分だけよくうれた柿をたべ、種やへたを下へバラバラなげすてました。

いつまでたってもとってくれそうにありませんので、鶴はまたたのみました。すると、からすは腹をたてて
「そんなら、お前さんがのぼってすきなものをもぎんされ」
といったかと思うと、かたい柿の実を鶴にむかって投げつけました。

これを、じっとみていたお百姓さんは、ぬけぬけと柿をたべているからすを追いはらい、よくうれた柿を鶴にとってやりました。

鶴の親子はよろこんですっかりたべると
グルーガルー、グルーガルー
とお礼をいいながら飛んでゆきました。

それからしばらくたった、ある寒い日のこと、このお百姓さんの家に大そうどうがおこりました。
お百姓さんの子供が干柿をたべていて、柿の種をのどにつめてしまったのです。

すると、いつぞやの鶴が、お百姓さんのあわてたすがたをみて、わけをきくなり
「わたしがおたすけしましょう」と お百姓さんの家へ飛んで行きました。
そして鶴は、苦しんでいる子どもの口を開けさせると、その長いくちばしでなんなく柿の種をついばみ出してしまいました。

お百姓さん夫婦は大喜びで鶴にお礼をいい
「八代の柿ぁ うまいんじゃが、種が多くてしょうがない。種さえなけりゃ、八代の柿は周防一じゃが」といいました。

これからです。八代の柿は干柿にすると、どうしたわけか種がすっかりなくなってしまい、子どもが種をのどにつめる心配がなくなった、ということです。
こうして八代では、干した柿を干柿ともつるし柿ともいわず、鶴の恩返しと考えて、鶴柿(つるがき)というようになったそうです。

(熊毛郡)


山口銀行編纂 山口むかし話より転載
関連記事

Posted on 2019/03/30 Sat. 11:25 [edit]

category: 山口むかし話

TB: --    CM: 0

30

福笹 

福笹


むかし、小月の里に、八重というきりょうよしで親孝行の娘がいました。
八重の家は、両親と三人ぐらしでしたが、両親は病気ばかりしていて、家事のことから、野良仕事まで、ぜんぶ八重が受け持っていました。

こうした八重の働き振りが気に入られたのか、村の庄屋さんの息子のお嫁にという話が持ち込まれました。
しかし、相手は金持ちの庄屋さん、こちらは貧乏ぐらしの百姓娘、どう考えてもつりあわないと、両親は断りました。
八重にしても、病気ばかりしている両親を、このままおいて、お嫁にいけるわけがありません。
それどころか、少しでもお金をためて、薬を買い両親に早く良くなってもらうため、体を休めるひまもなく働き続けました。

こうして、また新しい年を迎えたお正月のこと。
王喜に住むおじさんが、小月での用事のついでに八重の家に立ち寄りました。
「お八重や、明日は初寅の日だが、いっしょにおまいりにいかんか、毘沙門さまのご利益をもらって今年はいい年にしなければ…」
と、さそいました。そばから母親も、
「ほんとうに、わしが弱いばっかりに、八重に苦労ばかりかけて…、お正月の晴れ着もよう買ってやることもできずに…」
そんな、母親の悲しい気持ちを打ち消すように八重は、
「いいえ、別に初寅だからといっておまいりしなくても、私はここから、いつも毘沙門さまをおがんでいます。おじさん、おまいりされたら、お父さんやお母さんの達者をよくお願いしておいてください」
と、八重は、おじさんや母親に向かって、明るく笑ってみせ、またせっせと藁編みの手を進めるのでした。
「そうか、それじゃ、わしがよう頼んで、かわりに福をもらってきてやろう」
と、おじさんは、親子のかばいあう姿に胸をうたれて、そう言って帰っていきました。

あくる日は、毘沙門天さまのおまつり、おじさんは、おまいりをすませて山をおりてしまってから、ふと八重との約束を思い出しました。
福をもらって帰ってやるといったものの、もうここまできてしまっては、なにをおみやげに持って帰ればいいのか…。
おじさんは、思案しながら歩いていますと、とつぜん“バサッ”という音がしました。おもわずびっくりしてその方を見ると、笹の葉がゆれていて、それは笹の葉に積もっていた雪をはねのけた音だったのです。
「おおそうじゃ、この笹を、毘沙門天さまのおさずかりじゃといっておみやげにしよう」
こういっておじさんは、一枝とって帰りましたが、この笹には見事な葉が五枚ついていました。

「お八重や、いま帰ったぞ。今年はおまいりが多くて、おみやげものはみな売り切れてしまった。こりゃあ四王司山の笹葉だが、これには、毘沙門さまの福がこもっている。まぁ神棚にでもまつっておけ」
といって、おじさんは、きまりわるげにお八重に渡しました。

あくる朝、八重が、神棚をのぞくと、たしかに昨日のせたはずの笹が見当たりません。
おかしいと思いながら、背伸びをして手で探していますと、チャリン、チャリンと音がして、板間に落ちたものがあります。
なんとそれは、キラキラとまぶしい光をはなつ小判でした。
「こりゃ、まぁ」
といったなり、八重はビックリして板間に座り込みましたが、すぐさま両親をよんでみせますと、二人ともワナワナふるえだし、ものを言うこともできません。八重はあわてておじさんを呼びにいきました。

聞いて、おじさんは飛んできましたが、目の前の小判五枚を見て、たまげてしまいました。そして、
「これは、やっぱりお八重の日ごろの信心と、親孝行を知って毘沙門さんがおさずけくださったんじゃ」
と、いいきかせるのでした。

この噂は、たちまち村中にひろまっていきました。
そして、ふたたび庄屋さんから、八重を息子の嫁にもらいたいという話が持ち込まれ、村中の祝福を受けながら、春三月お嫁入りしました。
そしてその後も八重は、ずっと幸せにくらしたということです。


ところで、それからというもの、毘沙門さまのおまつりには、おまいりする誰もが、四王司山の笹葉をもらって帰るようになり、いつか笹葉は、初寅まいりの福の笹として、これに張り子の小さな虎や小判を結びつけ“福飾り”といって売り出されるようになりました。


(注)
初寅まいりの日には、今でもこの“福飾り”がお土産に売られています。


『下関の民話』下関教育委員会編
関連記事

Posted on 2019/03/30 Sat. 10:46 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

30

俎の瀬 

俎の瀬


 田ノ首の浜に『生板の瀬』と書いて『マナイタの瀬』と読む珍しい地名がある。

 むかし、マナイタの瀬は、海賊どもの処刑場であった。
 捕らえられて来た船頭や、村びとたちのうち、海賊どもに逆らうものは、皆ここで首を打ち落とされて、近くの大池に捨てられた。

 ある日も、若い船頭がとらえられたが、釣った魚を奪い返そうとしたため、この瀬に引き据えられた。
 いざ首を斬られようとした時、若い船頭はポロポロ涙を流して、
『わしゃあ、命は少しも惜しゅうはない。殺されることは、もう、とうに覚悟しちょりますが、ただ一つだけ、その前に一目でもええから母親に会わしちゃあくれんものじゃろうか』
 と、海賊頭を伏し拝んだ。
『お前の母親というのは、いま何歳になるのか』
『もう八十歳になります。永いこと中風で寝たきりで、わしゃあ漁が忙しゅうて、日頃は母親は面倒を見るものもおりません。今、このまま殺されてしまえば、母親は空腹に苦しみながら狂い死ぬことじゃろう思います。もし、お慈悲で、一目だけでも会わして貰えりゃあ、苦しみを与えずに、ひと思いに殺して参ろうと思います。それが、 せめてもの親孝行ちゅうもんでしょう。どうか、ちょっとでええですけえ、家まで帰らしちゃ貰えんじゃろうか』
 若い船頭は、涙ながらに一心に頼んだ。すると海賊頭はハラハラと涙を流して、ゆっくり縄をほどき、蝿の声よりももっと細い声で言った。
『早く帰れ。そして、もうここには、二度とそのツラを見せるな』

 船頭は、とっさに口をついた出まかせで命を助けられ、大喜びで村に帰り、このことを村中に自慢して歩いた。
 それを聞いた一人の若者が、
『海賊に頭をさげたたぁ、何とだらしがない。俺が行って退治してやろう。ついでに、金銀財宝も分捕ってやる。よう見ちょれ』
 と、田ノ首の浜へ出かけて行った。しかし、またたくまに掴まってしまい。抵抗したかどでマナイタの瀬に引き据えられた。
 その時、若者は、逃げ帰った船頭の出まかせを思い出した。
『私には、八十歳になる中風の母親がいます。これを残しては、死んでも死にきれません。何とか一目会って親孝行してから死にたいと思います』
 すると、海賊頭も子分たちもゲラゲラ笑いだした。そして、一人の男が背後にまわり、
『俎上の鯉はブツブツ言わぬものじゃ』
 と言って、刀を振りおろした。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より


-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/03/30 Sat. 10:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

30

彦島の年表18 

彦島の年表18

昭和五十五年 1980年

巌流島に憩いの広場を開設。


昭和五十六年 1981年

西山木材港の建設起工。


昭和五十七年 1982年

彦島ー大和町間の水門橋が全面改修。

向井小学校、向井町に開校。


昭和六十一年 1986年

ヒヨドリ彦島に大挙襲来農作物に被害。

福浦の日東合板が事業閉鎖。


昭和六十三年 1988年

林兼造船、事業不振のため廃業。

関彦橋、全面架け替え工事完了。

西山埠頭完成。


平成二年 1990年

彦島図書館、江の浦町に開設。


平成八年 1996年

巌流島が自然や歴史的環境に配慮した海岸整備をする「エココースト事業」地区として国から指定される。


平成十一年 1999年

下関第一高校、中等教育学校に内定、平成16年4月開校予定。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 10:40 [edit]

category: 彦島の年表

TB: --    CM: 0

29

伏拝の峰 

伏拝の峰(ふくはいのみね) 下関市豊田、菊川


 下関市の豊田、菊川にまたがっている山がある。
 華山(げざん:高さ750m)とよばれる美しいかたちをした山である。
 ずっと昔は、山伏たちが、修行をしたところだともいわれている。

 この山の頂上は、ふたつに分かれていて、東の方を岩屋の峰(いわやのみね)といい、西の方を西の嶽(にしのだけ)、または伏拝の峰(ふくはいのみね)ともいっている。
 その西の嶽には、嶽の宮(だけのみや)という小さなほこらがある。
 このほこらは、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の墓のあとだともいわれている。

 仲哀天皇は、クマソ(九州のごうぞく)との戦いにやぶれ貴場(きば)までにげてきて、そこで里の人たちのもてなしを受けたのち、歌野(うたの:宇多野とも書く)というところまで来られた。
 その時、先頭を歩いていた武内宿禰(たけうちのすくね)が古びた一軒屋の軒下に、若い女が立っているのを見つけ、
「お前は、この土地の者か。」とたずねた。

 女は、戦の姿に身をかためた宿禰におどろいたのか、何も答えなかった。
 しかし、宿禰が、
「あとから来る者たちへ、われわれのことを言うではないぞ。口がさけても言うではないぞ。よいか。」
 と言うと、女は、
「うん。」
 とだけ言って、うなずいた。

 それから天皇の一行は、華山の方へと急いだ。

 それから小半時(こはんとき:約1時間)もたったころ、みるからに荒々しい男たちが馬に乗ってやってきた。クマソの軍勢であった。
 その先頭の男が、さきほどの若い女を見つけて馬をとめ、
「女、このあたりに武者(むしゃ)は来なかったか。」
 とたずねた。
 しかし、女はさっきの約束を守ってだまっていた。二度、三度と聞かれたが、それでも女は返事をしなかった。
 すると、クマソの大将は、この女は何かを知っていると思ったのか、馬から飛び降りると、刀をすらりと抜いて、ぴたりと女の顔に押し当てた。
「言わぬか。どこへ行った。言わぬとお前の首をはねるぞ。」
 大将は、刀で女のほおをたたいた。

 女はすっかりこわくなって、とうとう小さなあごを左へ2、3回ふってみせた。
 口さえきかなければ、先ほどの約束をやぶったことにはならないと思ったのだ。
「あっちじゃと言っとるぞ。それッ、追え!」
 大将は、若い女を突き飛ばすと、馬に飛び乗り、左の方角に追いかけていった。

 そして、クマソの軍勢は仲哀天皇の軍に追いつき、いっせいに矢をはなち、刀をふるってせめかかった。
 天皇の一行も勇敢に戦ったが、とうとう力つき、天皇は矢にあたってなくなってしまった。

 天皇の死を知ったお妃(おきさき)の神宮皇后(じんぐうこうごう)は、天皇が亡くなったことをみんなにかくして、こっそりと豊浦の北三里の山中に埋葬させ、天地(あまつち)の神々をまつり、戦いに勝てるよう祈った。
 
 そして、クマソを討たれた。

 神宮皇后が、天皇の冥福(めいふく)とクマソ討伐の成功を祈ったことから、西の嶽を伏拝の峰とよぶようになったとつたえられている。


題名:山口の伝説 出版社:(株)日本標準
編集:山口県小学校教育研究会国語部

豊徳園ホームページより
関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 09:41 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

29

辰岩伝説 

~辰岩伝説~


 老の山公園や第一高校へ上る途中の右手に真新しい市営住宅が建っていますが(林兼造船従業員アパート跡)、この東端の一段高いところに「辰岩」と呼ばれる岩があります。

 辰岩のあるこの森には800年以上も前、平家の落人が隠れ住んでいました。この男は平家再興の望みもむなしく、辰の年の3月24日に割腹自殺してしまったということです。それ以降毎月24日には、落人の隠れ住んでいた森から大きな竜が出てきて海峡に向かって大きな声でほえるので、この村の人たちは24日が来ることを非常におそれていました。

 ある年、偉いお坊さんがその話を聞いて竜を鎮めるために彦島にやってきました。そして森に入り、三日三晩お経を唱えて落人の魂を鎮めたところ、竜は現れなくなりました。村人は、平家落人の魂を弔うために供養塔を森の中に立てることにして、森に入ってみると、落人のすまいがあった場所にはどこから運んできたのか大きな岩がたてられていました。村人は不思議に思いましたが、きっとこれは落人の墓であろうと考え、その後、酒や花を供えて平家落人の供養を続けました。この頃から、この岩のことを「辰岩」と呼ぶようになったそうです。

 その後、いつの間にか、辰岩の下には平家の財宝が埋まっており、ここに住んでいた落人はそれを守っていたのだ、という噂が広まりました。その噂を聞きつけて、多くの欲深い男が夜中に辰岩にやってきてそれを掘り出そうとしました。しかし、財宝を掘ろうとした物は皆、気が狂って「竜が来た」「竜が来た」と叫ぶばかりでした。そう言うことが続いて、落人の命日に花を供える以外、誰も辰岩に近づかなくなりました。

 ある時、小倉の商人、嶋屋与八という人物が財宝の真偽を確かめようとやって来ました。与八は、これまでの盗掘者が、夜中に一人でやって来てこっそりと掘り出そうとしたから、竜の幻を見て気が狂ってしまったのだと考え、村人を辰岩のまわりに集め、大勢が見ている前で財宝を掘り出すことにしました。

 与八が大勢の村人の前で鍬を振り下ろした途端、鍬を持った両手を高々と振り上げ、大声を上げながら気が狂ったように辰岩のまわりを走り回り始めました。やがて、持っていた鍬が自分の頭に落ちて与八は死んでしまいました。村人は、与八の墓を建て、やがて、誰も辰岩のことを口にしなくなり、忘れ去られていきました。

 郷土史家富田義弘氏の「ひこしま昔ばなし」によると、戦前は辰岩の森には多くの五輪塔や地蔵尊が立っていたそうですが、現在は山の所々に、辰岩と同じ岩質の石が転がっている程度で特に何も見つけることが出来ません。また、同書には「与八と書かれた墓石などもあったが、戦後ほとんどなくなってしまった」と記載されていますが、与八の墓石は、現在辰岩のすぐ脇に立っています。


WEBサイト「日子の島」より転載

関連記事

Posted on 2019/03/29 Fri. 09:39 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

29

彦島の年表17 

彦島の年表17

昭和三十六年 1961年

老の山公園開設。


昭和三十七年 1962年

老の山に第一高校が開校。


昭和四十一年 1966年

福浦湾に木材港・貯木場完工。


昭和四十六年 1971年

彦島し尿処理場が操業開始。

彦島支所・公民館完成。


昭和四十九年 1974年

玄洋中学校吹奏楽部、全国優勝。

地方卸売市場、南風泊市場開設。


昭和五十年 1975年

彦島有料道路・彦島大橋完成。


昭和五十二年 1977年

彦島運動場が完成。


昭和五十五年 1980年

玄洋中学校、本村町に新築移転。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
関連記事

Posted on 2019/03/28 Thu. 10:52 [edit]

category: 彦島の年表

TB: --    CM: 0

28

立石稲荷の大石 

立石稲荷の大石


壇の浦立石稲荷神社の下、国道をへだてた海の中に大きな石があります。

形が帽子ににているため烏帽子岩ともいい、この石は立石稲荷のご神体ともいわれており、海難防止の守り神として地元の漁師たちから敬われています。


ところが、いまから六十五年前、この大石がはげしい潮の流れのため海中に倒れたことがあります。
地元の人たちは、もとにもどそうと思いましたが、あまり大きな石だったのでどうすることもできず、そのままにしておきました。

ある日、町内の老漁夫が、倒れている大石に目をやると、何か小さなものが岩にのぼっています。近寄ってよく見るとそれは狐でした。狐がまさか泳ぎにきたわけでもあるまいに、と老漁夫は別に気にもかけずにおりました。
すると、あくる日もまた狐がのぼっているのです。そしてまたその次の日も…

「うむ、これはおかしいわい。狐が何かものいいたげそうにしているが…」
と思いましたが、“さわらぬかみにたたりなし”ということもある、知らぬふりをしておこうと、狐のことは誰にも話さずにいました。

ところが、大石が海中に倒れてから十日くらいたって、壇の浦の町内にいろいろ悪いことが起こりました。
町内にたびたび火災が起こったり、風が続いて漁船が転覆するのです。それがあまりにもたびたび重なるので、しだいに町民たちも不安になって、毎日集まっては相談しましたが、なかなか名案が浮かびません。

きょうも海は荒れていました。老漁夫はしかたなしに網の手入れをしていましたが、そのうちに眠くなりついウトウトしていますと、夢枕にあのいつかの狐が現われ
「みんなして早くあの大石をおこせ、さもないと悪いことはいつまでも続くであろう」
というこわいおつげがありました。

老漁夫は、さっそく皆を集め相談した結果、すぐさま作業にとりかかることにしました。
十何人かの人夫がやとわれ、あの大石はやっとのことでおきました。
しかし、せっかくおこした大石もあくる朝には、また海中に倒れている、そんなことが何度も続いたので町内の若者たちは、
「あのおつげはうそだったんだ」
「いっそ石を粉々に打ち砕いてしまえ」
「うそつきじじいめ」
というやけっぱちな言葉をはきはじめました。

町内の人たちも老漁夫をうたがいの目でみるようになりました。
作業は中止されました。また火事は起こり、船は遭難し、けが人も出ました。

老漁夫は毎日ゆうつでしかたありません。みんなからのけものにされ、一人でしょんぼりと漁具の手入れをして暮らしました。
「あのおつげはうそだったんだろうか。狐も本当に見たし、夢もみたのだが…。いやまてよ、あのおつげは…」
老人は、ゆっくりあのおつげを思い出しました。
「みんなして早く… みんなして…」
「あっ、そうか、みんなして、町民全部が作業にくわわらなくてはいけないのだ、よそから人夫をやとったので、それで神様がおいかりになったのだ」
と、老漁夫は、町内の一軒一軒をまわり、真剣に説得して歩きました。

町民たちも、またこのじじいかと思いましたが、あまり悪いことが続いているので、
「よし、じいさん、こんど失敗したら、この町から追い出すよ」
と、約束させ、それから町内のとしよりも若いものも、女こどもまでが総がかりで石おこしの作業にとりかかりました。

大石はたちました。しかしあくる日はどうなっているのでしょう。
老漁夫は一晩中、心配でねむれませんでした。

やがて、めかり神社のうしから真赤な太陽が顔をだすころ、そろーと戸のすきまからのぞいて見ると、石はちゃんと立っているではありませんか。
「石が立ってるぞー、石がー」
と老漁夫は喜びのあまり、大声をだして町内中に知らせて走り回りました。
やがて町内のもの全員が、大石のまわりに集まり
「やっぱし、わしらの手でおこしたのがよかったんじゃ」
と口々に喜び合い、大石にしめなわを飾ったり、お酒を供えたりしてお祭りをしました。

それからというもの、火事はなくなり、あらしもおさまって、魚がたくさんとれるようになりました。
老漁夫はもちろん長生きをして、町内のものからたいせつにされたということです。


(注)
大石にしめなわをはる「しめなわ祭」の行事は昭和26年からはじめられ、毎年12月の上旬に行われています。


『下関の民話』下関教育委員会編
関連記事

Posted on 2019/03/28 Thu. 10:50 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

28

眼龍島 

眼龍島


 彦島江ノ浦沖の巌流島は、武蔵、小次郎の決闘の地として知られているが、ほかに『眼龍島』とも呼ばれ、次のような話がある。

 むかし、長門の国に、眼龍という杖術の名人が居た。杖術とは、剣の代わりに樫の丸木杖を使う武道の一つだ。
 丁度その頃、九州豊前にも、弁という太刀使いが居て、俺は天下一の剣士だ、と自慢し、ことあるごとに海を渡って来ては、眼龍の門弟たちに嫌がらせをしていた。
 そんなことが度重なって、とうとう堪忍袋の緒を切った眼龍は、弁に使いをおくり、杖術が強いか、太刀が勝るか、一度決着をつけよう、と申し込んだ。
 場所は、長門と豊前の真ん中に横たわる舟島だ。

 さて、いよいよ決闘の日が来た。

 眼龍は、長門赤間ヶ関の浜から小舟で舟島に渡った。その時、多くの弟子たちが、師と共に島に渡りたい、と申し出たが、眼龍は、
『一対一の勝負ゆえ、それには及ばぬ』と断った。
 弟子たちは仕方なく、対岸の彦島に渡って、舟島の様子を見守ることにした。そこが、今の弟子待町という所だ。

 たった一人で渡った眼龍に対して、豊前の弁は、もともと卑怯な男で、多くの弟子に囲まれて待っていた。
 いかに杖術の名人といえども、その多人数に、眼龍ひとりが、かなう筈はない。
 それでも臆せず、眼龍は正々堂々闘って敗れた。

 この試合の噂は次々にひろがり、心ある人びとの手によって、舟島に眼龍の墓が建てられ、そのうち誰いうとなく、舟島のことを眼龍島と呼ぶようになった。

 ところで試合に勝った弁は、卑劣な振舞いから、多くの弟子たちに逃げられ、道場も閉めざるを得なくなり、豊前小倉の延命寺の浜辺で、何者かに殺されてしまった。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/03/28 Thu. 10:15 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

28

彦島の年表16 

彦島の年表16

昭和二十年 1945年

三菱重工業彦島造船所、戦後県下初の賃上げスト。


昭和二十二年 1947年

彦島中学校、江の浦町に開校。


昭和二十五年 1950年

彦島警察署設置。


昭和二十六年 1951年

西山小学校、迫町に開校。


昭和二十八年 1953年

本村小学校全焼。


昭和二十九年 1954年

関彦橋、コンクリート橋に架け替え工事完成。


昭和三十年 1955年

玄洋中学校、西山町に開校。


昭和三十二年 1957年

角倉小学校、角倉町に開校。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
関連記事

Posted on 2019/03/27 Wed. 10:27 [edit]

category: 彦島の年表

TB: --    CM: 0

27

蚕種の渡来 

蚕種の渡来


忌宮神社の境内に、大自然石で“蚕種渡来の地”という碑がたてられています。

仲哀天皇さまが即位されて二年、熊襲を征伐されるため。豊浦宮を長府におかれ、仲哀天皇と、神功皇后がこの地におかれたときのことです。
その豊浦宮があったのが、今の忌宮神社のあるところですが、それから二年たった即位四年に、秦の始皇十一代の孫にあたる功満王という人が日本を訪れて、帰化しましたが、そのとき、おみやげとして珍しい蚕の卵を仲哀天皇さまに差し上げました。
蚕からは、日本の衣服として最高といわれる絹がつくられます。
その外国の蚕がはじめて日本に持ち込まれたところが、長府だったわけです。


(注)
この碑は、わが国で始めて渡来した地であることを記念して、昭和八年に大日本蚕糸会が建てたもので、戦前には、全国の絹物の商人たちが碑の前に集まり、お祭をしていたそうです。
この蚕種祭が最近また行われるようになりました。


『下関の民話』下関教育委員会編
関連記事

Posted on 2019/03/27 Wed. 09:54 [edit]

category: 下関の民話

TB: --    CM: 0

27

与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

-- 続きを読む --
関連記事

Posted on 2019/03/27 Wed. 03:27 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

TB: --    CM: 0

27