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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程4 

農業者の団体組織と生産進歩の過程4


昭和23年頃より食料事情も多少良くなりましたので、逐次作物の切り替えをおこない、生産方式も次第に進歩してきました。
彦島の農家も市場性に富み、生産量のあがる作物を中心に増産を始めました。
その代表的なものが甘藍あるいは春菜で、これの増産と並行して温室栽培も次第に盛んになりました。

温室栽培では戦前ではメロンやキュウリも作っておりましたが、戦後はあまり振るわないため、栽培技術の進歩した花卉栽培に変わりました。
野菜のうち品種改良が成功したのが、「彦島カンラン」と「彦島ハルナ」の二つで、共に登録品種として全国に名を覇せるようになりました。

現在の野菜の生産量は百万貫余であります。
これに比べて米は五百石内外、麦は四百石位でまことに淋しく感じられます。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:43 [edit]

category: ひこしま発展誌

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与次兵衛ヶ瀬 

与次兵衛ヶ瀬


 むかし、弟子待の沖、大瀬戸の海に『死の瀬』と呼ばれる暗礁がありました。この瀬は潮が満ちれば波間に隠れ、干けば現れるほどのもので、むかしから座礁騒ぎの多い所でした。

 文禄元年(1592年)七月二十二日、太閤秀吉は海外出兵のため、肥前名護屋(佐賀県)に居りましたが、母の急病を聞いて大急ぎで帰阪の途につきました。
 秀吉の御座船は日本丸といって、朱塗りに金銀をあしらい、二階建ての屋形船で、約六十メートルもある大きな船でした。

 日本丸がこの大瀬戸にさしかかった時です。どうしたことか、この海峡の航行には慣れている筈の船頭、明石与次兵衛が、その操縦を誤って御座船を死の瀬に乗り上げてしまったのです。船は大きく傾き、まさに転覆しようとしています。秀吉の家来たちは、主君を助けることも忘れて、自分の逃げ道をさがすことで、上へ下への大騒ぎになりました。

 その時、秀吉のおそばについて離れず沈着な行動をとったのが、長府の初代のお殿様で、御年わずか十四歳でした。
 長府のお殿様は、素早く秀吉を船から救い出し、暗礁の一つの岩に立って、船頭たちをはげまし、救出の命令をくだしました。
 下関のあちこちの浜辺から何十隻という船がでました。その時、一番乗りをしたのが、彦島の二代目庄屋、河野弥左衛門です。
 弥左衛門は身近に居る人びと二十人をつれて死の瀬へ向かい、岩の上で、素裸のまま、二本の大小を下帯に差して救出を舞っていた秀吉を、無事、救い出しました。
 弥左衛門はその時の功績をほめられて、秀吉から金千疋という賞金を戴き、長府のお殿様は、正四位上持従に叙せられ、羽柴の姓を貰い、さらに甲斐守と称することを許されました。
 それで終われば、すべて、めでたし、めでたし、という訳ですが、世の中というもの、なかなかそうはゆきません。

 日本丸の船頭、明石与次兵衛は、門司大里の浜で秀吉の訊問を受けました。
 与次兵衛は、こう申し立てました。
『あなたが様が頼みとしている毛利輝元公は、いまだに、事あらばという野心を抱いて居り、中国路の諸大名はことごとく毛利氏についています。今、山陽の岸に近づくことは実に危険で、だから難所とは知りながらこの瀬の外を通ろうとして、座礁いたしました』
 その時、秀吉のそばに居た従者が秀吉に耳うちしました。
『与次兵衛というのは実は仮の名で、本当は北条家の執権、松田尾張守の五男ではないでしょうか。だとすれば殿に恨みの一刀をあびせようと計ったとも考えられますが』
 その一言で、秀吉は与次兵衛の申し立てを偽証と見て、その場で打ち首にしてしまいました。


 その後、いつの頃からか、『死の瀬』のことを『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになりました。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は、いろいろな説がある。例えば『打ち首』に対して、『何のおとがめも無かったが、門司の浜で自分から切腹して果てた』というのもその一つである。
その後、寛文十年(1670年)彦島の人びとが浄財を集めて『死の瀬』に石塔を建て、『与次兵衛ヶ瀬』と名付けたという。
旧記によれば、植田惣市という人が建てたことになっているが、これが寛文十年の石塔であるかどうかは解らない。しかし、この石塔は、海峡を航行する船舶から非常に重宝がられ、いつの頃からか、通航料を置いていく船も出はじめた。
ところがこの碑も、明治四十三年、関門航路修築の際に取り除かれ、その後、大正三年以来、彦島弟子待に放置されたままであったが、いつのまにか下関唐戸桟橋近くの岸壁に移され、それからまた第四港湾建設局の構内に保管されることになった。保管といっても、いつ見てもゴロンと横にころがったままであったが、昭和二十九年、門司側が引き取って、さっさと、めかり公園に建ててしまった。
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Posted on 2019/02/26 Tue. 11:29 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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平家の一杯水 

平家の一杯水


 源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは寿永四年(1185)三月のこと。
 それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。
 瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。

 彦島の平家水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
 平家軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平家一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。
 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。

『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
 源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。

 海峡の赤間関で源平が失合(やあわせ=開戦)することになった日時を、『平家物語』は元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日とし、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島を出撃して、平家は新中納言平知盛を総大将に、およそ五百余艘が赤間関の対岸、豊前国田ノ浦に陣取り、源氏は九郎判官義経を大将に、武将たちを乗せた舟、およそ八百余艘は、満珠・干珠の沖合いに、 

 午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による。)、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。
 両軍は静かに船を進め源氏の白旗、平家の赤旗は、しだいに近づく。 やがて源平両軍の船は、その距離三十余町をへだてて相対し、平家の大将平知盛は大音声をはりあげて全軍を激励した。
 両軍の舟から一斉に矢が飛びかい矢にあたって海に落ちる者、舟を近づけ熊手を使ってひっかき落とす者、白旗、赤旗入り乱れての激戦。

 範頼軍は三万余騎(『源平盛衰記』による。)をもって陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町、三町も射かけたという。

 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗って平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

 ここで不利を悟った義経が敵船の水手(かこ)や梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。
 この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行い防御装備の貧弱な水手・梶取たちが犠牲となり、平家方の船は身動きが取れなくなった。
 戦いは初めこそ、潮流に乗った平家が互角以上に戦い優勢だったが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなった。

 やがて潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗ってこの時とばかり、ホラ貝を吹き、鐘を鳴らし、勇気を奮い起こし、勢いを盛り返して反撃にてて、平家軍を押しまくる。
 平家軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じた。

 『平家物語』には平家一門の最後の様子が描かれている。

 知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
 これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。

『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。

 剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。

 教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

 義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。
 教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平家随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だ。

 知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟(ちきょうだい)の伊賀 平内左衛門家長とともに入水した。
 敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
 漕ぎ手 を失った平家の船は進退の自由を失い、混乱しつつ壇之浦に追いつめられて、申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。)平家一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。

 栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は二十五年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
 勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。


 平家のある者は傷を受けながらも、ようやく岸にたどり着いた者もいた。
 そのうちの一人肩と足に矢を受けて海に落ち、深手を負いながらも命がけで岸 に泳ぎ着いた平家の武将は、ふと前の方を見ると山すその渚にわずかな水溜まりがあった。
 武将はのどの渇きを癒そうと、痛むからだを引きずってやっとの思いで水溜まりに近づき、手のひらにすくい、その水を一口飲んでみると、それはおいしい真水だった。
 夢中になってもう一口と、また手のひらにすくい、再び水を口にしたところ、思わず吐き出してしまった。真水は海水にかわっていたのです。

 後世の人はこれを「平家の一杯水」と呼び今に伝える。

 碑の近くの渚に湧き出る清水(火の山からの伏流水)には祠が立てられ、いまも元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。
 「更に東駆前田に入れば埋没数十年に及びしを本市技師が苦心発掘せし平家一杯水あり。」 と、下関市史(市制施行ー終戦)の観光、昭和時代に記されている。
 国道9号線沿い、海峡グルメ しずか本館の西側に「平家の一杯水」という石碑が建立されています。
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Posted on 2019/02/26 Tue. 10:59 [edit]

category: 下関の民話

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