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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程2 

農業者の団体組織と生産進歩の過程2


日露戦争後に北九州で工業が非常に発達し、人口の増加に伴いまして野菜が売れるようになったので、芋・麦の耕作を減じて野菜作りが盛んになったのであります。
迫・西山地区は砂地で野菜作りに非常に適していたので一面に野菜畑が広がり、その販路は下関はもとより北九州の各市まで及んだのであります。
これに刺激されて他の地区でも一斉に野菜作りに転換をはじめたのであります。

ところが第一次世界大戦後の全国的な好況の波に乗って、彦島に工場の進出が相次ぎ、西山にも日本金属が亜鉛の精錬所を建設することになって、あの広い野菜畑が工場となってしまったのであります。
西山だけでなく彦島各所に工場が次々にできるので、田畑はつぶされて、せっかく野菜に活路を見いだし、販路を拡大していたのが、この時期に頓挫してしまいました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/24 Sun. 12:44 [edit]

category: ひこしま発展誌

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みもすそ川 

みもすそ川


長門本平家物語の巻十八の“先帝二位殿入海給事”によると…

二位の尼が、八才になられる幼い安徳天皇をしっかりと胸に抱き、三種の神器のうちの宝剣を腰に、勾玉をを脇にはさんで一歩、二歩、歩まれると、幼帝は、
「いまからどこへ参るのか」
とおたずねになりました。すると二位の尼は、
「わが君さま、いまからやさしい仏さまがたくさんいらっしゃる弥陀の浄土へおつれいたしましょう」
と申し、決死の覚悟を決め、いよいよ身を投げようとされるとき、

  今ぞしる身もすそ川の御ながれ
   波の下にもみやこありとは

と最後の歌を残されて海底深く沈まれていかれました。

この残された歌から、むかしの人たちは、安徳天皇と二位の尼が身を沈められたところは“みもすそ川”であったと言い伝えてきました。しかし、実際には“みもすそ川”は小川であり、とても身を投げることのできる川ではありません。
みもすそ川についてのもう一つの説は天皇の血統が一筋に長く続いていることをさすのだというのです。

ところで、この川で遊女が衣類をせんたくすると“あか”がよく落ちるといわれました。うわさをきいた馬関の町屋のものがせんたくものを抱えてきましたが、さっぱり“あか”は落ちなかったということです。
つまり遊女は平家の官女が身を落とした姿であり、とうぜん遊女のせんたくするものだけに効き目があったのでしょう。


(注)
みもすそ川は、古い本に“御裳濯川”と書いてありますが、いつのころからか“御裳川”と書くようになりました。
大正十五年八月に架けられた木橋「御裳橋」がありましたが、いたみがひどく、また道路の拡張工事などで、昭和十六年三月補修されました。
なお、二位の尼は平清盛の妻ですから、安徳天皇は二位の尼にとって孫にあたります。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/24 Sun. 11:53 [edit]

category: 下関の民話

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