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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

農業者の団体組織と生産進歩の過程1 

農業者の団体組織と生産進歩の過程1

語り手 植田五作

植田五作氏は迫町において長年農業に従事され、また種々の事業を手がけられてこの地区の発展に寄与しておられる方であります。
かつて彦島の村議会議員・町議会議員としても活躍され、下関と合併後は市議会議員として市政に参与し、彦島の発展のために尽くされておられます。
一方、彦島農業協同組合の組合長として、長年農業者の発展振興のために献身しておられる、人格高潔で住民からの信望も篤い方であります。

明治の中頃までの彦島の農家は、生産物としては米麦が主体であって、それに雑穀・生姜などを交えた農業であったのであります。
これが明治末期の日露戦争のころは野菜もかなり栽培されるようになりました。
その当時の耕作面積は田が百十町歩、山林が三百町歩ぐらいで、これを耕作している農家は二百五十戸内外であったのであります。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:37 [edit]

category: ひこしま発展誌

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六人武者 

六人武者


源平合戦で敗れたのち、平家再興を願っていました中島四郎太夫正則の子と、その家来は、小門王城山に隠れていましたが、その希望も消え、ついに海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、ここを占領してしまいました。
その時上陸したところを今でも“六人武者の江良”と呼び、この島を“鬼が島”ともいいました。

六人武者の海賊は次第に力を持ち、近くの土地や舟を襲うようになりました。
そこでとうとう攻め撃つことになり、九州豊前から兵百五十人、船六十三隻が福浦の江良に上陸しました。
福浦に“六十三隻江良”という地名が残っていますが、これはその時、船が着いたところをいいます。
また南風泊の“きかんが藻”という地名は、戦が始まる前、六人武者の様子を調べに来た豊前の兵が、一隻の漁船に、
「竹ノ子島に海賊はいるか」
と、たずねたところ、その漁師は後の祟りが恐ろしいので、何をたずねられても“聞かぬ、聞かぬ”というふうに首を振って答えなかったところからつけられたといわれます。

さて、いよいよ竹ノ子島の戦となりました。
百五十人対六人でしたが、六人の武者は、いろいろな戦法で敵を引っ掻き回し、さんざん懲らしめ、豊前側の死傷者はみるまに増えていきました。
“鶴の江良”“仁蔵の江良”という地名は、その時六人武者から殺された、鶴五郎、仁蔵の死んだ場所といわれます。
こうして総崩れした敵兵は、あわてふためいて田の首の岬まで逃れ、ようやく豊前方の助け舟に乗り、九州に逃げ帰りました。

六人武者は、これ以上追い討ちはしませんでしたが、この戦で勇敢に戦って死んだ、鶴五郎、仁蔵の首をこの地に埋め、手厚く供養しました。
“田の首”の地名はそこからきているといわれます。

その後、六人武者は、ひとまず王城山に引きあげましたが、今度の戦で、平家残党ということが知れたため、必ず大きな逆襲のあることを予想し、五人の家来は、それぞれ姿を変えて、遠くの地へ別れ別れに離れていき、四郎太夫の子だけが、この地に残り、のちついに漁師となって一生を送ったということです。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:25 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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引接寺の龍 

引接寺の龍


江戸時代の終わりごろの話です。

引接寺の山門を下って出たところは、外浜の浜で、ここは当時山陽道の終着駅として本土から九州へいたる重要な土地でありました。
したがって船番所もあり、旅館もたくさん軒をならべていました。

ある年のことです。
夜中の二時ごろ、引接寺の石段下で通りがかりの旅人が、何者かのために殺されてしまいました。
番所の役人がやっきになって犯人を捜しましたが、とうとう見つかりません。
殺された旅人のふところにはお金が残っており、ものとりの仕業ではないとすると、鬼か大蛇の仕業だという噂がたち、近所の人は危害を恐れて、日暮れともなれば雨戸をしっかりと閉めてしまうありさまです。

それから何度となく同じ時間、同じ場所で人が殺され、土地の人を恐怖のどん底におとしいれました。

そうしたあるとき、船着場の旅館に泊まっていた侍が、女中からその話を聞かされました。
侍は、みるからに強そうな男で、その話を聞くと
「それはおもしろそうじゃのう。よし、拙者がひとつ退治してやろうかのぅ…」
「おやめくだされ、めっそうもない。いくらあなたが強くても、相手は正体もわからぬ怪物…、殺されにいくだけですよ」
「まあそう心配するな」
と侍は、女中から着物を借り、夜中の一時過ぎから怪物退治にでかけました。

いつも怪物が現れるという、午前二時の丑の刻が迫ってきました。
大胆なその侍は、わざと怪物に目立つように女中から借りた着物を頭からかぶり、石段下の広場に立ちました。
やがて生ぬるい風がどこからともなく吹き、シャー、シャーという音がしてきました。
そすがの侍も少し緊張して、刀の柄に手をかけ、いつでも抜けるかまえをとりました。

そのときです。
パッと黒い大きなものが侍めがけて襲ってきました。
侍はとっさに腰をひねると、目にもとまらぬ早業で刀を抜き、怪物めがけて切りつけました。
確かに手ごたえがあったとみえ、熱気の中にものすごいうめき声が聞こえました。
侍はさらに二振り目をおろそうとしましたが、しかしその時にはすでに怪物の姿は見えませんでした。

あくる朝早く、侍がお寺の下の広場に来てみると、黒々と流れている血筋が、お寺の方に向かって石段をはいあがっています。
その血の跡をたどっていくと、ちょうど山門の下で消えて…

不思議に思って、ふと山門の天井を見上げると、そこに彫り込んである龍の胴体が真っ二つに割れているではありませんか…。

毎夜人を殺していた怪物は、実はこの龍であったということが、これではっきりわかりました。


(注)
戦災で引接寺は焼けましたが、山門だけは今でも昔のままの姿で残っています。
そして龍は真っ二つになった胴体を山門の天井に巻きつけています。
昔からこの龍は、喉が渇くとよく用水に飲みに出るといわれたくらい、彫刻は非常に立派で、一部の人はこの彫刻を江戸時代の名工左甚五郎の作といっていますが本当のことはわかりません。
その真っ二つになった切り口も、実は二つの木を継ぎ合わせたものですが、あまりに立派な龍の彫刻なので、このような伝説ができたのでしょう。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/22 Fri. 11:13 [edit]

category: 下関の民話

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