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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

人口増加の趨勢について2 

人口増加の趨勢について2


彦島が独立しました明治22年の戸数・人口については、第二次世界大戦で下関市役所が空襲を受けて、彦島の記録が焼失してしまったので正確な数は分かりませんが、おおよそ戸数500戸、人口3500人程度の農漁村でありました。
明治40年にいたり戸数1516戸、人口6554人となりました。

当初村役場庁舎は本村の民家を借り入れてこれに充てていたのでありますが、42年に現在の庁舎を新築し同43年に移転いたしました。
その時の戸数は1529戸、人口が8584人でありました。

このころから彦島工業化が進み、やがて神戸以西の西日本屈指の大工業地帯となり、戸数・人口とも飛躍的に増加したのであります。
この工場進出について申し上げますと、明治38年に福浦に大日本人造肥料株式会社、現在の日東硫曹が建設され、続いて大正3年12月に江の浦の三菱合資会社の埋め立てに、同社船舶部彦島造船所が建設され、同じく大正5年の3月には西山に日本金属株式会社彦島精錬所の建設、同5年10月に老に林兼商店が鉄工所を建設、なお冷蔵庫ならびに製缶部、製鋼部を新設いたしました。
その後も小工場の施設が続々と増えまして、人口も著しく増加し大正10年10月の町制施行時の戸数は3543戸、人口は15922人となりました。

大正12年、字迫にクロード式窒業株式会社の建設がありました。
かくのごとく大工場の新設でますます人口が増え、大正15年の調査によりますと、戸数は4147戸、人口は18140人となりました。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/20 Wed. 11:02 [edit]

category: ひこしま発展誌

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関門トンネルと惣の話 

関門トンネルと惣の話


 彦島の弟子待に、惣とよばれる、変わり者が住んでおった。
 なぜ惣とよばれるのか、だれも知らん、名まえが惣吉か、惣太郎か、惣兵衛かの、どれかじゃろうという人もあるが、『うん、そうそう』というのが口ぐせじゃったけぇ、それで惣とよんだのかもしれん。


 明治のおわりごろ、下関海峡(いまの関門海峡)にトンネルが掘られるという話が伝えられて、人びとは喜んだ。
『トンネルができたら、九州へはひとっぱしりで行けるけえ、便利になるのう』
『ほいでも、トンネルの中を汽車が走って、大丈夫じゃろうか』
 そんな話が、あちらこちらでささやかれたものじゃが、変わり者の惣は、噂の仲間にはいっても、最期までぶすっとした顔で聞いておって、ひとこと、にくまれ口をいうんじゃ。
『トンネルが、なにがええもんか、どうせつくるんなら、橋じゃ』

 明治がおわって大正になっても、トンネルの話は、いっこう進まんで、そのまま昭和にはいった。しかし、どうしても本州と九州をむすぶトンネルは必要じゃというわけで、十一年(1936年)の秋、ようやく工事が始まった。
 トンネルを掘りはじめた日の夜は、下関でも門司でも、提灯行列があって、それはそれは賑やかじゃった。

 ところが惣は、提灯行列の人びとをつかまえては、
『トンネルよりも橋のほうが、なんぼかええ。つくるんなら橋じゃ』
 と、言うて回った。よく聞いてみると、惣の言い分は、こうじゃ。

 トンネルより橋のほうが、安くできる。また、巌流島のちかくに穴を掘ると、宮本武蔵に負けた佐々木小次郎の恨みが、トンネルに乗り移る。巌流島のそばには死の瀬と呼ばれる恐ろしい岩礁もあって、いままでそこで沈んだ、たくさんの船乗りたちの怨霊が、トンネル工事を邪魔するぞ…


 そのうち惣は、兵隊にとられて、中国の戦場へ出ていった。

 やがてアメリカとの戦争も始まったが、トンネル工事は進められた。そして昭和十七年にトンネルが開通して、十一月十五日、電気機関車に引っ張られた列車が、トンネルを抜けていった。
 その日は、下関駅にも、門司駅にも、それからトンネルの入り口にも、何万人もの人が集まって
『ばんざあい、ばんざあい』
 と、旗を振ったものじゃ。

 ところが、その人ごもの中に、惣がおったと、誰かが言いだした。見た人は、一人だけじゃない。
『うん、わしも見た』
 惣に気づいたという人は、次から次にあらわれた。そのころ惣は、本当に戦地へ行っておったんじゃがのう。
 ある人などは、人ごみの中で、惣と口まできいておって、
『むりをしてトンネルを掘ったけえ、三十二人も死んでしもおたじゃろうが』
 と、恨みごとまで言われたというけえ、なんとなく不気味な話じゃ。げんに(じっさいに)トンネル掘りはたいへんな難工事で、出来あがねまでに三十二人の死者をだしておった。


 また、それからまもなくのこと、下関のタクシーが駅前で、ひとりの工夫を乗せた。
『トンネルの入り口の少し向こうまで』
 そう言われて運転手は、だまって車を走らせたが、しばらく行くと客が、ぼそっと、ひとりごとを言うたんじゃ。
『ほんとうは、橋のほうがええんじゃが…』
『ええっ、お客さん、どこの橋ですか』
 行き先を変えろ、と言われたのかと思うて、運転手が聞きかえすと、
『まあ、トンネルでもええ』
 と言うたきりで、客は静かになった。眠っておるんじゃろうと思うておったが、トンネルのちかくまで来たので、運転手はもう一度、行くさきを確かめようと、うしろをふり返っておどろいた。

 座席には、誰も居ないんじゃ。運転手は、ぞぅっとして、がたがたふるえたそうじゃ。
『たしかに乗せましたよ。トンネル掘りのドリルのようなものを持っておって、うす気味わるいほど沈んだ顔をしておりましたがね』


 戦争がおわって、戦地からはたくさんの兵隊が帰って来たが、惣が元気で戻ったのかどうかは、誰も知らん。

 いまじゃあ、関門橋も出来あがったことやから、もし生きていりあ、大喜びじゃろうのう。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
偕成社版の『山口県の民話』に、日本民俗学会の松岡利夫氏は、『関門トンネルが掘られる当時から、トンネルより橋をと考える人びとが下関の一部にはいたのでしょう。そうした気持ちがたまたま「惣」という男をかりて世間話としてひろがっていったものかと思われます』と解説されている。
下関でもあまり知られていないこの話について『岩国市で聞いたことがあります』と、日本子どもの本研究会の稲生慧氏に聞き、この種の話の広がりを知って驚いたことがある。
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Posted on 2019/02/20 Wed. 11:00 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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青山の馬姫 

青山の馬姫


勝山にある青山は、むかし篠と蓬におおわれた草山でした。

村人たちは、毎年冬の終わりに野焼きをしますが、こうすると春になって若草が元気よく伸びだし、またたくまに山全体を緑でつつむようになります。
そして、この若草を牛や馬の飼料にするため、形山村の若者たちは、毎朝早くから草刈に登りました。

そして、お昼のにぎりめいを食べ終わると、やわらかい草の上に寝そべり、村のおもしろい話や、そこから見える豊前や門司の町の様子などを楽しそうに話しました。
しかし一人だけ、みんなから離れて、まだにぎりめしをほうばっている若者がいました。
この若者はよその国から流れてきて、下男として働いている茂作という男でした。
茂作は体が大きく働き者でしたが、気が小さく動作がのろいので、いつもみんなから馬鹿にされ“モッソリ”というあだ名で呼ばれていました。

ある日の朝、まだ空に星が消えないころに目を覚ました茂作は、馬小屋から孫太郎を引き出して青山に登りました。
もちろん、誰も来ていません。さっそく茂作は草刈をはじめました。
やがて茂作の背から、真っ赤なお日様がのぼりはじめるころ、馬の背には、もうほとんどいっぱいに草が積まれていました。
それからしばらくして、茂作は自分の背にもいっぱいの草を背負い、山をおりはじめたのです。

ちょうどその時です。
村では評判の美しくて気立ての良いお登代が目の前に立っていました。
お登代は、働き者の茂作に密かに思いを寄せていましたから、今朝早く山へ登っていく茂作を見て、登代はみんなより先に山に登ってきたのです。
「茂作さん、おはよう…」
と、あいさつをしましたが、茂作は日ごろ村人に道に出会っても、ものを言うことができない“ヨソ者”それに、だれもいない山中のことで、驚きと恥ずかしさで、何も言わず大急ぎで孫太郎にムチをあて山をおりはじめました。
しかし孫太郎は、背負った草の重さと急な山道ではどうすることもできず、足を踏み外して崖から落ち、かわいそうに死んでしまいました。

茂作は呆然としていました。
大事な馬を殺しては主人からどんな仕打ちをうけるか知れません。
孫太郎が落ちた崖に座って、ぼんやり考え込んでいました。登代も茂作のそばに座り、何度もなぐさめますが、茂作にはいっこう聞こえるふうではありません。
やがて下のほうから登ってくる若者たちの姿に気がつかなければ、茂作はいつまでもぼんやりそこに座っていました。

若者たちの賑やかな声が近づいてきました。
茂作は、ハッとして大急ぎで山をおりはじめました。若者たちは、駆け下りていく茂作を見て、
「おーう、モッソリ。なにを急いでいるのだ。もちっと、モッソリ、モッソリ歩かんかい」
と、冷やかしました。
しかし、若者たちは、そこにお登代の姿を見つけて急にだまってしまいました。
それは、お登代の美しい目に、涙がいまにもこぼれそうにあふれていたからです。

茂作は、だれにも知られずに村を去りました。

お登代も“ヨソ者”の茂作が好きだったことが、村人たちの噂にのぼることを恐れ、青山から身を投げて死んでしまいました。

そのお登代の霊は、馬に生まれ変わり“青山の馬姫”として、村人たちは不思議な馬を見るようになりました。
ところが“青山の馬姫”のいななきを、ほかの馬が聞いてなくと、必ずその馬は死んでしまいます。
そこで村の人は、青山の馬姫のいななきを、自分の馬に聞かすまいと、馬の耳にたくさんの鈴をつけて野にでるようになったということです。


(注)
茂作の引いていた足を踏み外した岩は、今は馬不越(うまこえず)の岩と語りつたえられています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/20 Wed. 10:31 [edit]

category: 下関の民話

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