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彦島のけしき

山口県下関市彦島から、風景・歴史・ものがたりなど…

青年の自主的修養の時代3 

青年の自主的修養の時代3


以上の「泊まり宿」の風習は封建的との謗りもありましょうが、人間的に完成することには非常に効果があったものだと思われます。
しかるに日進月歩の文化の進歩は、この島の交通事情にも影響をおよぼし、外部との人的交流も繁くなるにつれ「泊まり宿」の習慣も下火となり、大正時代の初め遂にその姿を消すことになりました。

明治43年には青年団が組織されました。
この組織は青年の意欲にマッチしたのか、またはマッチしなかったのかわかりませんが、容易に成績があがらず、県の訓令によって、団則や年令等に種々改革を重ねたものであります。
しかし、青年の自主的な修養涵養の機会は大変少なくなったのであります。

「泊まり宿」の風習は、時代遅れの旧式な方法とみることもできましょうが、昭和の現在、青少年の不良化を強く憂慮されております今日、この育成補導のうえから深く考察されるべきことではありますまいか。
この「泊まり宿」のしきたりは、彦島では各部落で行われていたようでありますが、二、三の部落によっては、有力者の熱意が過剰となり、ボス的な縄張り意識を持って、縁組関係にまで排他的になる事態が生じる等、弊害が著しいため廃止になった例もあります。

良いものが良いままで永続できにくいことは、いつの時代でも起こりがちなことではないでしょうか。


古老が語る郷土の今昔「ひこしま発展誌」より
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Posted on 2019/02/18 Mon. 11:52 [edit]

category: ひこしま発展誌

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手取り鑵子(てとりかんす) 

手取り鑵子(てとりかんす)


 西山の海岸は、新生代第三紀層(約三千万年前)から成って居り、奇岩怪奇勝の連続ですが、あまり知られてはいません。
 青海島よりも、また、東尋坊よりも、そりゃ素晴らしい、と島の古老たちは自慢しています。

 その、西山の舞子島の近くに『手取りカンス』と呼ばれる怪崖の洞窟があります。多年の風化作用によって、穴の中にはいろいろな形をしたものがぶらさがっています。

 むかし、その中に、茶釜そっくりのものがぶらさがっていて、まるで金で作られたもののように、キラキラ光っていました。
 里びとたちは、これは神様が作って下さったものだ、と有り難がって日夜、参拝を欠かさず大切にしていましたが、ある日、小倉平松の漁師がこれを見つけました。
『この茶釜は見事だ。持って帰って家の宝にしよう』
 と、茶釜をもぎ取り、船に積んで帰りかけたところ、俄かに海が荒れて、漁師も急に腹痛をもよおし、ガマン出来なくなってしまいました。

 恐れおののいた漁師は、茶釜を海に投げ捨て、大急ぎで小倉へ帰りました。すると不思議なことに、嵐も腹痛もおさまったということです。

 このあたりでは、茶釜のことを『鑵子』とも言いますので、その後、この岩屋のことを、誰いうとなく『手取りカンス』と呼ぶようになったと言われています。


富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より

(注)
この話は『馬関太平記』では、小倉の長浜の漁師、となって居り、さらに、茶釜では無く、『叩けばガンとなる鐘がさがっていた』と書かれている。しかし、あとの話は殆ど同じである。
尚、鑵子については、古老たちはいずれも『茶釜のことを彦島ではカンスと云うておったが…』と付け加えている。
しかし、鑵子は茶鑵とも呼ばれ、茶の湯に使う茶釜のことである。別に真鍮のものもあるようだ。従って『カンス』は、何もこの地方の方言ではないわけである。
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Posted on 2019/02/18 Mon. 11:40 [edit]

category: ひこしま昔ばなし

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穴門 

穴門


下関という地名の古い呼び方に“穴門”(あなと・穴戸とも書く)があります。
穴門というのは、もともと早鞆の海峡のことをいうのですが、ある説によると、今から1800年くらい前に三韓に兵を出したとき陸続きだった土地を、仲哀天皇が六年の歳月をかけて、掘り下げ、いまの海峡にしたといいます。

また別の説によりますと、もともと陸続きでしたが、その下に、わずかに水門のような穴が通じて、潮が流れていたため“穴戸”といったとあります。
そして、神功皇后が三韓に兵を進められる途中、豊浦の浜(長府の浜)からここを通過するとき、軍船が通れないので天地の神様にお願いしたところ、この穴戸の陸地は左右に開き、山の一部が西の海中に沈んで“引き島”(いまの彦島)になったといいます。


(注)
上代の頃、村の名を好い名に改めるようにという令が出され、“穴”という暗い感じから“長”という明るい感じの字に改め、“長門の国”となったとも云われています。


『下関の民話』下関教育委員会編
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Posted on 2019/02/18 Mon. 11:17 [edit]

category: 下関の民話

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